2007年7月1日日曜日

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小笠原に責任者は出てきたか

 


夏真っ盛りですね(だからどうした)。

小笠原に責任者は出てきたか

えーと、ちと前に録画しておいた、NHK アーカイブスの「人生航路 小笠原」を見ました。人生幸朗ではなかったので、責任者は出てきませんでした(当たり前

ま、それにしても、自分が「小笠原」について知らないことばかりで、多少恥ずかしくなりました。「小笠原と言えば、確か宇喜多秀家が流刑になった所だよな」などと、ナイスなボケもかましてしまいましたし(それって「八丈島」だよね)。うぅーむ。

小笠原に原住民は存在したか

いまは、日本国は東京都に所属する小笠原諸島。ただ、小笠原がいつから日本の領土になったかと言うと、いつもの Wikipedia の記事の受け売りですが、江戸時代中期からのようですね。ただ、当時の小笠原諸島は無人島で、この地に人が定住するようになったのは 19 世紀の頃だそうです。

しかも、意外なことに、小笠原諸島に(近代になってから)最初に入植したのは、白人 5 人とハワイ人 25 人だったそうで。こういった歴史的な経緯もあり、小笠原諸島には、「白人系」の人たちが少なからずいらっしゃるそうです。国籍自体は 1876 年に日本の領有が確定したこともあり(1827 年にはイギリスも領有を宣言したそうですが)、日本国籍になったわけですが、ずっと欧米風の名前を名乗っていたそうですね。太平洋戦争末期に「敵性言語」狩りが行われるまでは……。

「敵性言語」狩りは皆さんも良くご存じですよね。野球の「ストライク」「ボール」が「良し」「駄目」になったアレのことです。

小笠原にクリント・イーストウッドの姿はあったか

で、その、太平洋戦争末期、小笠原諸島も米軍の進攻により(「侵攻」って変換しそうになりましたが、「進攻」が正しいですよね。日本語って難しい)激しい戦火にさらされたわけでして……。こと「硫黄島」での激烈な戦闘は、クリント・イーストウッドのおかげで広く世に知れ渡ったわけですが、硫黄島に限らず、父島や母島においても悲惨な戦闘が繰り広げられたわけです。

ジョージ・ブッシュ元・米大統領(つまり父親のほう)が、小笠原近海で軍用機(戦闘機?)を操縦中に撃墜?され、近海に不時着した話は有名……かどうかは知りませんが(私も最近知った)、同時期に父島では、俗に「父島事件」と呼ばれる、怖ろしい「事件」が起きていました。あまりに陰惨な事件なので、あえて説明も行いませんし、リンクも張り付けません。興味を持たれた方はお近くの Google へどうぞ……。

小笠原に「アメリカ」は存在したか

さて、小笠原が完全に米軍の支配下になってから程なく、日本はポツダム宣言を受諾して、小笠原はアメリカの占領下に置かれます。硫黄島や父島・母島の旧住民は、米軍との消耗戦に入る前に、日本軍の手で東京に疎開させられていた(「日本軍も珍しくいいことしたじゃん」と思った私はダメな子でしょうか)のですが、米軍(というか、GHQ かな?)は、小笠原の旧住民のうち、いわゆる「白人系」の住民のみ、帰還を許可したとか。

米軍統治下の小笠原は、今で言うグァムと同じような状態だったわけですから、英語が公用語として、「アメリカ人」向けの教育が行われたそうです。当然ながら、「白人系住民」の「次の世代」が着実に生まれ育ったわけで、彼らは日本人として育った両親の子でありながら、アメリカ人として育てられることになったのでした。

ところが、昭和 43 年に小笠原は日本に「復帰」し、東京都に編入されます。「復帰」を境に、英語教育が日本語教育となり、今まで「アメリカ人」として育てられてきた多くの若者が、いきなり「外国の言葉」を学ぶ羽目になったわけです。

その結果ですが、やはり、慣れない「日本語」に戸惑いを覚える者が少なからずいたようで、小笠原を離れて米本土に新境地を求める者も少なくなかったそうです。

小笠原に常時接続は存在するか

いやぁー、「だから何?」というネタですいません。でも、なんか一度、小笠原に行ってみたくなりました。インターネット環境はかなり厳しいらしいですが……(ははっ

Klaus Nomi の "Can't Help Falling In Love" を BGM にお届けしました。クラウス・ノミって良くわからないんですが(ぉぃ)、なんか妙な引力がありますね。

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