2010年8月9日月曜日

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春の道央・道北の旅 2010 (74) 「デザインするときは内部にできる空間にも気をつけよう」

 

旅は~まだ~終わら~ないぃ~

また、懲りずに北海道に上陸してしまったわけですが、「春」の話題がたんまりと残っていますので、ちまちまと続けてしまいます。そんなわけで、稚内公園の「開基百年記念塔・北方記念館」の話題から。

北から南から

展望台からの眺望を楽しんだ後は、土台部分の「北方記念館」に向かいます。

まずは、よく見かける地図から。現在の地形と、いわゆる「氷河期」の地形を重ね合わせたものです。北海道は樺太経由で沿海州と陸続きだったことが読み取れます。
ついでに、北海道と本州も陸続きだったことが読み取れますが、やや意外なことに択捉島と国後島は陸続きではなかったようです。人種や文化の伝播経路としては、千島経由よりも樺太経由の方がより蓋然性が高い、と言えそうな気がします。

スタイリッシュなデザインは、往々にして……

ちなみに、「開基百年記念塔・北方記念館」は、このような形なのですが、
同じ写真を 4 回も使い回した件について(←

それはさておき、この「土台」の部分が、中から見るとこうなっていました。
外見を重視するあまり居住性が損なわれる例とでも申しますか……(←)。いや、うまく活用しているとも言えるのかもしれませんが。

ご当地アイヌ(?)

アイヌの人たちは、北海道(アイヌモシリ)のあちこちに居を構えていたとされますが、中でも「近文」(旭川近郊)や「美幌」(網走近郊)、「春採」(釧路近郊)や「十勝」(帯広近郊)、「静内」(日高地方)、「沙流」(同)、「白老」(苫小牧近郊)、「千歳」そして「千島」「樺太」といった地名を良く耳にします(パッと思いついたものを書いているだけなので、メジャーどころが抜けているかもです)。あ、「天塩」もありました。

他の地域にはそれほど人が住んでいなかったのか、などと邪推もできてしまいますが、稚内にも「宗谷アイヌ」と呼ばれる人たちがいますよ、という展示がこちらです。
左下のエカシ(老人)は、立派な髭をたくわえていますね。

基礎力を確かめよう

稚内に行基が来たか否かはよく知りませんが、伊能忠敬は来ていたようです。
「基礎力を確かめよう」のコーナーです(←

Q: 伊能忠敬の「ただたか」という名前を憚って、わざと音読みで「ちゅうけい」と呼ぶことを「○○読み」と言います。さて、○に入るのは何でしょう?

伊能図ですが、ノシャップ岬の形も、とてもリアルに書かれていますね。

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