2008年2月23日土曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

EF58 をめぐるミステリー

 


「山本五十六」も基本でした

両親がバリバリの戦中派だったこともあって、幼い頃から「反戦教育」を叩き込まれてきたのですが、それはさておき。うちの両親は、例えば「A 級戦犯」「進駐軍」「東郷平八郎」「二〇三高地」といった Jargon(ジャーゴン)を平気で使う人たちだったので、その意を汲み取るためには、いきおい子供がそういったことを勉強せざるを得ない環境だったのでした。

「東郷平八郎」は Jargon じゃなくて人名ですけどね。知り合いに「東郷さん」という人がいて、その人のことを「平八郎」と呼んでいたという、それだけの話です。

ものを粗末に扱うと、こっぴどく怒られたのでした

さて、そんな両親のもとで育てられたわたくし。例えば、年に一度くらい、京都は梅小路にある「梅小路蒸気機関車館」に連れて行って貰うのを至上の喜びとしていた、かわいい子供時代もあったのですが、そんな時にも「戦争中は鉄が無かったから、木で作った機関車があったんやぞ」なんて話を吹き込まれていたのでした。

熱湯や炎に曝されるボイラ部分はもちろん鋼製ですが、「炭水車」と呼ばれる、機関車の後ろに必ずついている、石炭と水を載せておく車両や、「デフレクタ」と呼ばれる、蒸気機関車の先頭部分に付いている「整流板」は、木製のものがあったそうです。

もともと、金属を始めとした「資源」が乏しかった日本は、戦争が消耗戦の様相を呈するとともに、「金属類の供出」を国民に強いるようになった、というのも有名な話ですね。庶民からは鍋やお玉を集め、寺社仏閣からは梵鐘を集め、国鉄・私鉄からは「不要不急路線」の廃止を命じて、レールを剥がして持って行ったわけです。

ちなみに、そんな「鉄不足」の中でも、軍事的に重要な路線の建設は、劣悪な環境の中で進められました。鉄橋が架けられないから、石でできたアーチ橋を造って凌いだのですが、中に入れる鉄筋すら事欠く有様で、代わりに竹を使ったとか。これらの急ごしらえの橋の一部は、未だに現役で使われていると言いますから驚くばかりです。

EF58 をめぐるミステリー

さて、昔々、国鉄の電気機関車に EF58型という「名機」がありました。子供の頃は国鉄沿線に住んでいたものですから、毎日のように EF58 が引く「荷物列車」を見たものでした。

さて、この EF58 という機関車、横から見ると窓が 5 個ある車体なのですが、EF58 35 と 36 の 2 台だけ、窓が 7 つ装着されていました。子供というのは下らないことを覚えているもので、当時小学生だった私は「なんでだろ~」と疑問に感じたものでした。

Wikipedia に、その辺の事情を伺わせる記述があります(そのものの記述もありますが)。

EF18 形 32~34
EF58 形の半製品を設計変更して就役させた貨物用機関車である。

1949 年初頭、EF58 形 32~34 号機の 3 両は東芝府中工場で製造の途上であり、ほぼ完成していた。ところが、ドッジ・ラインの影響で就役は保留され、2 年間に渡って東芝でデッドストック状態に置かれることになった。やむなく貨物用機関車として転用されることになり、歯車比を EF15 形並の低速形としたが、先輪が多い分だけ動輪軸重が不足することから、車内にデッドウェイトを積載して補っている。

ちと略して

東海道本線などで貨物列車牽引に用いられ、初期形 EF58 全車の車体更新後も旧 EF58 形の外観を残す貴重な存在であったが、オリジナル形の EF58 に比べると側窓が増えており、新車体型でありながら側窓の多い 35・36 号機との共通点が見られる。

小学生にとって「ドッジ・ライン」を理解するのは、かなり至難の業だった筈なのですが、つぶらな瞳で「ねぇねぇ、『ドッジライン』てなーに?」と両親に問いかける私がいたのでした。

前の記事次の記事

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

最近の記事