2009年4月20日月曜日

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優秀たらんとする欲望は煩悩の賜か

 


ちょんまげのスゝメ

「天は人の上に人をつくらず髷をつくりました」ってのには笑いましたが、それはさておき。

エントロピーは増大する(意味不明)

まぁ、改めて語ることでも無いと思いますが、人に上下は無い……と信じたい……と思っている私がここにいます。もちろん、すべての人が等質だ、なんて話ではなく、人はみんな、てんでバラバラの方向にベクトルが向いているんだ、と思っています。もちろんベクトルの絶対長も人によって違うでしょうけれど、それは最終的に合力として見えるから長さがまちまちなのであって、人ひとりが持つ「力」には、大差は無い……あるいは等しいのだと思っています。

「ヒトとしての能力」をうまく似た方向に振り向けることができれば、合力としてのベクトルは他の人よりも秀でた長さになります。そしてそのベクトルが世間一般の「基準」とマッチすることで、その人は「優秀だ」と言われることになる……のだと思います。

セコム、してますか?(更に意味不明)

「天才」と「秀才」という、似たようでちょっぴりニュアンスが違うかもしれない言葉がありますが、本人が自覚することなくベクトルが整列できているヒトのことを「天才」、本人の自覚のもと、弛(たゆ)まぬ努力などでベクトルを揃えてパフォーマンスを出してきたヒトのことを「秀才」と定義してしまっても、当たらずとも遠からずかな、と思います。うむ、これ、前にも書いたような気も……。

秀でた才能は畏敬に値するか

うん、また話がわき道に逸れそうなので戻しましょう。果たして「秀才」はエラいのか、という話が本日のテーマです。

「リーダーシップ」というものがあります。そういえば、「スポーツマン湿布」というのは聞いたことがありますが「リーダー湿布」というのは聞いたことがありません。これは果たして何故か……なんて話はどうでもいいですね。すいません。

運命共同体論

そうですね。「リーダーシップ」=「他者を統率する能力」と換言しても良いのでしょうか。「統率する」≒「統べる」≒「命令する」≒「下達する」という式は成り立つのでしょうか。集団は優秀なリーダーの元でのみ幸せになれるのでしょうか。

逆説的に考えてみると答は出るのかもしれません。ドキュソなリーダーに率いられた集団に属するヒトは不幸せでしょうか。なんだか西北の方向を眺めてみると、大きく間違ってはいないような気もします。

優秀たらんとする欲望は煩悩の賜か

また話がずれてきました。ささっと話を戻しましょう。何故、ヒトは優秀であろうとするのか、そのために努力を惜しまないのか。そのために教育を惜しまないのか。

社会における「優秀な人材」は、社会において高いパフォーマンスを見せることで、高く評価されます。多くの場合、高く評価されることは直接高収入に結びつきます。収入が増えることで他の人よりも良い暮らしができます。結果として、すべてにおいて他の人よりも一段高いところに位置することができる……ような気がします。

「秀才」と呼ばれる人は、きっと、そう呼ばれるために努力を積み重ねてきたのでしょうから、まぁ、それはそれでアリなんだろうな、と思います。「私は愚民を統べるために研鑽を重ねてきた」なぁんて言われたとしても、私なら「まぁご自由に。但し迷惑はかけないでね」と受け流してしまいそうです(笑)。

心頭滅却すれば森の木陰でクールビズ(意味不明)

「人には上下なんて無くてね……」と説教する(笑)という選択肢もあると言えばあるのですが、なんかそれも気の毒な気がして。もしかしたら、ですが、そういった人たちは「人の上に立つ」ことを目標に、あるいは生き甲斐に……というか、そういった意志があったからこそ頑張ることができたのかもしれません。その考えを(下手をすると)否定しかねないようなことは、言えませんからね。

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