2008年12月31日水曜日

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私が今年目指すもの

 


ヘンリー・マスケに捧げる(← なんで

えぇと、明日から(あ、今日からか)ちと旅に出ます。まぁ、行き先も日本国の主権の及ぶ範囲ですし(つまり竹島や千島列島ではないことがここから類推できる、といったことはどうでもいい)、何らかの手段でネットへの接続は確保できると思うので、「あ」という一言かも知れませんし、Backup」としか書かれていないかも知れませんが、更新は出来ると思います。多分。

宗教は麻薬か

さて……。昨日は宗教の功罪について一席ぶつつもりだったのが、なぜか SM の奥深さについて語ってしまったので(語ってない)、気を取り直してもう一度。

人はなぜ宗教に走るのか。

改めて思ったんですが、やっぱ「手っ取り早く幸せになる」ためなんじゃないかと。

宗教は普遍的か

例えば、昨日(12/30)の晩に、NHK の BS Hivision で Sarah Brightman のコンサートをやってました。動く Alessandro Safina や Fernando Lima を見たのは初めてだったので、私自身はとってもお腹いっぱいになったわけです……が、これはあくまで「私の主観」に基づく「充足感」によってもたらされた「幸福感」なわけで、どう考えても普遍的なものではありません。いくらサラの歌声が素晴らしかったとしても、です。

音楽や歌唱による脳への刺激については、ここでは考慮しないものとしておきましょう。

人として生きる上で、全く不安や恐怖を覚えずに過ごすことは極めて困難なこと……だと思います。何よりも、「死の恐怖」というものはきわめて普遍的なものです。「臨死体験」と「死」が同一のものであるという証明が為されない限り、現世に過ごす人間は、「あの世」について知る術が無いわけですから、これ以上の恐怖はありません(← お、珍しく断言した)。

多くの宗教が死生観について語る理由も、これで簡単に説明がつきます。人は、「良くわからないけれども不可避なもの」に対して、意識的か無意識かは別にして、潜在的な恐怖感を抱いていると考えられます。それに対して(まがりなりにも)答を示すことで、宗教は大衆の「心のよりどころ」となるわけです。

宗教はサークルか

仮に、「宗教」というスキームがなかったとしたら、つまり、その人が「無宗教」だったとしたらどうなるか。「死の恐怖」であったり「生きる意味」であったり、そういった普遍的かつ哲学的なテーマに対して、自分一人で孤独に答を求めつつ、一生を過ごすこととなります。

しかし、「宗教」というサークルに首を突っ込むことで、同じ原則に則った「仲間」が沢山できるわけです。一生かかっても答えが出ないテーマに対しても思い悩む必要は(それほどは)ありません。何故なら、エライ人が「教え」を説いてくれるからです。素直に聞いていれば、幸せになれるわけですから、こんなに楽しい話はありません。

宗教は進化するか

ただ、こんな「良いことづくめ」に思える宗教にも、大きな落とし穴があります。結局のところ、「宗教」は、迷える大衆を導くだけの、キャッチーな(死語?)部分が必要となります。また、「宗教」は、魅力的であり続けるために、常に進化も必要となります。進化が起こるということは、亜流が派生的に起こることも避けられません。

更には……、そう都合良く進化が続くとは常識的には考えられません。従って、「奇跡」や「瑞祥」という名のウソをでっち上げたり、ウソをウソで塗り固めたりして、砂上の楼閣を築き続ける……可能性もあります。全ての宗教がそうだとは言いませんが、全ての宗教が「そのようなことはしていない」と証明するのも……無理な話です(これも「悪魔の証明」ですよね)。「ウチはそんな新興宗教のようなことはしていない」という発想も……違うでしょう。どんな宗教も最初は新興(ry

私が今年目指すもの

私は宗教が嫌いなわけでも、ましてやそれを否定するわけでもありません。ただ、一部の宗教徒に見られる「異教徒は排すべき」という考え方だけは、全身全霊をもって否定したいです。

人がどんな信仰をもっても構いません(信教の自由は日本国憲法第 20 条でも明記されていますしね)。しかし、信仰の有無で人に優劣をつけたりすることは……許せませんね。信仰はあくまで人の属性のひとつなだけであって、属性が同一であっても、あるいは異にしていても等しく尊重される、そんな社会を今年は目指したいと思います。あと 24 時間切りましたけど。:)

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