2008年8月4日月曜日

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ソルジェニーツィンは果たして転向したのか、ラジオ・エレバンがあなたの疑問に答えます(ホントかよ

 


訃報

ソルジェニーツィンが亡くなったそうですが……。いや、まだ存命だったことに驚いちゃいまして(←

経歴

1918 年、北カフカスのキスロヴォツクに生まれる。敬虔なクリスチャンの母と祖父母に囲まれて成長。1941 年、ロストフ大学卒業と同時に第二次世界大戦に従軍。誕生の半年前に戦死した父と同じ砲兵大尉となる。1945 年、スターリン批判の嫌疑で告発され欠席裁判で懲役 8 年を宣告される。収容所に送られ後に流刑。1958 年にニキータ・フルシチョフによって名誉回復される。

1962 年、スターリン時代の収容所の 1 日を描いた処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し世界的ベストセラーに。1964 年のフルシチョフ失脚から暗転。1970 年度ノーベル文学賞を受賞するも 1974 年 2 月 12 日に逮捕され、国家反逆罪でレフ・トロツキー以来 45 年ぶりの国外追放処分を受ける。スイスを経て、1976 年 9 月に米国に移住。
(Wikipedia 日本語版「アレクサンドル・ソルジェニーツィン」より引用)

とまぁ、なかなかすさまじい経歴の持ち主だったりします。「レフ・トロツキー以来」というのが、ソルジェニーツィンの大物ぶりを物語りますね(←

ソルジェニーツィンの復権とチェチェン独立運動

ソルジェニーツィンは、ゴルバチョフ政権下の 1990 年 8 月に国外追放を解かれ、市民権を回復します。

彼は書いた。「それぞれの民族は、たとえ最も小さなものであっても、神の意志によってこの世に生まれてきて、それぞれ独自性をもっているのである。ウラジミール・ソロヴィヨフは、キリスト教の戒めをもじって、こう書いている。『自分の民族と同様に、他の民族を愛せよ』」。ロシア人の民族自決権を認めるなら、他の民族の自決権も認めるロシア連邦になるように願うものである。
(Wikipedia 日本語版「アレクサンドル・ソルジェニーツィン」より引用)

ソルジェニーツィンは北カフカスの出身ですから、いわゆる「ロシア人」ではありません。そのソルジェニーツィンがゴルバチョフに礼遇されたことから、チェチェン分離独立運動が高揚したとされます。

キスロヴォツクはチェチェンに非ず

主権ソ連邦は甦らず 1991 年 12 月 31 日深夜、ソ連は消滅してしまった。代わりにロシア共和国が消滅して再生したロシア連邦は、アレクサンドルの提言どおりのロシアではなかった。ロシア連邦の中で再び民族が捕われている。彼の地元のチェチェン共和国はかつてエリツィンに、今はプーチンに独立を妨げられたままである。
(Wikipedia 日本語版「アレクサンドル・ソルジェニーツィン」より引用)

つまらないことが気になったので調べてみたのですが、キスロヴォツクはチェチェン共和国の街では無いはずです。キスロヴォツクは、ロシアのスタヴロポリ地方に属すると見るのが自然でしょう。実際、スタヴロポリ地方の都市としてキスロヴォツクの名前が、出身者の欄にはソルジェニーツィンの名前があります。ちょっと Wikipedian の筆が滑ったようですね(笑)。

ただ、面白くないことに、ソルジェニーツィンはウラジーミル・プーチンのチェチェン独立運動への弾圧については多くを語らなかったようです。ゴルバチョフの敵対勢力と見なされたエリツィンを酷評する一方、エリツィンがぐだぐだにした「ロシア」を立て直したとして、プーチンについては絶賛していたとか。これをソルジェニーツィンの「転向」と見なすのか、あるいは否か。老いるのも簡単なことではありません。

ラジオ・エレバンがあなたの疑問に答えます

ちなみに、このソルジェニーツィンを「匿った」とされるのが、昨年 3 月に逝去した世界的なチェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチでした。というか、私がソルジェニーツィンの名前を知ったのも、ロストロポーヴィチ経由だったので……。奇しくも二人とも、レオニート・イリイチ・ブレジネフ時代のソ連から亡命した……というか、ソ連国籍を剥奪されていたというのが何とも面白いです。いや、笑うところじゃないですけどね。

何だか昨日の記事と流れがそっくりになってきたのですが(←)、ラジオ・エレバンでも、こんなやりとりがあったそうです。

Q:「なぜソルジェニーツィン及びその他反体制派が国から追放されましたか?」
A:「最良の製品は、主に輸出に選ばれるからです」

……なかなか鋭いですね(笑)。

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