2013年1月19日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (107) 「近牛・長流枝・売買」

 

はい、あともう少しですが、いつも通りに続けてまいります。

近牛(ちかうし)

chikap-us-i?
鳥・多くある・所
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
道東道池田 IC から見て、利別川の対岸にある集落の名前です。もともとは「誓牛」という字で「ちかうし」と読ませたようですが、大正 2 年に「近牛」に改めたのだとか。

というわけで、「角川──」(略──)を見てみましょう。

 ちかうし 近牛 <池田町>
〔近代〕近牛村 大正 2 年~昭和14年の大字名。はじめ川合村,大正15年からは池田町の大字。凋寒(しぽさむ)村大字誓牛村が改称して成立。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.854 より引用)
うーむ。「誓牛」は割と読めると思うのですが、「凋寒」で「しぽさむ」というのは凄いですね。

「凋」は「しぽ」から想像して「しおれる」かな? と思ったら正解でして。

さて、続きを見ていきましょう。

地名は,アイヌ語のチカプウシ(鳥多き所の意)に由来するという(池田町史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.854 より引用)
出ました。やっぱり、この「地名は──」が無いと始まりませんよね(笑)。chikap-us-i で「鳥・多くある・所」ということのようです。

一方、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」では、次のような解説がありました。

 池田と高島の間の部落。近くに利別川の古川があり、それをチカップマイと呼んでいた。チカㇷ゚・オマ・イで鳥のいる所の意で、水鳥の集まるところということである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.236 より引用)
ふーむ。個人的にちょっと引っかかるので、念のため永田地名解も見てみました。

Chikap tui nai  チカㇷ゚ ト゚イ ナイ  鷲ノ産卵スル處 誓牛村ト稱ス松浦地圖「チヤフシヨクナイ」ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.301 より引用)
これを見る限り、永田地名解の「チカㇷ゚ ト゚イ ナイ」が現在の「近牛」であることは(多少の変動はあるかも知れないが)間違いなさそうです。

漠然とした疑問のヒントになるかも知れないのが「ト゚イ」です。tuy は「落とす」といった意味もありますが、地名においては「切れる」「潰れる」といった意味で使われることが多いです。もちろん chikap(鳥)が勝手に「潰れる」ことは無いのですが、これが chikep(崖)であったならどうかと。

地形図を見ると、近牛の集落のあたりには小川が流れているのですが、見事に段丘を川が切り崩しているので、chikep-tuy-nay で「崖・切る・川」あるいは chikep-us-i で「崖・多くある・所」という可能性もあるんじゃないかなぁ、と。

長流枝(おさるし)

o-sar-us-nay
川尻・茅原・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
音更町東部の地名で、道東道に「長流枝 PA」というパーキングエリアがあります。さ、では山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

長流枝内 おさるしない
 音更町内の川名,地名。長流枝内川は士幌川の川口に近い処に,東の方から入っている川であるが,永田地名解の解は簡に過ぎて分かりにくい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.313 より引用)
どれどれ、ちょっと見てみましょうか。

O sar’ushi  オ サルシ  茅川尻
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.308 より引用)
おー、確かにあっさりしてますね。でも、これで間違いはなさそうです。o-sar-us-nay で「川尻・茅原・多くある・川」なのでしょう。

売買(うりかい)

帯広市南西部から北東に流れ、市中心部で札内川に合流する川の名前です。見たところ純粋な日本語のようにも思えるのですが、いえいえそれがどうして……。「北海道の地名」が詳しいので、見てみましょう。

珍しい名で語義が分からないためにいろいろな解がなされた。永田地名解は「ウウェガリㇷ゚。集場。数個所に捕りたる魚を此処に集むと云ふ。売買(うりかひ)村」と書いた。uwekari-p(集まる・処)と解したもの。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.310 より引用)
ふむふむ。u-e-kari-p で「お互い・そこに・通う・所」といった感じでしょうか。

ところが、色々と面白い話が出てくるもので、たとえば……

 一説「日高シビチヤリの敵衆六十人が掠奪団を組んで帯広の伏古に押し寄せた時に,土地のアイヌは神の加護を得て敵を沼に追い落して殺した。その中の一人が故郷に知らせようと逃れ,かんじきを逆にはいて足跡をくらましこの川を上って脱走することができた。ウレは踵(かかと),カレヒは追跡の事でそれからウレカレヒと呼ばれた」(吉田巌先生記録から)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.310 より引用)
出ました、十勝アイヌの武勇伝(笑)。

 また一説にはこの時来た敵は石狩のアイヌだともいう。有名な伝説らしい。ウレ・カリ・ㇷ゚「ure-kari-p 足(くるぶしから下)・を回した・処」とでも読んだものか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.310 より引用)
十勝アイヌの面白いところは、周りのアイヌとの間の闘争譚が絶えないところですね。この「十勝モンロー主義」とも言うべき資質は現在に至るまで綿々と受け継がれているようで、何とも興味深い話です。

 松浦図ではウリカベである。音だけでいうなら,ウㇽカ・ペッ(urka-pet 丘の・川),あるいはウリカペッ(ur-ika-pet 丘を・迂回する・川)のような形の名であったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.310 より引用)
なんとなくですが、地形図を見た感じだと、ur-ka-pet で「丘・上・川」あたりがしっくり来ます(あまり迂回しているようにも感じられないので)。それにしても、地名の由来よりも「なぜ十勝アイヌばかりに武勇伝が多いのか」のほうが興味深いのは私だけでは無いでしょう……。

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