2008年12月30日火曜日

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苦行を快楽に変える術

 


エレキの若大将と宗教の関係

ブータンの話題で思ったのですが、「宗教」と「幸福」って、もの凄く関連があるよな、と。もうちょい核心を突いた言い方をすると、宗教に深くコミットした人に限って「自分は幸せだ」と感じているケースが多いんじゃないかな、と。

実際、チベット仏教を国教とするブータンの人々は、良く「今は幸せだ」と口にしていました。もちろん、テレビ番組の取材に答えてのことなので、本心とは程遠いことを口にさせられている可能性もゼロでは無いのですが、取材への回答にウソが無いことを証明するのは「悪魔の証明」のようなものなので、ここでは深追いはしません。

森村さんは無関係です

それにしても、「悪魔の証明」というのは便利な言葉ですね。

一般的用法と消極的事実の証明

事実の有無の証明が問題になる場合、ある事実がある(積極的事実)と主張する側が当該事実の存在を証明する必要があり、相手方側がないこと(消極的事実)を証明する必要はないとするのが、多くの場面で妥当すると理解されている。

なぜなら、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すればすむが、「ないことの証明」は、厳密には全称命題の証明であり、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならないためである。すなわち、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、一般に困難である場合が多い(検証と反証の非対称性)。この「ないことの証明」(消極的事実の証明)について、その立証の困難さから「悪魔の証明」という表現が比喩的に用いられている。
(Wikipedia 日本語版「悪魔の証明」より引用)

「空腹の科学」ってのもありましたね

さてと。信心深い人……というか、宗教に深くコミットした人が感じる「幸福感」とは、一体何なのでしょうか。その前に、そもそも「幸福感」とは何なのか、というところから考える必要があるのかもしれません。果たして、「幸福感」とは何なのでしょう。

こう ふく【幸福】現在(に至るまで)の自分の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持ちを抱くことも無く、現状が持続してほしいと思う△こと(心の状態)。「思えば──な一生だった/しみじみと──(感)を味わう」
(三省堂 新明解国語辞典 第六版「幸福」より引用)

むむむ……。辞書屋さんはもちろんそれが本職?なので当たり前と言えば当たり前なのですが、こうやって簡潔な文章にまとまっていると幸福感すら覚えます。あれ?(←

まぁ、これまた当たり前の話なのですが、「幸福(感)」に定量的な指標は存在しない……筈です。ジグミ・シンゲ・ワンチュク前国王もそのくらいのことは判っていたと思いますけどね。

苦行を快楽に変える術

つまり、「幸せ」は個々の精神の中に宿る、とでも言えばいいのでしょうか。幸せと感じるかそうでないかは、気持ち次第……というか、心の美しさ次第……は違いますね。人格高潔というのも違いますし、心の広さというのも違いますね。うむ、いい表現がさっぱり浮かびません。

ただ、精神が成長することによって、より様々なものに幸せを見いだすことが出来るようになる、とも考えられそうです。手っ取り早く精神を成長させるためには、加山……ではなく、「修行」をつむのが良さそうです。快川和尚の「心頭滅却すれば火も亦た涼し」のような境地に達することも夢ではないのかも知れませんし、鞭で叩かれることにも無上の喜びを得られるようになるかも知れません(←←

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