2009年3月2日月曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

李氏朝鮮と江戸幕府はどっちもツンデレだった

 


総合商社「対馬藩」

朝鮮通信使に関連した対馬藩の国書すり替え事件について(何をいきなり)。NHK などで何度か取り上げられているので、ご存じの方も多いかも知れません。

事件の経緯

16 世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶した。戦後、日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

とまぁ、こんな時代背景があったわけです。対馬藩はちょうど日本と韓国の間を仲立ちする総合商社のような(ちと違うか)役割だったので、国交の冷え込みは死活問題だった、といったところでしょうか。

秘密結社「対馬藩」

死活問題に遭遇した対馬藩は、CIA ばりの大それた工作活動に打って出ます。

朝鮮側から朝鮮出兵の際の戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

うむ、確かに「なり振り構わぬ」工作活動ですね。李氏朝鮮側も北方からの脅威が具現化していただけに、ホンネを言うと日本とは誼を結びたかったのでしょう。

李氏朝鮮と江戸幕府はどっちもツンデレだった

しかし、ここで重大な問題が発生します。そう、李氏朝鮮と江戸幕府はどっちもツンデレだったのです(←

1605 年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

互いに「べっ、別に仲直りがしたいだとか……そんなことは言って無いんだからねっ!」と言い張る始末……。これではマトモに仲直りができるわけがありません。ここで機転を利かした対馬藩、偽のラブレターを李氏朝鮮に向けて一筆啓上!というワケです。

書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

うすうす対馬藩の陰謀に感づいていた李氏朝鮮も、背に腹はかえられぬ渡りに船状態なだけあって、ついに「お返事」を狸親父……あ、いやいや。江戸幕府に「返書」を送ります。李氏朝鮮が「デレ」になった瞬間です(←

対馬藩には自重が足りなかった

勢いづいたのが対馬藩です。

使節は江戸城で 2 代将軍徳川秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617 年、1624 年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609 年には貿易協定である己酉約条を締結させた。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

ただ、やはり自重が足りなかったか、やがて一連の偽造が内部告発によって白日の下にさらされます。

対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

結局どうなったかと言うと……。

寛永 12 年(1635 年)3 月 11 日、三代将軍家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。江戸にいる大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開された。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。
(Wikipedia 日本語版「柳川一件」より引用)

いやー……。利権ってやっぱ強いですねー(←

前の記事次の記事

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

最近の記事