2008年7月18日金曜日

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泣きたくなるほど美しい

 


ブルーノ・タウトというおじさんをご存じでしょうか。

ブルーノ・タウトBruno Julius Florian Taut、1880 年 5 月 4 日 - 1938 年 12 月 24 日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。
(Wikipedia 日本語版「ブルーノ・タウト」より引用)

名前からはイマイチどこの人か判りづらいですが、上記の通り、ドイツの人です。なんか最近ドイツネタが続くような印象を持たれるかもしれませんが、全くの偶然です。いやホント。ホントに偶然ですってば。

君はタウトを知るか

さて、日本におけるブルーノ・タウトの知名度って、どの程度なんでしょう。私はと言えば、大学の講義で初めて名前を知りました。ただ、京都の大学だったもので(あ、間違っても「京都大学」では無いので念のため)、タウトが取り上げられる素地は大いにあったわけで……。

あとヴォーリズも有名だったんですが、もしかしたらヴォーリズの人気も関西ローカルかも知れません。

文化シヤッターみたいなものでしょうか

タウトの話題に戻りましょうか。

革命への憧れをもっていたタウトは 1932-1933 年にソ連で活動。しかしソ連建築界の後進性と技術的・経済的な困難さに失望し、すぐにドイツに戻った。しかしその直前にドイツではナチスが政権を獲得。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、その後日本インターナショナル建築会からの招待を機に 1933 年 5 月、日本を訪れ、そのまま亡命した。
(Wikipedia 日本語版「ブルーノ・タウト」より引用)

文化ボルシェヴィキ主義者」っすか(笑)。「ボルシェヴィキ」は、ロシア語で「多数派」という意味……だそうですが、簡単に言えば「レーニン主義者」ってこと、なんでしょうね。「ソ連建築界の後進性と技術的・経済的な困難さに失望し」というくだりを見ると、タウトはなかなか先見の明のある人物だったようです(笑)。

気管支喘息には気をつけよう

1933 年 5 月に日本に亡命(帰化かな?)したタウトは、わずか 5 年後の 1938 年 12 月に亡くなっているのですが、亡くなったのは日本ではなく、なぜかトルコのイスタンブールにおいて、でした。

1936 年に近代化を目指していたトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブールに移住。アンカラ大学文学部など教育機関の設計、そしてイスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍したが(そのほとんどは現存している)、1938 年に長年患っていた気管支喘息のため死去した。最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。タウトはアンカラのエディルネ・カプ墓地に葬られ、現在に至るまでそこに眠る唯一の欧米人である。
(Wikipedia 日本語版「ブルーノ・タウト」より引用)

気管支喘息には気をつけないといけませんね……。ま、それはさておき、タウトが日本で過ごした時間は、わずか 2~3 年だったことがわかりました。これじゃあ日本での知名度がイマイチでも、文句は言えませんね。

日本のモダニズム建築はドイツ製

タウトの日本での「仕事」で、後世に語り継がれているものはと言えば、

桂離宮と日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
(Wikipedia 日本語版「ブルーノ・タウト」より引用)

これですね。豪奢できらびやかな「日光東照宮」ではなく、慎ましくも風雅な造りの「桂離宮」を「泣きたくなるほど美しい」と絶賛したことで知られています。タウトに関する講義を受けたからでは無いですが、タウトの感性にはまったく同感……です。

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