2007年8月6日月曜日

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特別寄稿~ 「あの夏」の話

 


「あの夏」の話

あの夏、私は、8 歳の何も知らない子供だった。現代人から見れば「軍国少年」と呼ばれるのかもしれない。でも、当時はそんな言葉は無かった。たとえ少年であれ少女であれ、お国のために尽くすのが当然のこと、人として生きる唯一の道だったのだから。

ついでに言うと、62 年後の現代から見ると、「あの夏」は、日本が断末魔の叫び声を上げていた「最後の夏」と捉えられることが多い。ただ、これは後付けの知恵に他ならない。「あの夏」は、いつになく暑い夏だったが、国の恩に報いんと奉仕に励む少年にとっては、単なる「八度目の夏」でしか無かったのだ。

もっとも、こうやって勿体ぶったことを書いてはいるが、私は学徒動員される年齢でもなく、また、疎開を余儀なくされた都会の子でも無かった。空襲とは無縁の農村に生まれ育った私は、国民学校にて「普通の教育」を受け、夏休みは小川で鯰や鮒や蛙と戯れる、ごくごくありふれた子供だった。父親は旧制中学にて「理科」の教鞭を執っていて、幸い徴兵されることも無かった。

母親はありふれた主婦で、決して裕福な家庭とは言えなかったが、同級生の父親の多くが「赤紙」で招集されて出征していたことを考えると、一家三人での平穏な暮らしを営むことができていた我が家は、とても幸せだったのかも知れない。

広島に「新型爆弾」が投下されたという話は、子供だった私には理解する由も無かったが、今から思えば、その翌日から、街の大人たちがいつになく狼狽していた印象がある。「街ひとつが跡形無く消え失せた」との話は、さらに翌日か、その翌々日には耳にはいるようになっていた。その下手人がアメリカだということも、改めて言うまでもなく、誰もが理解していた。

更に、今から考えると滑稽でしか無いのだが、当時は誰もが、日本が戦争に敗れることはあり得ないと考えていた。いや、現実を直視することができていた一部の者は、すでに「日本の戦後」を考えていたのも事実だが、一般大衆にとっては、「神国日本不敗」は、東の空から陽が昇ることと同じくらい、明白な事実だったのだ。

「負け」とは「臆病風」に吹かれること。つまり、臆病風に吹かれることなく、勇猛果敢に立ち向かえば負けとは言えない、という、修辞法(レトリック)のような考え方もあった。たとえ竹槍しか武器が無くても、一人一殺で戦えば、アメリカは甚大な犠牲を払うこととなり、いずれ自ら休戦を申し入れるだろう、などといった荒唐無稽な論を説く者もあった。

かくして、一億の国民が決戦への決意に駆り立てられる中、「あの夏」は、ある日を境に不気味なほど平穏となり、日差しがとても眩しかった。ヒロシマが壊滅し、満州に地獄絵図が展開されていたのを知る由もなく、私は毎日、豊かな自然と戯れていた。いつか成人して、国に報いる決意を、ぼんやりと抱きながら。

天と地がひっくりかえったのは、それからわずか九日後のことだった。

「あの夏」は、とにかく暑く、眩しかった印象しかない。無論、その翌年も、翌々年も、毎年「夏」が来て、暑く眩しい毎日だった筈なのだが、真夏の情景を目にすると、どうしても「あの夏」のことを思い出さずにいられない。「あの夏」を識る諸姉諸兄にあっては、同案多数では無いだろうか。

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えと、この文章は私の書き下ろしです。なんか「体験談」っぽく見えるかもしれませんが、ワタシは 1970 年代生まれですので、「体験談」なワケはありません。元ネタはありませんので念のため。一種の「創作」への挑戦に過ぎません。

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