2010年1月23日土曜日

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田中支隊忠魂碑

 


石碑シリーズ第 2 弾(←

石碑シリーズ第 2 弾(←)、今回は「田中支隊忠魂碑」です。


相変わらず何を顕彰しているのか(私には)良く解らないので、案内板の内容をまるごと引用してみます。


このように、びっしりと文字で埋まっています。この案内板に目を止めていたのは私ひとりでしたが……。

田 中 支 隊 忠 魂 碑
   昭和九年二月二十六日田中支隊生存者山崎千代五郎等建設
   昭和四十三年二月二十七日再建
   平成八年九月三日現在地に移設

 第一次世界大戦は、四年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正六年(一九一七年)三月、革命が起り、翌年三月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
 当時オーストリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の中からロシア軍に投降し、連合国軍側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等の各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
(靖国神社内「田中支隊忠魂碑」案内板解説文より引用)

なるほど、いわゆる「シベリア出兵」の頃の話なのですね。それにしてもなかなか秀逸だと思わせるのが「チェコ・スロバキア軍救援の名目で」という一節です。つまり、「チェコ・スロバキア軍の救援」はあくまでタテマエであり、真意は別のところにあった、ということを自ら認めているわけで……。これは「正しい歴史認識」と言えるでしょう(笑)。

実際、Wikipedia にも

そこで日本は同地域において(白系ロシア人)を核とした白軍にもとづく傀儡政権の樹立を意図したとされる[要出典]。
(Wikipedia 日本語版「シベリア出兵」より引用)

とある通り、少なくとも「チェコ・スロバキア軍救援」が主たる目的では無かった、という見解は衆目の一致するところと思います。

「てにをは」が……

さて、では「人間 OCR」を続けますか。

 日本からは第十二師団が派遣されることとなり、大正七年(一九一八年)八月、ウラジオストクに上陸し、九月初めにはハバロフスクに進軍した。田中支隊が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正八年(一九一九年)二月二十五日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(四十四名)を偵察のために先遣したが、約二十倍の敵の攻撃を受け負傷者三名の外全員戦死した。支隊主力(一五〇名)は香田小隊を赴援中、二十六日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた五名の外一〇七名悉く火砲と運命を共にした。
(靖国神社内「田中支隊忠魂碑」案内板解説文より引用)

センテンスが長すぎます。という点はさておき……。さらに言えば「てにをは」が何かおかしい、というのも置いといて……(←)。

ご参考までに、Google Map へのリンクもどうぞ:ユフタ

「シベリア出兵」は、「出兵」という微妙なニュアンスで語られますが、少なくともソ連とは事実上の交戦状態にあったわけで、先遣隊が武運拙く「敵」の大部隊に逆襲されて全滅した、という話……ですよね。つまり、昨日ご紹介した「常陸丸」の件以上に、「戦争(紛争)における部分的な負け戦」でしか無いような気がするのです。その後、太平洋戦争中にもっと悲惨な目に遭った人は、軍人・軍属以外にも民間人にもわんさかといる訳で……。

右も左もロシア関連

面白いことに、大山巌の銅像しかり、常陸丸殉難記念碑しかり、そしてこの田中支隊忠魂碑しかり。いずれもロシア(ソ連)にゆかりのある事例ばかり、です。今日からマ元帥!(← やめなさい)が、ロシアとの遺恨を後世に知らしめるべく、意図的にいくつかのモニュメントだけを選択して存置した、という可能性も考えられそうですが、どうなのでしょうか。

最後の部分

最後に、締めの部分を丸々引用しておきます。権利侵害が疑われるようでしたら、おそれ入りますがコメント等でご連絡をお願いします。

 この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最後を想起し、その神霊を慰めるため昭和九年二月二十六日、九段坂下に建立されたものを平成八年九月三日現在地に移設したものである。
 本碑台座部分には、大正八年二月二十七日、第十二師団大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状(昭和四十三年二月二十七日再建復刻)が刻まれている。
   平 成 八 年 九 月 三 日
                     歩 兵 第 七 十 二 聯 隊 戦 友 会
                     靖   國   神   社
(靖国神社内「田中支隊忠魂碑」案内板解説文より引用)

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