2008年2月26日火曜日

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青年将校と紅衛兵

 


最寄り駅は「千里中央」

うちの両親はせんちゅうパル、じゃなくて戦中派でして(それ前にも言った)、やれ東條英機がどうのとか、西城秀樹がどうのとか、東儀秀樹がどうのと言った話を……してはなかったですね、さすがに。もちろん東郷健の話もしてませんでした(←

つーか、両親が「せんちゅうパル」だったらショックでかすぎです。

ちなみに「551」は肉まんで有名です

さて、今日は 2 月 26 日。言わずと知れた「二・二六事件」が起こった日、でした。ちなみに、うちの両親は意外とその辺の記憶があやふやで、「『二・二六事件』と『五・一五事件』って、どっちが先やっけ?」と話していたのを覚えています。

まぁ、二・二六事件が起こった時、父は 2 歳前、母に至っては、まだ祖母の胎内にいたわけで、覚えていなくて当然なんですけどね。

さて、ここまで書き進めたにも拘わらず、実は、二・二六事件については良く知りません(ぉぃ)。いや、皇道派と統制派の反目がどうのとか、統制派の大物だった永田鉄山を、皇道派の相沢三郎が斬殺した(但しこれは二・二六以前)とか、知識レベルでは、なぁんとなく聞いたことはあるんですが……。

「自爆」は関東軍の得意技でしたが

まぁ、後世の醒めた目で見てみると、「二・二六」は「皇道派の自爆」という一言で片付いてしまうのかもしれません。「三日天下」という意味では、明智光秀っぽいとも言えるかも知れませんね。

ものすごーくざっくりと纏めてしまうのも申し訳ない気もするのですが、要するに、皇道派の青年将校たちは、「君側の奸」を誅したつもりだった、ところが実際には、(昭和)天皇にしてみれば「股肱の臣」だったわけで、逆鱗に触れ、「度し難い反逆者」とのレッテルを貼られてしまった、ということなんだ、と思っています。

青年将校」だけあって、何とも発想が「若い」というか、考えが稚拙だとすら思わせるのですが、「陛下の為にクズどもを誅してきました」と言ってきた「青年将校」に対して、両手の中指を合わせながら「えぇー、ボクちん嬉しいけど、急にそんなこと言われても困っちゃうなぁー」などといった優柔不断な態度を見せることなく、自分のことを慕って来た(まぁ、それは勘違い甚だしかったのですが)若者達に「クズはお前らのほうぢゃ」とばかりに事態の収拾を図った若き昭和天皇は、やはり大したものだなぁ、と思ってしまいます。

ただ、天皇みずから事態の収拾に当たったことを、「君臨すれども統治せず」という原則に反したとして、当の本人は後悔していたとか。結果として、国政への積極的な関与を避けるようになってしまったとも言われますね。

造反有理、革命無罪!

そういえば、似たような話を余所でも聞いたことがあったな、と。30 年ほど後に、お隣の中国で、「造反有理革命無罪!」というスローガンの元、「文化大革命」という悪夢が繰り広げられたのでした。あちらは十年近く国中を大混乱に巻き込んだわけで、それを思えばわずか三日で「革命」を収拾できた日本は幸運だった……のかどうかは、微妙なんですけどね。

結果として、統制派が実権を握って、日米開戦に突き進んで行ったわけなので。

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