2009年5月28日木曜日

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第16回「木地師と貴人伝承」

 


ドラえもんは餡を取ってもどら焼きが好きだったのか

安康露頭」という名前を聞いて、ちょっとした違和感を受けました。昨日の記事でも少し触れましたが、昔、「安康天皇」という諡号を送られた天皇がいたんですよね。

「何やってんの?」「アンコ売ってんの」などと言ってはいけません。

池田貴族伝説

貴人伝承」というものがあったかと思います。ググっても今ひとついいページがヒットしないので、もっと適切なキーワードがあるんだと思いますが、今日は(今日も?)頭が働かないので、またの宿題とさせてください。えーと、人里離れた集落に限って、「昔々、ここは高貴な人(大抵は具体的な名前で語られる)が落ち延びて来られたのだ」といった「伝承」がある、といった話です。

うー、ホントに頭が回らない。風邪かなぁ。ガクガクブルブル……

おおきみきぢそじんじゃー!

例えば、滋賀県東近江市(かつての永源寺町)には「大皇器地祖神社」という神社があります。読めないですが、コレ、「おおきみきぢそじんじゃ」と読むのだそうです。

歴史
寛平 10 年の創祀と伝わる。惟喬親王の伝承がある。明治 5 年まで、正月、五月、九月に国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住まわれていた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。白雲山小野宮大皇器地祖大明神と称したが、明治 15 年に現社名に改められた。また、明治 26 年には内務省から保存資金が下賜された。旧村社。
(Wikipedia 日本語版「大皇器地祖神社」より引用)

惟喬親王は、後醍醐天皇の息子……なんてことは無く、もっと前の時代の親王でした。文徳天皇の長子で、清和天皇(清和源氏の始祖)の兄に当たるみたいです。

滋賀県多賀町には「大君ヶ畑」もあります

大皇器地祖神社のあるところは、永源寺ダムのさらに上流、愛知川(えちがわ)の支流である御池川のかなり上流域にあたる「君ヶ畑」というところです。ぶっちゃけ山の中です。果たしてこんなところに(皇位継承争いには敗れたものの)天皇直系の「貴人」が移り住むものなのか、という疑問が出てきます。実際、

その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任した後出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲。その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平・紀有常らと交流したといわれる。近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。
(Wikipedia 日本語版「惟喬親王」より引用)

とあるように、近江国(滋賀県)に隠棲したことは事実かもしれませんが、君ヶ畑に隠棲したことについては、単なる「伝承」でしかない可能性も高いと考えられます。

結界師、鍼灸師、そして木地師

せっかくなので、「木地師」についても。

木地師(きじし)は、轆轤を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。
(Wikipedia 日本語版「木地師」より引用)

ちなみに、「轆轤」は、ろくろのことです。

概要
近江国蛭谷(現滋賀県東近江市)で隠棲していた惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、全国に広まった。
(Wikipedia 日本語版「木地師」より引用)

あれ。ここでは惟喬親王が蛭谷に隠棲していたことになってますね。蛭谷は君ヶ畑の隣(川下)の集落です。今は「木地師資料館」なるものがあるようですね。面白いことに蛭谷のさらに川下の集落は「政所」という名前です。

明治初期までは、全国各地で朝廷・幕府の許可を受けた木地師達が、定住地を持たずに良質な材木を求めて山中移動していたという。
(Wikipedia 日本語版「木地師」より引用)

どうやら、「定住地を持たずに」というのがミソのようです。仕事柄、特定の土地に定住することなく山中を移動して生計を立てていた木地師たちは、どうしても低く見られがちな社会的な身分の証として「古くは皇族に繋がる高貴な血筋である」ということを主張していたのだとか。

山奥の集落にばかり「貴人伝承」が残るのは、案外こういった山村の民のアイデンティティを確保するためのものだったから、なのかも知れません。

なんてことを、「安康露頭」を見ながら考えたのでした(←

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