2016年4月29日金曜日

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「日本奥地紀行」を読む (56) 小百~小佐越 (1878/6/24)

 

引き続き、1878/6/24 付けの「第十一信」(本来は「第十四信」となる)を見ていきます。イザベラは日光を出発して、小百(旧・今市市)というところにやってきました。

馬に勒(くつわ)をつける

イザベラ一行は日光から小百まで馬に乗って(場所によっては歩いて?)やってきましたが、ここで馬を乗り換えることになりました。現代で言うタクシー会社のテリトリー制みたいなものでしょうか(単に家に戻れる距離か否かの問題なんでしょうけど)。

そして、しばらく待たされた後、ようやく代わりの馬がやってきたのですが……

馬が着くと、人々は、馬勒をつけることができないという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
「馬勒」とは即ち「轡」(くつわ)のことですね。Wikipedia には「ハミ (馬具)」というエントリで詳細が記されています。平たく言えば手綱と馬の口を結ぶために使う金具のようなもの……でいいのでしょうか(汗)。

もっとも、上には上がいたようで……

次に馬を交替したところでは、馬勒という言葉はまだ耳にもしたことがないものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
わたくし馬具はさっぱりわからないので、しばらく Wikipedia を眺めていたのですが、日本には馬勒の代わりに「おもぐい」というものが使われていた……とありますね。馬勒が一般的になるのは明治以降の話だったのかも知れません。

銜(はみ)を馬の歯にぴったり押しつけると、馬は自分から口を開けるものだと説明したが、傍に立っている人たちは、「どんな馬だって、食べるときと噛みつくとき以外は口を決して開けませんよ」とあざけるように言った。私が自分で馬に銜をつけて、はじめて彼らは納得したのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
馬勒そのものを「知らない」と言われてしまったので、イザベラはやむなく?馬勒の付け方を実演する羽目になりました。でも、こんな時にさり気なく実践できるのはイザベラ姐さん流石ですね。

そんなドタバタもありながら、小百でイザベラ一行は馬を乗り換え、小百から小佐越に向かいます。

それで私はキサゴイ(小佐越)という小さな山村で馬を交替したときは、ほっとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
確かに原文には Kisagoi とありますね。現在の日光市小佐越のあたりだと思います。日光江戸村のちょいと北側でしょうか。小佐越は本来は鬼怒川西岸の地名に思えるのですが、東武鬼怒川線の「小佐越駅」が川の東側にあることもあってか、現在は東側のほうが栄えているようにも見えますね。

女性の着物と醜さ

ただ、明治初期の小佐越にはもちろん「日光江戸村」がある訳もなく、イザベラの目には貧しい寒村に見えたようです。

ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
イザベラは筆を続けます。示唆に富む一文が現れました。

私は見たままの真実を書いている。もし私の書いていることが東海道や中山道、琵琶湖や箱根などについて書く旅行者の記述と違っていても、どちらかが不正確ということにはならない。しかしこれが本当に私にとって新しい日本であり、それについてはどんな本も私に教えてくれなかった。日本はおとぎ話の国ではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
「日本奥地紀行」の原題は "Unbeaten Tracks in Japan" でしたが、イザベラは既に「未知なる日本」の姿を目にし始めていたということでしょうか。これからまさに「奥地探検」をせんとする、若干の気負いのようなものも感じられるのは興味深いですね。

イザベラは、ここまでで見かけた農民の身なりについて、改めて詳らかに記しています。かなり細かく書かれているので、一部だけを引用しますが……

着ている着物からは、男か女か分からない。顔も、剃った眉毛とお歯黒がなければ見分けがつかないであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
アングロサクソンからは東洋人の顔はみんな同じに見える……なんて話がありますし、また、アジア人(モンゴロイド?)は概して若く見られるようなので、「男か女か分からない」のもある意味仕方がないようにも思えます。そういう意味では、「剃った眉毛とお歯黒」はとても良い性別アピールだったのではないかと思ったりもするのですが……。

短い下スカートは本当に野蛮に見える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
女子高生の皆さん、短すぎるスカートには気をつけましょう(笑)。

赤ん坊

小佐越での出来事の描写が続きます。

女が裸の赤ん坊を抱いたり背負ったりして、外国人をぽかんと眺めながら立っていると、私はとても「文明化した」日本にいるとは思えない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
「散切り頭を叩いてみると……」という迷句がありましたが、この文章から「裸の赤ん坊」を取り除いてみると、今もそんなに変わらないような気もしないでも無いですね。東京に金髪碧眼の外国人がいても何の不思議もない世の中になりましたが、農村にアングロサクソンのおば……あ、いや、お姉さんが高級ハイヤーで乗り付けたりしたら、やっぱり口をぽかんとして眺めてしまうこともあるんじゃないですかね。

しかし六歳か七歳の小さい子どもが軟らかい赤ん坊を背中に引きずっている姿を見るのは、いつも私にはつらい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
まぁ、広義の「児童労働」と取れなくも無いですからね。事の是非はさておき、これが「当たり前」だったことは事実なわけで。年長の子供が妹や弟の面倒を見るというエコシステムが多産を後押ししていたこともまた事実と言えますよね(他にも理由はある筈ですが、身も蓋もないのでここでは触れません)。

イザベラの「つらい」という心境は、理解できるような気もするのですが、少し理解に苦しむところもありますね。弟や妹の世話をすることで学べるものは少なからずあったと思いますが、あるいは教育や文化活動の機会を多少なりとも奪っていたことも事実でしょうし。イザベラは後者と、その裏側に垣間見える構造的な貧困を評して「つらい」としたのかな、と思えてきます。

この地方では、たくさんの蚕を飼っている。広い納屋では、多くの男たちは裸のままで、女たちは腰まで肌脱ぎとなり、忙しそうに桑の葉をとっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141-142 より引用)
おっさん(失礼!)が諸肌脱ぎなのは、これまでも何度も見ていたので特に違和感は無いのですが、おっさんに限った話では無かったんだな……というところに少々驚いてしまいますね。

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