2009年4月5日日曜日

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現代社会における「単一性」と「多様性」のせめぎ合い

 


新明解さんに見る多様性の実態

多様性」とは、いったい何なのでしょうか。まずはいつもの通り、新明解さんにご意見を伺います。

た よう ─ヤウ【多様】─な ─に いろいろの種類がある様子だ。「──な生き方がある/──性・──化」
(新明解国語辞典 第六版「たよう」より引用)

んまぁ、確かにその通り、ですね。うぅむ、ネタに詰まった(←

あっちが船橋であっちが浦賀さ(←

では、「多様性」の対義語は何か。「単一性」「同一性」あたりでしょうか。ここ、ちょっと浦賀、じゃなくてウラが取れなかったので、もしかしたら恥ずかしいことを書いているかもしれません。

プリミティブ・ラブ

「単一性」と「多様性」という言葉を並べてみると、何となく「多様性」のほうに惹かれるのは私だけでしょうか。「単一性」という単語は、何だか「単細胞生物」のようで、「多細胞生物」と比べて何ともプリミティブな、(どちらかと言えば)時代後れな、あるいは劣った印象を持ってしまう……ような気がします。もちろん「単細胞生物」には彼らなりの優れた点があるわけで、一概に「劣っている」と決めつけられるものでは無いわけですが。

「夢窓疎石」対「○○結石」(←←

疎結合」と「密結合」という言葉があります。情けないことに今の今まで気づいていなかったのですが、これ、IT 業界用語なんですね。もっと普遍的な、一般用語だと思ってました……。少し一般的に言い直すと、集合を構成する者同士の独立性が強い状態が「疎結合」、集合を構成する者同士の関係が強い状態が「密結合」となります。

一般的に、「密結合」のほうがより良いパフォーマンスを出せるとされます。一方、個々の独立性が低いため、集団のどこかに問題が発生すると、それは集団全体の問題となりうるリスクが高く見込まれます。

少し逆説的に考えてみましょう。「密結合」のほうが良いパフォーマンスを出すことができる、ということは、良いパフォーマンスを出すためには、集団は密結合状態にあることが望まれる、となります。この考え方は、野球やサッカーなどのスポーツにおける「チームワーク」にも相通じます。つまり、ある集団を「共通の目標」(例えば「勝利」など)に導くためには「疎結合」よりも「密結合」が望ましい、ということになり、「多様性よりも単一性が好まれる、ということになります。

滅私奉公の究極型は「全体主義」か

ここで言う「集団」を「国家」に置き換えるとどうなるか。「共通の目標」に向かって邁進する国家にあっては「多様性」よりも「単一性」が好まれることになります(あ、「モノカルチャー」を推進するわけじゃないので念のため)。

例えば、日本の場合でも、第二次世界大戦の間は「国民精神総動員」などと言っては「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」なんてキーワードが並んだわけです。こんな言葉を並べて国民をノリノリに駆り立てたわけで、国民の「多様性」は徹底的に排除された……と見るべきでしょう。

超成長路線から漸進路線へ

敗戦後の日本も、「復興」から「高度成長」「所得倍増計画」「日本列島改造計画」といった感じで文字が二文字ずつ増えた……のは関係ないか。まぁ、ある意味ノリノリで一致団結しながら成長を続けてきたわけです。しかし、オイルショックあたりからか、あるいはプラザ合意あたりからか、今から思えばあり得ない規模での超成長路線が漸進路線に転じるとともに、国民の間でも「単一性」を否定して「多様性」を重んじる空気が強くなってきました。

このことから、「奇跡の復興」の原動力となった「密結合」「単一性」の終焉こそが、日本の高度成長にとどめを刺した……と見ることもできそうですが、これは果たしてどうなんでしょうか。日本における高度成長の終焉の原因を「オイルショック」あるいは「プラザ合意」に求めるならば、それはあくまで外的要因であり、内的な意識変化が原因であるとするのはあまりに暴論であるように思えます。ただ、日本社会が「多様性」を尊重し始めた時期と、高度成長が退潮を迎えた時期が奇妙な符合を見せていることも又、事実です。

「単一性」と「多様性」のせめぎ合い

誰が仕組んだのか、あるいは CIA の陰謀か(笑)、「韓流ブーム」の余韻が冷めやらぬご時世ですが、韓国においては何故か日本の恋愛小説が人気を博しているそうです。曰く、「ストーリー展開が予想できないので面白い」のだとか。韓国の小説では、主人公は理想的な人物像として描かれるのに対し、日本の小説では必ずしもそういったことは無く、様々な迷いを抱えた、多種多様な人物が織りなす多種多様な物語が、彼らには新鮮に映るのだとか。

「密結合」的な社会において、個々が本質的に持つ「多様性」を抑圧されていると意識した人間にとっては、「多様性」が尊重される社会は「自由」の象徴に思えるのだそうです。昔と比べて人と人とのつながりが希薄になったと言われる日本ですが、個々の多様性を尊重した結果だと言ってしまえば、それだけのことなのかも知れません。もちろん、過度な個人主義は最終的には秩序の崩壊を招きかねないわけで、「単一性」と「多様性」のせめぎ合いの中、どのように舵を切るのが良いのか、我々の良識が試されているのかも知れません。

おぉ……、なんか良いこと言ってるよコレ(←

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