2013年12月23日月曜日

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イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第29回)

 


それでは、今日も引き続き 1878/6/9 付けの「第五信」(本来は「第八信」)を見ていきます。本来はイザベラの奥地紀行のルートなどを検証したいなぁと思って始めたのですが、未だに旅のスタートにすら辿り着いていない始末。おそらく次からは、イザベラの旅の話ができると思います。

異教徒の祈り

というわけで、浅草寺での話をもう少しだけ。

ある堂の中には大きな偶像が納められていて、紙つぶてが一面についている。彼を保護している網にも、何百となく紙つぶてがくっついている。参詣人は、願い事を紙片に書くか、あるいは上等の部類では、坊さんに書いてもらって、その紙片を噛んで丸め、神様に向かって吐きつけるのである。もし狙いがうまくいって網格子の中を通過すれば、それは吉兆である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)

はい。この文章も見ての通りなのですが、願い事を記した紙を仏像に向かって吐きつける(まるで吹き矢のように?)……などという習慣、今でもあるのでしょうか?

この後は「びんずる」、「お稲荷さま」、「鬼たち」、「花卉の畸形」、「日本の女性」、「矢場」と続きます。この中で「お稲荷さま」「花卉の畸形」「日本の女性」は普及版ではカットされたものですが、「お稲荷さま」は神社におけるキツネ信仰について、「花卉の畸形」は花の品種改良について、それぞれイザベラの発見が描かれています。また「日本の女性」は日本女性の外見的な特徴について、例によって鋭い筆致で描かれています。どれも興味深いものではありますが、今回はバッサリとカットということで……。

新しい日本

今回の「第五信」は随分と長かった印象があるのですが、イザベラ自身も……

 この手紙はたいそう長くなってしまったが、印象がまだ新鮮なうちに、浅草のいろいろと珍しいことを省略したら、日本の最も興味深い名所の一つを見過ごしたことになるであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.65 より引用)

と記しています。イザベラの視点は、浅草の文物のみならず帰り道の風景にも向けられていたのですが、

帰り道にロンドンにあると同じような赤い郵便車の傍を通った。またヨーロッパ式の制服や鞍をつけた騎兵隊、海軍卿の馬車。これは英国式の馬具をつけた二頭立ての箱馬車で、六人の騎馬兵が護衛していた──これは三週間前に大久保(利通)内務卿が政治的暗殺をされてから採用された悲しい予防措置である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.65 より引用)

英国風の近代化を推し進めようとする東京の姿に、「もうひとつの東京」を見たのでしょうか。ちなみに大久保利通の暗殺は 1878 年 5 月 14 日のことですから、確かにイザベラの記した通り「三週間前」の出来事です。

こんなわけで、この大都市では古いものと新しいものが、互いに対照し、互いに摩擦している。天皇と大臣たち、陸海軍の将兵たち、文官や警官のすべてが洋服を着ている。「若い日本」を代表しようと熱望する放蕩的様相を帯びた若者たちも同じく洋服である。馬車や家屋も、絨氈、椅子、テーブルのある英国式が非常に多くなってきている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.65 より引用)

浅草で見た「古き良き江戸」と、英国式の風俗の真似に必死だった「新しい東京」が、まるで二重螺旋構造のように絡み合っていた様が見て取れます。少しわからなかったのが「放蕩的様相を帯びた若者たち」なのですが、これは士族や華族の子弟のことなんでしょうかね。道すがら文明開化の音を辺り一帯に響かせていたのかもしれません。

一方で、洋装の流行は一部の男性に限られていたようで、

幸運なことには、このように高価で似合わぬ新式の品物は、女性の服装にほとんど影響を与えなかった。洋式を採用した婦人たちの中にも、これを捨てたものがいる。洋服は着心地が悪く、いろいろ複雑な困難があるという理由からである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.65 より引用)

女性の服装は、昔ながらの和装が多かったようです。まだまだ保守的な世の中だったということでしょうね。大正あたりになれば、また変わっていたのでしょうが……。

貴婦人

イザベラは、上流階級の女性における洋装と和装の違いについて、更なる洞察を続けます。

皇后は、国家的行事の場合には、真紅の繻子の袴、流れるような長い衣服をつけて現われる。しかしいつもは、皇后も女官たちも、和服を着ている。私は洋装の女性を二人だけしか見ていない。それは当地の晩餐会のときで、進取的な外務次官森(有礼)氏夫人と、日本の香港領事の夫人だけだった。二人とも長く海外に居住したから、楽に洋装できるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.65-66 より引用)

「繻子」とはサテンのことですね。そして、数少ない例外を示すことで、皇后をはじめ、殆どの貴婦人が日頃は和装であったことを記しています。

和装は洋装よりも大きな利点がある。すなわち、一つの着物と一つの帯をつければ完全に着物を着たことになり、重ね着すれば、服装は完璧なものとなる。高貴の生まれの女性と、中流や下層階級の女性とでは、顔の特色や表情に相違がある──しかし、日本の画家はこの点を大きく誇張している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.66 より引用)

女性の和装における「重ね着」と言うと「十二単」が連想されるのですが、イザベラは十二単の女性を実際に目にする機会があったのでしょうか。もし、その機会が無かったのであれば、随分と鋭い洞察力であると言わざるを得ませんね。

私は太った顔、団子鼻、厚い唇、眼尻のつり上がった長い眼、白粉を塗った顔色などを賞めたいとは思わない。唇に赤黄色の顔料を塗ったり、顔や喉に白粉を厚く塗りたてる習慣は、私をぞっとさせる。しかし、あのように優しい立居振舞いをする女性に対して、好ましくない批評をすることは難しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.66 より引用)

うーむ。これまた随分と直截な表現のオンパレードですが……(汗)。この文章からは、江戸期の浮世絵のイメージと、和装の貴婦人の所作を脳内でブレンドしたものかな、などとも思えてきます。英国婦人にとってはアジア系の平べったい顔貌はそれほど魅力的なものでは無い反面、その気質や立ち居振る舞いは感銘を受けるものだった、ということかも知れませんね。


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