2015年9月22日火曜日

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「日本奥地紀行」を読む (48) 日光 (1878/6/23)

 

引き続き、1878/6/23 付けの「第十信」(本来は「第十三信」となる)を見ていきましょう。

イザベラは奥地紀行に旅立つ前に、日光は入町村の学校見学に出かけます。日本の子どもの従順さの影に日本人の国民性を見出すとともに、本来は自由奔放であるはずの子どもたちを一体どのように躾けているのか、そのシステムにも興味を抱いたようでした。

悪い行ないをすれば処罰として鞭で膝を数回殴られるか、あるいは人差指にモクサ(もぐさ)をつけて軽くお灸をすえられる。これは今も行なわれる家庭内の懲罰である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
ふむふむ。現代でも慣用表現として「お灸をすえる」というものがありますが、当時は本当に罰としてお灸をすえることがあったのですね。見た目は近代的な学校においてもこのような旧時代的な処罰が行われていたのかと思うと少々残念な気もしますが、当の教師からは次のような説明を受けていたようです。

しかし教師の説明によると、学校に居残りをさせることだけが現在用いられている処罰であるという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
この矛盾は、これも日本人お得意の「本音と建前」という奴なんでしょうか。

彼は、私たち英国人が余分の仕事を課すというやり方に大いに不賛成である、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
これはちょっと二通りの読み方ができてしまうので、念のため原文も見ておきましょうか。

he expressed great disapprobation of our plan of imposing an added task.
ふむ。彼(教師)は私たち(英国人)の考えに対して落胆を表明した、ということですね。「罰として宿題を増やす」というスタイルが英国風なんでしょうか。どういう意図から「大いに不賛成」だったのか、ちょっと興味が湧いてきます。

朝の 7 時に太鼓の音で学校に集合した子どもたちは、やはり正午には解散するという時間割だったようです。昼からは、子ども本来の持ち場に戻ったのでしょうね。

十二時になると子どもたちは、男子と女子がそれぞれ一団となって整然と行進して校庭を出て、静かに解散した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120-121 より引用)
日本奥地紀行「普及版」では、ここから先の少々生々しい内容がカットされています。カットされた内容は、たとえばこんなものでした。

政府はすでにすべての階級に教育が行き渡るように多くのことを実施したが、しかし、まだ義務的な取り扱い(義務教育)の効果は表れていず、学齢児童は500万人と見積もられているが実際に学校に行っているのはわずか200万人強にすぎないのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.53 より引用)
日本における義務教育は、1872 年の「学制公布」がその始まりだった……のですね(ちゃんと知らなかった)。イザベラは義務教育 7 年目の学校を見学したことになりますが、推計 40% だったら制度の出だしとしてはこんなもの……のような気もしますね。

授業料は親の資力により月に半ペニーから3.5ペンスであるが、これにはインク、紙、石板あるいは教科書は含まれない。彼は私に教師には13段階あり、自分は8段階目で月に1ポンド受け取っていると言いました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.53 より引用)
これもまた生々しい……。ちなみに 1 ポンドが 186 円くらいですから、0.5 ペニーであれば約 0.93 円、3.5 ペンスであれば約 6.51 円になりますね。もっとも、こんな換算は全く意味がありません。ただ、もっとも資力のある家の子でも、教師の月給の 3.5 % 程度の負担で済んだというのはちょっと考えさせられますね。

子どものパーティ

日光では入町の「金谷家」に逗留していたイザベラですが、こんなイベントを目にする機会があったようです。現代の日本では、子どものパーティにわざわざ招待状を出すようなことは滅多にないと思うのですが、当時は割と当たり前だったのでしょうか。金谷家は当時としてはかなりハイソ(死語?)な一家だったような気もしますが……。

公式の子どものパーティが、この家で開かれた。そのため、十二歳の少女である子どもの名前で、正式な招待状が出された。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.121 より引用)
招待状を出したからには、招待したお客様をきちんとお迎えしないといけません。

ハル(春)という名のこの子は、石段の上でお客を迎える。そしてお客を接待室へ案内する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.121 より引用)
ふむふむ。なかなかやりますね。

子どもの芝居

イザベラの言う「子どものパーティ」は、随分と礼儀正しい雰囲気の中で始まりました。

お客が全部集まると、彼女と非常に優雅な母は、一人ひとりの前に坐りながら、漆器のお盆にのせたお茶と菓子を出した。子どもたちは、暗くなるまで、非常に静かで礼儀正しい遊戯をして遊んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.122 より引用)
その会の中で、イザベラは一つの発見をします。

オクサマは英語の「マイ・レイディ」に相当し、結婚した婦人に対して用いられる。女性には姓はない。だから「佐口夫人」とは言わずに「佐口さんの奥さん」という。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.121 より引用)
なるほど。日本人の感覚では「佐口夫人」でも「佐口さんの奥さん」でも、大した違いがないように思えてしまうのですが、この両者に明確な違いを認めることもできるのですね。「女性には姓はない」というのは正しいと言えば正しいのでしょうね。少なくとも江戸時代は女性が姓を名乗ることはほぼ無かったでしょうし、そういった慣習が一朝一夕に廃れたとも考えづらいですからね。

さてさて、随分とお上品な「子どものパーティ」ですが、中にはこんな傑作な「遊戯」もあったのだそうです。

子どもの遊戯の一つは非常におもしろいもので、元気よく、しかも非常にもったいぶって行なわれる。それは一人の子どもが病気の真似をし、他の子どもが医者の真似をするのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.122-123 より引用)
これは……「お医者様ごっこ」ですよね! ただ、イザベラの見た「お医者様ごっこ」は随分と本格的なロールプレイングだったようで、

不幸にも、医者は患者を死なしてしまう。患者は、青白い顔をして、うまく死んだように眠ったふりをする。それから嘆き悲しみ葬式となる。こんなふうにして結婚式や宴会、その他多くの行事を芝居にする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.123 より引用)
……という、何ともリアルでシュール® なものだったのでした。

この子どもたちの威厳と沈着ぶりは、驚くべきものである。事実は、やっとしゃべり始めるころから日本礼法の手ほどきを受けるのである。だから、十歳になるときまでには、あらゆる場合に応じて、何をしたらよいか、何をしてはいけないのか、正確に知っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.123 より引用)
考えてみれば、「学校」はあくまで学問を修めるところであって、冠婚葬祭や礼儀作法といったものは「学問」とは本来別物なんですよね。学問を身につけるための「学校」という制度は発展途上だったのでしょうが、一方で礼儀作法などの「教育」は、就学前からしっかりと行われていたことが見て取れます。イザベラも、子どもたちの立ち居振る舞いには素直に驚いていたようですね。

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