2014年7月21日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (36) 春日部(春日部市)~栗橋(久喜市) (1878/6/11)

 

イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第36回)

1878/6/10 付けの「第六信」(本来は「第九信」)は分量が多かったからか、「日本奥地紀行」では「第六信」と「第六信(続き)」の二つに分割されていました。ここからは、「第六信(続き)」(本来は「第九信(続き)」となる)を見ていきます。

車夫病気となる

粕壁(春日部)を発ったイザベラ一行は、一路北へと向かいますが、ここでアクシデントが発生します。アクシデントの主役は人力車の車夫でした。

最初の休憩所で私の車夫は《親切でやさしい男だが見るも恐ろしい》痛みと吐き気に襲われた。粕壁で悪い水を飲んだためだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.83 より引用)
当然のことながら、下水道はおろか上水道すらまともに整備されていなかった時代でしょうから、川の水か、あるいは井戸の水を飲用していたのでしょうね。現代においても、海外を旅する際には「飲用水に気をつけろ」という話がありますが、そういえばイザベラはどのようにして飲用水の問題を解決したのでしょうか。

車夫は赤痢にでも罹患したのか、ここで離脱することになるのですが、その際の対応が非常にプロフェッショナルなものだったようで、イザベラは次のように記していました。

そこで後に残しておくことにした。彼は契約を厳重に守って代わりの者を出し、病気だからといってチップを請求することはなかった。その正直で独自のやり方が私にはたいへん嬉しかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.83 より引用)
車夫がダウンしたのは、あくまで水のせいで、熱中症では無かったのだ……と思いますが、当日の気温については次のように記しています。

その日はよく照る日で、木蔭で八六度もあったが、むし暑くはなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.83 より引用)
むむっ。イザベラはイギリスの人ですが、温度単位は華氏を使っていたのですね。ちなみに華氏 86 度は摂氏 30 度ですから、木陰で摂氏 30 度というと、これは相当な暑さですね。健康な車夫でもかなり身体にきついコンディションだったようです。

イザベラ一行は正午に利根川の畔に辿り着きます。粕壁の宿を出たのは朝の 7 時を回っていたと考えられるので、およそ 5 時間弱の行程だったと考えられます。車夫のトラブル等を考えると、実行程は 4 時間程度かなぁ、と想像できます。

正午に利根川に着いた。私は車夫の入れ墨をした肩の上につかまって浅瀬を渡った。それから人力車、たちの悪い駄馬、数人の旅行者とともに平底船に乗って川を渡った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.83-84 より引用)
どの地点で利根川を渡渉したのかを前後の文脈から判断するのは難しいのですが、日光街道は栗橋宿の渡船で利根川を越えていたので、イザベラもおそらく同じルートを辿ったものと推定されます(人力車の平均速度を 8~10 km/h と推定すると、所要時間の面でも矛盾は無いように思われます)。

農夫の服装

後で出てきますが、この日のイザベラの目的地は現在の栃木市でした。

東京まで汽船が通っている村のところで、また別な川を渡し船で越えると、あたりの景色はずっと眼を楽しませてくれるようになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.84 より引用)
栗橋(の対岸にある中田宿)から栃木に向かうためには、どこかで渡良瀬川の支流である「思川」を越える必要があります。イザベラの言う「別な川」は、おそらく現在の思川のことなのでしょう。

川の東側には日光街道が南北に走っていて、現在では東北本線と東北新幹線も通っていますが、1878 年当時は東北本線の前身となる「日本鉄道」という会社自体がまだ存在していませんでした(日本鉄道の設立は 1880 年)。よって、東京への大量輸送手段として江戸川経由の汽船が幅を利かせていたのでしょうね。

さて、この「日本奥地紀行」は、紀行文とは言ってもその実態は探検の記録であり、そして地誌的な側面も色濃く持っています。例えば次の文章からは、明治初頭の栃木近郊にうどんづくりの習慣が広く存在していたことが見て取れます。

彼らは、小麦でパンを作るのではなく、うどんを作るのだが、その小麦の大部分はすでに運搬中である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.84 より引用)
現在だと、佐野ラーメンや宇都宮の餃子の印象が強いですが、そのルーツは実はうどんにあったのかも知れませんね。

また、次のような記述もありました。

畑は注意深く耕され、豊富に肥料を与えるから一年に二回、あるいは三回も穀物を栽培できる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.85 より引用)
気候が温暖で水の確保にも苦労しないからか、当時から二毛作が行われていたのですね。肥料はやはり家畜の糞尿ベースだったのかな? と想像したりしたのですが、次のような記述もありました。

牛乳用にも運搬用(?)にも食用にも、動物を用いるということはなく、牧草地もないから、田園も農園もふしぎなほど静かで、活気のない様子を呈している。みすぼらしい犬と何羽かの鶏だけが家畜動物の代表者となっている。私には牛や羊の鳴き声が恋しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.86 より引用)
ふーむ。確かに牧場よりは畑が多そうな場所ですが、荷物運搬用の駄馬もいないというのは少々意外な感じがします。イギリスではこのような「畑だけ!」という土地利用は珍しかったのかもしれませんね。

こうしてイザベラ一行は、静かで長閑な景色の中を栃木へと向かったのでした。

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