2007年5月26日土曜日

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国民総幸福量とぽんずしょうゆの関係について

 


しあわせのかたち

幸せ」とは何か。この高尚かつ深遠なる命題に対して、明確な答を導き出した思想家がいたことは、今日ではあまり知られていない。その思想家の名前は「杉本高文」と言い、20 世紀の奈良県が生み出したもっとも偉大な思想家とも言われている。

杉本の思想は、実に単純明快であることが知られている。それは「幸せ」=「ぽんずしょうゆのある家(うち)」とするものであったが、同時に「ぽんずしょうゆは亀甲萬」と付け足すことを忘れなかったことも念頭に置かなければならない。

実際、このことから、杉本と亀甲萬の関係を疑う者も少なからず存在した。曰く、「杉本は亀甲萬の広告塔に過ぎない」との批評である。今日では、この考え方が説得力を持って語られることが多い。

クレタ人曰く、「クレタ人はウソつきである」

杉本の思想に批判的な向きからは、別の視点からの批評を試みる者もいる。つまり、果たして「ぽんずしょうゆ」があるだけで、本当にそれが幸せと言えるのか、という指摘である。もっとも、「幸せ」という、定性的なようでいて明確なる定義を持たない状態かどうかを明確に判断することは、「クレタ人はウソつきである」というパラドックスに真贋をつけることと同じくらい、実は難易度が高いのかもしれない。

また、実際問題として、日本の家庭における、亀甲萬の「ぽんずしょうゆ」の普及率が、決して絶対的ではなく、むしろ「絶対的」と言うにはほど遠いことをどう考えるかという指摘もある。ただ、これについては、「一億総中流」の幻想が瓦解した今だからこそ、多くの家庭が「ぽんずしょうゆ」ではなく、例えばミツカンの「味ぽん」を選択するなど、国民の嗜好が多様性を見せるとともに「格差社会」が生まれていった、との見方もあり、日本の現状は、むしろ杉本の思想の正確性を後押しする形ともなっている。杉本を批判する勢力にとっては、あまり面白くない現象とも言えよう。

杉本の思想の宗教性について

そもそもが抽象的な概念とも言えなくない「幸せ」について、果たして「ぽんずしょうゆ」なる「市販の製品」を購入するだけで、それを得ることができるのか、というもっともな指摘もある。つまり、「ぽんずしょうゆ」は「水晶玉」や「霊験あらたかな壺」と同類ではないか、との批判である。ただ、これについては「あまりに末端価格が違いすぎるため、同類にすべきではない」との考え方が一般的であるため、現在では問題とされることは多くない。

逆に、「ぽんずしょうゆ」の市価が「高くない」ことを問題視するむきもある。つまり、「そんなに簡単に幸せを手に入れられては、『幸せ』のインフレを招くのではないか」との考え方である。実際、日本国内の一般家庭の 11.3 % が「ぽんずしょうゆ」を購入することで、国民総幸福量が、その「本家」たるブータン王国を超えてしまう、との指摘もあり、新たな国際的な摩擦が増大してしまう、との批判もある。

Ha=H+PS

以上のように、杉本の思想については、それが極めて簡略な形で示されているからこその批判が絶えない。しかしながら、過去の歴史を振り返っても、例えばアルベルト・アインシュタインの「エネルギー質量保存則」(いわゆる、E=mc2 の公式)のように、画期的かつ単純明快に示された大発見も少なくない。杉本の功績についても、いずれ再評価される可能性がゼロではないことを念頭に置いておくべきだろう。

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