2015年7月20日月曜日

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イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第46回)

 


引き続き、1878/6/22 付けの「第九信」(本来は「第十ニ信」となる)を見ていきましょう。

宿屋と女中

イザベラは、奥地紀行の「練習」として、日光から戦場ヶ原を通って奥日光の湯元まで小旅行に出かけました。

つらい一日の旅行を終わって、美しい宿屋に着いた。この宿屋は、内も外も美しい。旅行でよごれた人間よりも、美しい妖精が泊まるにふさわしい。襖はなめらかに削った軽い板で、いい香りがする。畳はほとんど真っ白で、縁側は光沢のある松材である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.114 より引用)

湯元の宿屋はとても快適な建物だったようですね。湯元温泉は、どうやら当時から湯治場としての機能を果たしていたようです。

少女が部屋に入ってきて、微笑しながらお茶をもってきた。すももの花が入ったお茶で、アーモンドのようないい香りがした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.114 より引用)

煎茶にスモモの花があしらってあったのでしょうか。なかなか洒落たことをしたものですね。今の日本で「湯治場」と言うと、鄙びた秘湯のようなイメージを持ってしまいがちですが、当時の湯元温泉は一流の観光地だったことを伺わせます。

土地の湯治場

イザベラも「日本の湯治場」は初めてだったようで、とても精細な記述が続きます。

この美しい村は、湖と山の間に挟まれて、ほとんど余地がないほどである。ここは小ぎれいな家が次々と上下に続き、削ったばかりの赤みがかった杉材で造られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.114 より引用)

イザベラのこの文を素直に読み解くと、建設されてからそれほど年数が経過していない建物が軒を連ねているようにも思えます。明治になってからの十数年で「湯治」の需要が伸びたということなのでしょうか。いずれにせよ、明治 11 年(1878 年)の奥日光・湯元温泉は、既に結構な賑わいを見せていたと考えられそうです。

もっとも、当然ながら冬場の気候は厳しいものだったようで、

ここでは冬に一〇フィートも雪が積もり、十月十日になると、人々はその美しい家を粗い蓆(むしろ)で包む。そして屋根までも包んでしまう。それから五月十日まで、低い地方に下りている。留守番を一人残す。彼は週に一度交替となる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.114 より引用)

ほぼ半年もの間、留守番を残して温泉街は冬眠していたみたいです。イザベラが湯元を訪れたのは 6 月のことですから、長い冬眠が終わって、活気が湯元に戻った頃と言えそうですね。

ここは人がいっぱいで、四つの浴場は人ごみであった。元気のよい病人は一日に十二回も入湯する!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116 より引用)

「元気のよい病人」というのはちょっと矛盾したような感じもしますが、実際には良くありそうな話ですね。それにしても「一日に十二回」というのは相当なものです。他にすることは無いのか……と疑問に思ったりするのですが、

湖には屋形船が一隻あり、数人の芸者が三味線をひいていた。しかし賭けごとは禁止されているから、浴場以外に人々の出かけるところはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116 より引用)

なるほど、他に出かけるところが無いのですね(笑)。現在の湯元温泉には「日光湯元温泉スキー場」がありますが、もちろんこれは冬場限定ですし、あとは本当に「屋形船」くらいしか遊ぶものが無かったのかもしれません。

「賭けごとは禁止されている」ということは、山奥の温泉街の秩序を守る力が存在していたことを伺わせますが、それが公権力によるものなのか、あるいは自治的なものだったのか、どちらだったのでしょうね。

硫黄泉

イザベラは、湯元温泉の湯元(ややこしいな)も見に行ったようです。

湯の出るところは村の先で、塚の中の四角な槽の中である。非常に勢いよく沸騰し、悪臭の煙を出している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116 より引用)

「悪臭の煙」というのは、硫黄分を含む湯気のことでしょうね。この描写からは、まるで活火山の河口のような雰囲気に思えます。

それにはところどころに広い板が渡してあり、リューマチに悩む人々は、何時間もその上に横になり、硫黄の蒸気を身体にあてる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116 より引用)

リウマチ」という病気についての知識を殆ど持ち合わせていないのですが、治療のために湯に浸かる代わりに蒸気を浴びることもあったのですね。

ちなみに、硫黄泉がリウマチに対して明確な効能がある……というわけでは無いらしいのですが、入浴という行為自体が「神経痛、筋肉痛、関節痛、関節のこわばり」などに対して効果があるとされているようですので、湯治は対処療法として一定の効果が見込まれるみたいです。

この湯の温度は華氏一三〇度であるが、湯が村まで蓋のない木の樋に沿ってゆくと、ただの八四度となる。湯元は四千フィート以上の高さにあり、非常に寒い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116 より引用)

日本人はファーレンハイト度に慣れていないので「華氏 130 度」と言われると何か凄そうな印象を受けてしまうのですが、セルシウス度に直すと「54.4 度」なので、「あっ、なーんだ」という印象に変わってしまいます。もっとも浴用にするには高すぎるので、木の樋で湯を引くことでちょうどいいレベルまで温度を下げていたようです。

ただ、イザベラの言う「華氏 84 度」は「摂氏 28.9 度」なので、いくらなんでも低すぎる感がありますね。そもそもイザベラが温度計を携帯していたのか、更に言うとその温度計がどの程度正確だったのかというところから、多少疑ってかかる必要性もありそうです。

なお、「4000 フィート」は 1,219.2 m ですが、湯元温泉のあたりは海抜 1,480 m ほどあります。

上前をはねる

入町、すなわち、日光の金谷家にて、イザベラは次のような一節を書き記していました。

入町(日光)にて──湯元を出る前に、私は「上前をはねる」やり方を観察した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116 より引用)

これまた、なんとも恐ろしい話ですね。「イザベラは見た!」と言った感じでしょうか(汗)。

私が勘定を頼むと、宿の亭主は、私にそれを渡さずに階段を上ってゆき、伊藤にどれほどにしたらよいかと相談した。そして、二人で上前を分配した。召使いは、何を買うにも上前をはねる。ホテルの費用についても同じである。それは非常に巧妙になされるから、それを防止することはできない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.116-117 より引用)

まぁ、これはいかにもありそうな話ですね。日本人が海外旅行した時にも、似たようなことが普通に行われているような気がします。こういったやり方は古今東西変わらないものなんですね(笑)。ただ、この「不正」に対するイザベラの対処も堂に入ったもので、

それが妥当な限度を保っている限りは、それについて心をわずらわさないのがいちばんよい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.117 より引用)

このように、泰然自若に構えるというものでした。ことを荒立たせるよりは、ある程度好きにさせたほうが手間が省ける、ということなのでしょうね。

歓迎される到着

日本奥地紀行の「普及版」では、「第九信」はここまでで、これから先のエピソードはバッサリと削られています。少々悲しい出来事もあったようなので、仕方がなかったのかも知れません。

イザベラは、湯元で一泊した後、日光の金谷家に戻ることにしました。ここからは、戻り道の描写が続きます。

戻り道に、私は湯元湖の氾濫により形成された湯の滝(ユノタキ)に行ってきましたが、そこは、大きな水の一群がすばらしい波形をした黒い岩を40度の角度で迸り、細裂きの絹糸のように見える何千もの分岐した小滝に分かれています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.51 より引用)

湯元温泉の南側には「湯ノ湖」と呼ばれる湖があるのですが、湖の出口は「湯滝」と呼ばれる滝になっていて、およそ 700 m ほどの高度を一気に滑り落ちます。これは……かなりの壮観だったでしょうね。現在では下から滝を眺めることができる展望台があるみたいです。

その後は戦場ヶ原を通り、中禅寺湖の畔を抜けて、現在の「いろは坂」にやってきました。イザベラは、今度は「華厳の滝」を眺めることになります。

真正面が絶壁に面した曲がりくねった道は200フィート下の展望点に向かっていますが、そこには面白い注意書きがあります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.51 より引用)

日光と中宮祠の間を結ぶ国道 120 号(いろは坂)は、現在は「第一いろは坂」(下り専用)と「第二いろは坂」(上り専用)の 2 つのルートに別れていますが、イザベラのこの文章によると、当時のルートは現在の「第一いろは坂」のルートとも違っていたことを伺わせます(「第一いろは坂」では「200フィート下の展望点」に向かうことができない)。

地理院地図を見てみると、華厳渓谷沿いにも歩道レベルの道が存在しているように見られるので、イザベラもおそらくはこの道を降りていったのでしょうね。この時点で既に想像がつくのですが、やはり危険な部分のある道だったようで、次のような注意書きがあったのだそうです。

つまり、年寄りや小さい子ども、また酒を飲みすぎた人は下に降りていくことは出来ませんとあるのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.51 より引用)

現在で言う「酷道」だったのでしょうね。

イザベラ一行は、日光・入町(金谷家)に戻る途中に驟雨に見舞われたらしく、服や荷物がずぶ濡れになってしまいました。ところが、イザベラは金谷家で意外な光景を目にします。

入町(イリミチ)の近くで道路は急流のようになり、乱暴に石の段を滝のように下っていき、私は服も荷物もびしょ濡れで着きました。と、そこで私は外国人の紳士と婦人が私のバルコニーの前で彼らの服を乾かしながら食事をしているのを発見しました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.52 より引用)

金谷家には、同じく驟雨に見舞われた、西洋人の先客がいたのでした。

私の綺麗な部屋は占拠されていました。しかし私と同人種で同言語の人たちを見て、あまりに嬉しくて喜んで裏の部屋を取り、みなが乾いた服に着替えてからすぐに私は彼らと知り合いになっだので、彼らが北京から新婚旅行に来たチョンシー・グッドリッチ夫妻と分かりました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.52 より引用)

イザベラは、これまで自分が使用していた部屋を失ったことを悲しむ代わりに、同じ西洋人の客(Mr. and Mrs. Chauncey Goodrich)と巡り会えたことに喜びを覚えたようです。イザベラは、グッドリッチ夫妻とすぐに親しくなったそうなのですが、

原注1:私たちは本当に心から親しく交流した。グッドリッチ夫人は粕壁の悪い水にあたって患っていたが、わずか数週間後に亡くなったと、その悲報を後で聞いた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.52 より引用)

あろうことか、こんな悲しい結末が待っていたのだそうです。当時は衛生面では今とは比べ物にならないくらいお粗末だったということが読み解けますね。そして、そんな危険と背中合わせの「奥地紀行」を、イザベラはこれから敢行することになります。



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