2012年7月30日月曜日

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道東の旅 2011/春 (97) 「『戦前の四島の《くらし》』ふたたび」

 

「戦前の四島の《くらし》」ふたたび

ここからは、「戦前の四島の《くらし》」らしい展示に戻ります。

Сякотан

まずは色丹島の「斜古丹」から。
「しこたん」島の「しゃこたん」です。ちょっと紛らわしいですね……。パネルの説明文を引用してみましょう。

 色丹島の北東に位置する斜古丹は、役場や無線電信施設を持つ郵便局などがあり、島の中心地でした。
 湾の東側には捕鯨工場があり、捕鯨基地として栄え、その活況ぶりはクジラのアゴの骨で作られた神社の飾り門にも表れています。
斜古丹には、樺太・千島交換条約の締結に伴って 1884 年(明治17)に占守島から移住させられた千島アイヌの人々が住んでいました。そのため、ハリストス正教会の会堂や日本語教育の場としての学校が建てられました。
 昭和 8 年には色丹村と改名しました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
見た感じ、非常に正しい文章なのですが、前提となる情報(知識?)に触れていないので「はい???」となってしまいそうですね。えーっと、このあたりは Zajac Malgorzata さんの「千島アイヌの軌跡」という良書(ちなみに和書です)に詳しいのですが、(1) 千島には「千島アイヌ」と呼ばれる先住民がいた、(2) 北千島はカムチャツカとの結びつきが強く、交易などが盛んだった、(3) 北千島はロシアの支配下にあり、千島アイヌに対してロシア正教の布教を行っていた、という話が前提としてありました。名前もロシア風のものを名乗っていたと言います。

そういった状況下にあって、得撫島から占守島が日本の領土となったため、政府は「利敵の虞がある」千島アイヌを色丹島に集団移住させ、「皇民化教育」を行った……という話だったと思います。

とりあえず、戦前の色丹は、人の住めるところで、それなりに栄えていた、ということは事実として言えそうですね。

Хабомаи

歯舞諸島……あ、今は「歯舞群島」が正式な名前になったんでしたね。この辺はやはりソルジェニーツィンの影響でしょうか(違)。歯舞群島の中から、志発島の「相泊」の紹介です。
パネルから引用してみましょう。

 歯舞群島の中で一番大きな島が志発島です。島の西側にある相泊は、時化でも安全な相泊港を持つ沖合漁業の基地でした。郵便局や志発西前小学校、金比羅神社などがありました。
 また、コンブを原料とするヨードの製造工場が建てられ、戦時中は副産物の塩化カリが火薬の原料とされました。さらに缶詰工場があって、サケ・マスやホタテの加工も行われていました。缶詰工場には、函館などからも働きに来ていました。島には木が少なかったため、この港には根室から薪が運ばれてストーブなどに用いられていました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
さすがに志発島の場所がすぐにわかる人は少ないと思いますので、パネルの地図を拡大したものを載せておきます。
現在は、歯舞・色丹には住民はいないとのことですが、戦前は豊かな水産資源を基幹産業として、それなりに栄えていたことを伺わせます。函館から出稼ぎに来ていた例があったのには驚きですね。

Кунашир

続いては国後島の「古釜布」です。
はい。こちらもパネルから引用です。

 国後島の中央部太平洋側にある古釜布は、島と根室港を結ぶ重要な港町でした。古釜布港は冬でも凍結せず、天候が崩れると多くの船が来泊しました。村には旅館やカフェーがあり、モダンな町並を見ることができました。
 尋常高等小学校は、学芸会や運動会などの催しがあると多くの人々が訪れ、あたかも地域の集会場のようでした。また古釜布と泊の間では、昭和初期に数回にわたって合同で陸上競技大会が行われるほど、村同士の交流も盛んでした。カニ缶詰工場に勤めるのが若い人たちのあこがれで、青森や秋田などから出稼ぎに来た人も含めて、多くの人が働いていました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
流氷がおしよせる海にあっては、不凍港の存在は重要だったでしょうからねぇ。そして国後島は択捉島の影に隠れてあまりその大きさを認識されていませんが、沖縄本島よりも大きかったりします。

「カニ缶詰工場」と聞くと、どことなーく小林多喜二な世界も連想されるのですが、世界的な不景気下にあっては雇用を創出する産業自体が貴重だったのかも、なんて思ったりもします。

なお、古釜布(Южно-Курильск)の人口は、2006 年時点で 6,081 人なのだそうです。

Итуруп

締めは日本最大の「島」、択捉島の「紗那」です。
えー、今回もパネルから引用です(手抜きですいません)。

 択捉島の中央部オホーツク海側にある紗那は、村役場や警察署、測候所などがある島の中心地でした。戦前は漁期になると子どもも漁場にかり出されていましたが、昭和10年ごろ、児童が学業に専念できるよう尋常高等小学校に寄宿舎が設けられました。文政年間(1818~1830)の作といわれる大砲が安置された紗那神社の祭りでは、青年団が大小の灯籠を掲げました。剣道が盛んで、全島の剣道大会も行われました。
 紗那郵便局には無線電信設備が整っていましたが、一方冬の郵便物の配送は荷物を背負ってスキーで運んだり、馬ソリで運ぶしかありませんでした。これらの仕事は、流氷で漁ができない漁師たちの小遣い稼ぎとなっていました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
ふむふむ……。択捉島の地図を見ると、単冠湾(太平洋側に開けている天然の良港)のあたりが中心地かな? と思ったのですが、実際は北隣のオホーツク海沿いが一番栄えているんですね。少し意外な感じもします。Google Map で見てみると、まるで「西舞鶴」と「東舞鶴」のように分かれているようにも見えるのですが……。

「大砲が安置された紗那神社」というのも、いかにも時代背景が感じられますね。当時の日本人は、とにかく神社を作るのが大好きだったようですから(南洋神社とか昭南神社とか)。

あ、択捉島の単冠湾と言えば、真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊が集結した場所としても有名……ですね。大圏航路では択捉からハワイに向かうのが最短距離だったのでしょうか。

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