2014年1月11日土曜日

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イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第30回)

 


それでは、今日からは 1878/6/10 付けの「第六信」(本来は「第九信」)を見ていきます。ようやく奥地への旅がスタートします。

心配

浅草観光を楽しんだイザベラですが、早くも翌日には本格的な「奥地紀行」をスタートさせます。

日付を見ればわかるように、私は長い旅行を始めた。しかしまだ「未踏の地」に至ってはいない。それは、日光を出発してから入るつもりである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.67 より引用)

今更ながら「未踏の地」の定義ですが、これは、西洋人が未だ足を踏み入れていない場所……で良かったですかね。後で出てきますが、明治初頭当時、既に日光は観光地化していた(しつつあった)ようなのです。ですから、イザベラも日光までの旅にはそれほど気合いが入らなかった……ということかもしれません。

そんなイザベラでも、「未踏の地」(=「未開の地」という認識も、心の底にはあったのでしょう)への旅立ちには、やはり不安を憶えたようです。

私は計画を断念したいと何度思ったかしれない。しかし私はそのたびに自分の臆病を恥じた。最も確かな筋から、旅行の安全を保証してもらったではないか。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.67 より引用)

「最も確かな筋」は、英国公使のハリー・パークス卿のことでしょうね。「日本奥地紀行」は、ひとりの英国婦人の旅行冒険譚なのですが、同時にある種のスパイ活動的な色彩があったことも否定はできなかったのでは、と思えます。イザベラとしては純粋な好奇心に駆られただけなのかもしれませんが、それが国益に適うとなれば、「確かな筋」も支援を躊躇うことは無いでしょう。

さて、次からは「旅の支度」と題された一章が始まります。

*原注──私の装備表は、これから先の旅行者、特に日本の奥地を遠距離旅行したいと思う女性旅行者の参考になれば、と思って出した。後で分かったことだが、柳行李が一つあれば充分である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.67-68 より引用)

詳しくは、これから見ていきましょう。

旅の支度

イザベラは、後人の参考とすべく、その旅支度を詳らかに記しています。

準備は昨日終わった。私の支度は、重さ一一〇ポンドで、伊藤の重さ九〇ポンドをあわせると、ふつうの日本の馬一頭がやっと運べる重量である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.68 より引用)

ヤード・ポンド法には馴染みが無いのでピンと来ないのですが、110 ポンドは約 50 kg、90 ポンドは約 41 kg です。飛行機の受託手荷物が 20~30 kg ですから、イザベラの荷物は大型トランク 2 個分、伊藤の荷物は小型トランク 2 個分と考えるとある程度想像がつきますね。未踏の地を旅するには結構な大荷物ですが、現代人の 4 泊 5 日の旅と比較してはいけないのかもしれません。たとえば、こんな荷物も必要になるのです。

私には折り畳み式椅子がある──日本の家屋には、床しか腰を下ろすところがなく、寄りかかるべき堅固な壁もないからだ。それから人力車旅行のための空気枕、ゴム製の浴槽、敷布、毛布、そして最後に最も大切な寝台。これは軽い柱をつけた画布台で、二分間で組み立てることができる。高さは二フィート半だから、蚤を安全に避けることができるだろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.68 より引用)

当時の日本家屋は和室と土間が全てだったでしょうから、椅子が必要になると考えたのは至極当然のことだったかもしれません。「ゴム製の浴槽」というのには驚かされますが、内風呂の無い民家も多かった(大半がそうだったかも)でしょうから、これもやむを得ない携行品だったのかもしれませんね。

「最も大切な寝台」とありますが、これは全く以てその通りで、蚤(ノミ)対策に大きな効果を発揮することになるのでしょう。今の日本もそうですが、蚤の害は馬鹿にならないのです。

私が持参したのは、ただ少量のリービッヒ肉エキス、四ポンドの乾葡萄、少しのチョコレート──これらは、食べたり飲んだりするためのもの。いざという場合のためブランデーを少量。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.68 より引用)

「リービッヒ肉エキス」は第四信にも出てきましたね。詳細は2012/4/8 の記事をご覧下さい。「50 kg の手荷物」の中には大量の食料品があったのでは……と思ったのですが、必ずしもそうでも無かったようです。現地調達ベースで考えていたのでしょうか。なかなかチャレンジャーですね。

蝋燭少量、ブランドン氏日本大地図、「英国アジア協会誌」数冊、サトウ氏の英和辞典。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.68 より引用)

当時、既に「ブランドン氏日本大地図」なるものがあったのですね(軽く調べてみたのですが、正体は特定できず)。ガイドの伊藤少年がいるとは言え、自身の居所を把握することは大切ですから、地図の携行も至極当然のことだったでしょう。サトウ氏はアーネスト・サトウのことでしょうか。英和辞典も作成していたのですね……。

さて、文庫本の表紙でもお馴染みの、イザベラが被ったと思われる笠についてですが……。

私のかぶる日本の笠は、大きな鉢を逆にした形をしており、軽い竹を編んだもので、白い木綿のカバーがついており、内側にたいへん軽い枠組がしてある。これが額のまわりをしっかり押さえて、空気がよく通れるように笠と頭の間に一インチ半の空間をとってある。この重さは、ただの二オンス半で、重いヘルメット帽よりもどれほどよいか分からない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.68-69 より引用)

ふーむ。そういう自分は笠を被ったことが無いのですが、なるほど、頭部を固定するための枠組みが内側にあるのですね。イザベラはたいそう笠が気に入ったらしく、

軽いけれども、笠は頭部をすっかり保護してくれるので、今日は一日中、日が照っていて温度も八六度(華氏)だったが、他に頭部を守るものは必要なかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69 より引用)

えーと、華氏 86 度は摂氏 30 度ですね。蒸し暑い日本の夏を快適に過ごすには、日光を遮ることと風通しを良くすることに尽きるということでしょう。つばの大きな麦わら帽子でも良さそうな感じがしますが、笠の方が遮光も気流も一枚上だったのでしょうか。

当たり前の話ですが、イザベラは英国人なので、イギリスのパスポートを持って日本に来ていたようです。

旅券を入れた袋は腰に下げている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69 より引用)

当時(1878 年)は、欧米人には事実上の治外法権が認められていた筈ですが、それでもパスポート(ビザ)は存在していたのですね(いや、当たり前の話ですが)。ここで言う「旅券」の詳細は後ほど明らかにされますが、どちらかと言えば「ビザ」に類する物だったようです。

こうして、二人分で 90 kg 超の荷物を携行して日光に向かうことになるのですが、

私は三台の人力車を雇った。九〇マイル離れた日光まで、車夫を代えずに三日間で、一台一一シリングほどで行くことになっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69 より引用)

日光までは、人力車を手配したようです。馬力こそ劣るものの、やはり人力車の方が色んな意味で安全でしょうからね。


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