2007年6月22日金曜日

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カバー(楽曲)の愉しみ

 


夏至ですが、それはあっさりとさておきまして。

カバーの愉しみ

突然ですが、カバーというものは面白いものですね。書店によってデザインが違ったり、アマゾンで買うとついてこなくて寂しい思いをしたり……と、お決まりのボケ……じゃなくて「ミス・ディレクション」は、ここいらで切り上げておきましょう。

「カバー」についての詳細は、Wikipedia の記事をご覧ください……って、まだやるか。えーと、件の記事の中では、「カバー(楽曲)」というサブカテゴリで記されている内容が、本来、話題にしたかった内容でした。

まぁ、こうやって無駄に脱線するのは、「文字数稼ぎ」という意味も無くはないのですが、これが意外と別のネタに流れ着くこともあって、なかなか侮れないものなのです。というか、私の脳内が常にそんな感じなんですよね。とにかく脱線が多い。

良く言えば、それだけ周囲の情報を貪欲に取り込もうとする、ということですね。ただ、当然ながら私個人の能力なんて多寡が知れているわけで、大抵の情報は、消化不良を起こしているのですけどね。

カバー(楽曲)の愉しみ

ま、そーゆーわけで、楽曲の世界における「カバー」についてだらだらと。昔は、英語表記そのまま「カバー・バージョン」と言ったものですが、最近はすっかりこの言葉を聞かなくなりましたね。「言葉は生き物だ」ということが、こういう実例を目にするとよーくわかりますね(ほらまた脱線した

日本語大好き日本人の歌」、すなわち「邦楽」のマーケットが大きい日本市場においては、いわゆる「洋楽」をローカライズするというのが、もっとも簡単な「カバー」ですね。昔だとボニー・タイラーの「ヒーロー」とか、最近だとリッキー・マーティンの「Livin’ La Vida Loca」とかがこれにあたります。これはわかりやすいですね。

呻く Somewhere

もちろん、単なるローカライズに留まらない「カバー」もあるわけで、例えばイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を、あのジプシー・キングスが、一部スペイン語に翻訳した上でカバーした、というケースがありました(2/3 の記事もどうぞ)。

これは、原曲のエッセンスをまるごと拝借しながら、自らの音楽性(最近あまり聞かない言葉ですが、もしや死語ですか?)に落とし込むことでその妙を愉しむという、一種の「お遊び」と言えますね。同じ路線では、トム・ウェイツの「Somewhere」があります。ウェスト・サイド・ストーリーアレを、トム・ウェイツがあのしゃがれ声熱唱するわけで、頬が弛まずにはおれないでしょう、普通は。

I think it's gonna be all right...

ただ、ジプシー・キングスやトム・ウェイツのような、見方によっては「ネタ」としか取られないようなものではなく、原曲のアイディアをちゃっかりと拝借しながら、きちんとオリジナリティあふれる楽曲として組み立てているケースもあるわけで……。例えばスウィートボックスの「Everything’s Gonna Be Alright」なんかは、確かに原曲はバッハの「G 線上のアリア」ですが、バッハの存在を抜きにしても、十分楽曲として楽しめる出来になっていますね。

In the night...

さすがの私も、「G 線上のアリア」のメロディーラインは何となくわかるので、「Everything’s ~」が何をモチーフにしているかは直ぐにわかったのですが、例えばサラ・ブライトマンの「夜の踊り」(原題:Dans La Nuit... 怖ろしい誤訳の匂いがそこはかとなく漂うのは、この際無視しようではないか)が、実はショパンのエチュードの「別れの歌」だったとか、同じくサラ・ブライトマンの「La Luna」が、ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」の、「月に寄せるアリア」そのまんま、なんてことは、知らない人も多いと思うのですね(いくら自分が知らなかったからって……

ま、そゆことで寂しい思いをするのもアレなので、最近ぽつぽつとクラシックを聴くようになった、という話もあります。「月に寄せるアリア」から「雌犬のハーレイ」まで、音楽とはかくも幅広く、奥が深いものですね(それがオチですか

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