2007年5月8日火曜日

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修正史観の罠

 


「マクラッシュ」と呼ばれたのは今は昔?

こんな時間にもかかわらず、ネタの神降臨マクレーということで……(無理がありすぎ)。

まずは、某「謎の連載」がストップしてしまっていて申し訳ありません。加藤寛一郎先生とはある意味で対局の、ではなくて対極の立場にある藤田日出男氏の著作に目を通すから……というのがその理由でして、実際にぼちぼちと目を通しているところだったりします。最近、書物に目を通す時間がホント取れなくて(どうにも頭の具合が良くなくて。老化が激しいんでしょうかね;;)、申し訳ないことこの上ないのですが……。

つい先日なんか、「話題に乗り気になる様子」=「○○を進める」という問題がわからなくて、Yahoo!辞書で調べちゃったくらいですからね……。耄碌するって嫌なものです(w

やっぱ「修正」があるとがっかりしますね(ぇ

さて……。降臨されたネタの神が授けて下すったネタなんですが、「修正史観」という考え方について、です。「聞いたことがある」という方もいらっしゃれば、「何じゃそれ? 食えるのか?」という感想を持たれる方もいらっしゃるのかな、などと思うのですが、さてさて……(「さてが多い

Wikipedia には、「歴史修正主義」という名前のエントリがあります。著作権法の許す限り…… でなくてもいいんだな、Wikipedia の場合は。とにかく、さくっと引用してみます。

歴史修正主義れきししゅうせいしゅぎ)とは、一般的には客観的・論理的・科学的・学問的に構築された歴史モデルから逸脱し、特定のイデオロギーに沿って独自の修正を加える思想・歴史観のことを指すとされる。これらはある特定の歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いられるという指摘もある。また、単純に主流派の学説を批判するものは歴史修正主義者、それに対して反論する主流派を反歴史修正主義者と呼ぶ事も出来るが、実際には反対の例も在るため一様ではない。通常、歴史家は自らのモデルを歴史修正主義と呼称するのは希である。英語の revisionism そのままにリヴィジョニズムリビジョニズム)と呼ぶ場合も少なくない。歴史的修正主義とも呼ばれる。

ちょーっと長いですね。しかも、まぁ、文章としては正しいんですけど、ちょっと冗長な印象も……。私個人のとらえ方としては、「特定のイデオロギー」に左右されずとも、既存の歴史観をひっくり返す事を企図した、新たな歴史観のことを、全般に「修正主義史観」と呼びたい、と考えています。

修正史観の例

その例は、上記のページにもいくつか例が示されていますが、例えば、日本関連ですと「南京大虐殺はなかった」といった論調のものや、「満州事変は中国共産党の陰謀」とか、「フランクリン・ローズヴェルトは真珠湾攻撃を事前に知っていた」とか、その手の類の論調です。イデオロギーがあまり絡まないものとしては、例えば、古田武彦の「九州王朝が存在した」なんてのも、立派な修正史観ですね。

「九州王朝」はまぁいいとして、ほかの三つを全て「修正史観だ」と断言するものではありません。まぁ、さすがに南京大虐殺が全くの幻だったとも思えませんが……。

修正史観の罠

ヒトという生き物は、知識欲の固まりみたいなところがありまして(某嬢みたく、ね)、自分の知らないことを知りたがり、また、他者の知らないことを知りたがる(他者よりも知識面で優位に立ちたい)という願望が、潜在的に存在する、と感じています。そして、「修正史観」という考え方は、この「心理的な欲求」に対して、あまりに魅力的な餌となるように思います。

例えば、真珠湾攻撃について、「おい知ってるか真珠湾攻撃では日本が一方的に悪者にされてるけど実はアメリカは知っとったらしいで」と話を振れば、「へぇーほんまなん? 誰に聞いたん?」という反応が返ってきても不思議は無いわけで。そこですかさず「○○大学の先生が言うとった」と答えると、話を振ったほうは、何とも言えない優越感のような、満足感のような感情に浸ることができるわけです。「自分は真実を広めたんだ」といったカタルシスに似た感覚ですね。実際には勘違い甚だしい場合が少なからずあるのですが……。

「栄光ある孤立」であり続けたい

修正史観の怖いところは、ここにあります。つまり、ヒトは何かしらの新しいネタを、知らず知らずのうちに日々追い求めてしまっていて、たとえ見え透いたウソであっても、ヒトの好奇心(や自尊心)をくすぐることができれば、ウソもマコトになってしまう、という危険性を内包しているように思えるのです。そういった意味では、新興宗教とも通じるものがありますね。

こういった修正史観を唱える人は、アジテーターとしての能力に長けた人が多く、また、ディベートが得意な場合もあります。要するに、「口がうまい」と手がつけられない、ということですね。

そういったわけで、「修正史観の」に陥ることが無いように、あらゆる情報に対して「客観的」かつ「批判的」にあろうと、無駄な努力を積み重ねている日々だったりします。藤田氏の著作も、見方によっては「体制による巨悪」を告発せんとする姿勢も垣間見られるわけで、一方的に信じてしまってはいけないな、と、慎重に、慎重にページを繰っているところだったりします(最後は言い訳かよ

藤田氏らをして「政治的に動く人だ」と言わしめた加藤先生の著作についても、同様の批評眼を通して見ている……つもりですので念のため。

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