2015年10月12日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (50) 日光 (1878/6/23)

 

引き続き、1878/6/23 付けの「第十信」(本来は「第十三信」となる)を見ていきましょう。

金谷

イザベラは奥地紀行のベースキャンプとして、日光は入町村にある「金谷家」に逗留していました。「金谷家」は現在の「ホテル金谷」の前身でもありますね。そして、サブタイトルである「金谷」は金谷家のご主人のことです。その金谷さんのことを、イザベラは次のように説明します。

金谷さんはこの村の村長で、神社音楽であるキーキーという不協和音を演奏する指揮者でもある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
……。入町村の村長と言いますから、かなりの名士なんですよね。本業?は雅楽師のようなのですが、「キーキーという不協和音を演奏する」というのは、いくらなんでも酷すぎやしませんかイザベラ姐さん……。

しかも、何故かぶっちゃけモードに入ったイザベラ姐さんの暴露(?)は更に続きます。

彼はまた、どこか人の分からない裏の場所で薬を調合し、それを売っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
いや、あの、その……。この表現だと、どう見ても「ヤバいハーブに詳しいミュージシャン」としか思えないのですが……。

毎日の仕事

そんなラスタ系ミュージシャンの(違)金谷さんですが、日々のお仕事はなかなか倹しいものだったようです。

私がここへ来てからは、庭園をきれいにするのが彼の主な仕事である。彼は、堂々たる滝を作り、流れる川を作り、小さな池や、竹で丸木橋をこしらえたり、草の堤をいくつか作り、大きな木を何本か移植した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
いや、「堂々たる滝を作る」仕事は決して倹しいとは言えないですかね。でもまぁ、イザベラが苦手とした「キーキーという不協和音」を奏でる仕事と比べると、随分と渋い仕事だったと言えるのでは無いでしょうか。

イザベラは、金谷さんの「庭造り」の是非については特に記していませんが、どのように感じていたのでしょう。想像するに、庭園は「作りこまれたミニチュアの自然」と言えるようなものだったんじゃないかな、と思うのですが……。

彼は親切にも私と一緒によく出かけてくれる。彼はとても知的であるし、伊藤も優秀な通訳であり、私に忠実らしいと思われてきたので、当地に滞在するのはとても愉快である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125-126 より引用)
イザベラ姐さんは金谷さんのことをラスタファリアン呼ばわりしていたにもかかわらず(してません)、その知性や人柄は高く評価していたようですね。あと、イザベラの伊藤少年を見る目が最初からずっと疑い深かったのも気になっていたのですが、ここに来てようやく「私に忠実らしいと思われてきた」と、やや軟化の兆しが見えてきたのも注目に値します。

晩の娯楽

今で言う「高級旅館」だったと思われる「金谷家」には、夜な夜な訪問客があったようです。最初は「将棋や昔話や三味線など」という、割と高尚な?趣味を楽しんでいたようですが……

ふつう訪問客は、それから間もなくやってきて、十一時か十二時までとどまる。晩の早いころは、将棋や昔話や三味線などを楽しむ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.126 より引用)
やがて、イザベラ姐さんが苦手とする「歌の時間」が始まります。それにしても「苦悶の叫び声の演技」「蛮風の精髄」って……(汗)。

しかしその後に、彼らが「歌う」(謡)と称する苦悶の叫び声の演技が始まる。それは、蛮風の精髄ともいうべき響きがあり、主として「ノー」という音を長く振動させるだけのものである。私はその声を聞くと、野蛮人の間に入っているような気分になる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.126 より引用)
そして、「歌の時間」の後は「飲みの時間」です。

小さな酒杯で一杯飲んだだけで軽薄そうな召使いは興奮して、何かたいそうばかばかしい歌や踊りを演ずる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.126 より引用)
んまぁ、この辺のノリは明治の頃も今も大して変わらないということなんでしょうかね。道化役がいて、そしてそれを見て楽しむ人達がいて。

伊藤は主義としてお酒をまったく飲まないが、それを見ると腹をかかえて笑う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.126 より引用)
伊藤少年の抜け目の無さは、このようなところにも現れていたのですね。この抜け目の無さがイザベラに疑いの目を向けさせる最大の要因になったと思われるのですが、つい先程も記したように、ようやくイザベラの疑いも晴れつつある(晴れたわけでは無い)のが救いですね。

飲みの話題も程々に、再び文化的?な話に戻ります。

日本ではたいていの地方に案内書がある。名所の木版挿絵があり、旅程や宿屋の名前、その地方についての知識などがのっている。ある絵本は縮緬でりっぱに作られてあり一世紀以上も古いものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.127 より引用)
ふーむ。言われてみれば「絵巻物」というのは昔から割と普遍的に存在していたものだったでしょうか。

これらの宝物は、家の中に置いてあるのではなく、すぐ傍の蔵という防火倉庫にしまっておくのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.127 より引用)
そして、こういった「宝物」は、通常は「蔵」に入れて保管されるのですが、イザベラはこのシステムの効能を次のように分析していました。

部屋をごたごたと装飾品で飾るということはなく、一枚の掛物、りっぱな漆器や陶磁器が数日出ていたかと思うと、こんどは別の品物がとって代わる。だから簡素さはもちろんのこと、変化に富む。他に気を散らすことなく、美術品を代わるがわる楽しむことができるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.127 より引用)
これは「日替わりランチ」のような仕組みですよね(比喩が安っぽい)。仮に主役級の宝物が三つあったとしても、全てを並べるのではなく一つ一つ入れ替えて出していくというのは「持ち回り」という考え方にも通じるものがありますね。「持ち回り」の原典は「和を以て貴しとなす」であるような気もしますし、そうでも無いような気も(どっちだ)。

旅程計画

イザベラが日光の金谷家に逗留していたのは、もちろん夜な夜などんちゃん騒ぎをするためでは無く、奥地紀行の準備をするためでした。それを確かめるためか、金谷さんは時折「進捗どうですか」とイザベラのもとを訪ねていたようです(多分違う)。

金谷さんとその妹は、しばしば晩に私を訪れる。そこで私は、ブラントンの地図を床の上にひろげて、新潟へ向かう驚くべき道筋を計画する。しかし、途中に山脈があって通り越す道がないことが分かると、急に計画を断念するのが常である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.127 より引用)
「ブラントン」というのは、「お雇い外国人」の一人だったリチャード・ブラントンのことだと思われます。「新潟へ向かう驚くべき道筋」というのはなかなか興味深い……というか、そもそもこの連載?を始めたきっかけが「イザベラの辿ったルートのレビュー」なので、ある意味一番のメインディッシュだったりするんですよね。

金谷さんはそれなりに欧米の風習に通じていた人だと思うのですが、やはり肩をすくめたり、あるいは手のひらを左右に広げて見せたりしていたのでしょうか。

これらの人々はきわめて安楽に暮らしているように思われるのだが、金谷さんは、お金がないと言って嘆く。彼は金持ちになって、外人用のホテルを建設したいと思っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.127 より引用)
お金の話題になった時も、肩をすくめたりしていたのかも知れませんね。ただ、最終的には「日光金谷ホテル」や「中禅寺金谷ホテル」が現存しているので、金谷さんの夢は実を結んだのだ……と言えそうです。

神棚

最後に、何故か唐突に宗教の話になります。

彼の家で宗教の片鱗を示すものは、ただ神棚(仏壇?)である。神棚には、神社のお宮に似たものが立っており、亡くなった身内のものの位牌が入っている。毎朝その前に常緑樹の小枝と御飯と酒が置かれ、夕方になると、その前に灯火がともされる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.127 より引用)
イザベラの文章を読んだ限りでは、これは神棚ではなく仏壇のように思われますね。「神棚(仏壇?)」の部分の原文を見ると "the kamidana, or god-shelf" と書かれているので、イザベラは「神棚」と認識していて、訳者の高梨さんが「(仏壇?)」という註を付け加えたようにも見えます。

もっとも、神仏分離令が出されたのが 10 年前の 1868 年ですから、神棚と仏壇の分離?も完全では無かったのかも知れませんね。

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