2007年6月27日水曜日

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「知らぬが仏」という言葉は卓見かもしれませんね

 


いやー、参っちゃいましたよ……。熱田神宮じゃないですよ(ぇ

昨日は、ちぃとばかし、いや、かなりの失態を見せてしまいましてですね……。ええ、仕事ではなく、プライベートでのことなんですが。まぁ、落ち着いて考えたならば、一種のヒステリーのようなものなんでしょうね……。自分で自分の感情が抑えられなくなるってのは、これ、なかなかつらいものですよ。

まぁ、今までも(と言っても、某病気になったことを自覚してからですが)、自分の感情を制御することに苦労することが、たまーにあったのですが、昨日は酷かったですね……。なんと言うのでしょう、歴史小説なんかで「憤死」って言葉が出てくることがあるじゃないですか。なんかその、憤死する人の心境がわかったような、そんな気がしました。

トランス、とかそんなのとは違う経験ですが

人生、のうのうと生きているだけで、いろんな体験ができるものですね。俗に「アーティスト」と呼ばれる人なんかで、良からぬ薬妙なキノコに手を伸ばす人がいますけど、その気持ちも、ほんの少しだけわかったような気がします。もちろん、良からぬ薬妙なキノコは、人体や精神に及ぼす影響が甚大であるからこそ、法によって規制されているわけで、わざわざそのためだけにオランダに行こうなどとは、思わないですけどね。らもさんじゃ無いんですから。

風呂場でリラックスすると、新たな発想が湧いてきませんか?

で、昨日の晩に風呂に入っていて考えていたことなのですが、「確かで無いもの」と「悩み」には相関関係がある、というか、累乗の関係にあるのではないか、と。「悩み」を「不安」と置き換えると、より説得力を帯びてくるかもしれません。

1 たす 1」が 2 なのは、多くの人にとっては当たり前の事実です。でも、仮に、それが無条件に真 (true) で無いとわかってしまったならば……。常に「1 たす 1」が 2 であるかを論証しつつ、人生を生きていかなければならないわけです。なんだか哲学チックな話になっているような気もしますが、私は「哲学」がどんな学問かさっぱりわからないので、この話はこの辺で(ぇ

無知の知」なんて概念(?)がありますよね。この概念は、とても素晴らしい考えだと思いますし、ある意味では真実を突いていると思うのです。「知らない」ということを「識る」ことは、人間としてのキャパシティを大きくする、とでも言うのでしょうか。あえて言うならば、「天狗になる」という言葉が対照的かもしれませんね。

「知らぬが仏」という言葉は卓見かもしれませんね

何が言いたいかといいますと、ひたすら知識を追い求めることが、果たして幸せなのか、ということです。新たな知見を得ることは、その人の「世界」を拡げるわけですね。たとえば、一生を北極圏で暮らすイヌイットの人たちは、アメリカによるイラク統治が泥沼化していることを知るよしも無いわけで、また、知る必要も無いわけですね。結果として、心を痛めることも無くなるわけです。

我々は、なまじ世界中の知識や情報に触れることができてしまうわけで、例えば「北朝鮮」や「中国」のような、言論統制まがい(いや、言論統制そのもの、ですかね)の検閲がまかり通っている国家の国民よりは、より多くの情報を得ることができている筈です。ただ、果たしてそれが無条件に幸せなのかどうか。

知らぬが仏」という格言がありますが、この格言は案外、いい線を突いているのかもしれません。知識を貪欲に吸収するのも、無条件に褒められたものではない、ということですね。キャパの小さい私なんかだと、抱えきれない悩み事を背負い込んで、潰れてしまいそうになりますから。

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