2016年10月23日日曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (385) 「去場・タップコサラ川・紫雲古津」

 


やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

去場(さるば)

sar-pa
葭原・かみて、葭原・外れ


平取町荷菜と紫雲古津の間の地名です。富川(佐瑠太)と平取の間を結んでいた「沙流軌道」にも同名の駅があったそうです。名の知れた地名ですので、今更取り上げるまでも無いような気もしますが、まぁ、その、何と言いますか……(何なんだ)。

えぇと、まずは永田地名解から。

Sara pa  サラ パ  茅ノ極(ハテ) 又茅ノ東トモ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.228 より引用)

解釈自体には全く異論が無いのですが、「サラ パ」の項が「ピラ カ」と「エショロカニ」の間にあるところに注意が必要かもしれません。永田地名解は基本的には地名の存在する順に記されています。従って、この「サラ パ」は「ピラ カ」と「エショロカニ」の間の地名のことだと考えるのが自然です。

「エショロカニ」は日高富川 IC の近くの「エショロカン沢川」のことだと思われます。問題は、「エショロカニ」の 7 つ後に「シュー ウン コッ」(紫雲古津)が記録されていることで、「サラ パ」が「シュー ウン コッ」と「ニナー」の間に記録されていないということなのですね。要するに、永田地名解の「サラ パ」は「平取町去場」のことでは無い可能性があるわけです。

東西蝦夷山川地理取調図を見てみると、「エソロカニ」の更に下流側の東岸に「サラハヲマ」と「ヒラカ」という川名が記されています。少なくとも「ヒラカ」は移転地名のように思われますね。

問題なのは去場のほうで、東岸の「サラハヲマ」に加えて現在の去場の位置にも「サラハ」と記されています。永田さんはこの「二つのサラハ」を同一視して、「サラハヲマ」の位置に「サラハ」の地名解を書いた……と言ったところでしょうか。

永田地名解の泥沼にハマりつつありますが、続いて戊午日誌「東部沙留志」の記載を見ておきましょう。

またしばし過て
     サラバ村
西岸也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.658 より引用)

ふむ。これで少なくとも松浦武四郎の時代には沙流川の西岸にあったことが確認できました。

本名シヤリヲマ村と云て蘆荻多く生る処と云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.658 より引用)

ほう。sar-pa は元々 sari-oma だったと言うのですね。sari-oma であれば「その葭原・そこにある」と解せるのですが、「ヒラカ」の近くにあったと考えられる「サラハヲマ」と似ているのが不思議な感じもします。

此辺よりニナ辺まで東西両岸に人家有る也。然し此村は昔しは皆ニナに在りし故、会所の帳面には、ニナ村筋と志るし有る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.658 より引用)

このあたり、どうにも良く意味がわからないのですが、整理してみるとこんな感じでしょうか。
  • 去場は沙流川西岸(現在地)にあった
  • 荷菜は沙流川東岸にあった
  • 荷菜は去場に移転した
  • その後、去場のはずれを「荷菜」と称するようになった

歴史の長さ故なのか、あるいは他に理由があったのかは分かりませんが、沙流川流域の地名は移動が多い印象があります。あ、本題ですが、sar-pa で「葭原・かみて」あるいは「葭原・外れ」と考えれば良いかと思います。

タップコサラ川

tapkop-sar
円山・葭原


平取町去場と紫雲古津の間を流れている川の名前です。北海道の地名に慣れ親しんでいる方には「あれっ?」と思われたかも知れません。はい、実はその通りの可能性があるようでして……(汗)。

永田地名解、行っちゃいましょうか。

Tapkop sara  タㇷ゚ コㇷ゚ サラ  孤山ノ茅
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.228 より引用)

はい。地理院地図には「タップコ──」と表記されていますが、本来は「タㇷ゚コㇷ゚」(円山)だったのではないか、という見解ですね。「孤山ノ茅」というのも今ひとつ意味不明ですが……。

戊午日誌「東部沙留志」には次のようにありました。

扨また屈曲まヽをしばし上りて左りの方に
     タツコサラ
西岸相応の川也。此辺にて平地に成り、上に小山有。其名義は小山の傍の蘆荻原と云り。タツコは小山、シヤラは湿沢蘆荻原也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.656 より引用)

ということで、永田地名解とほぼ同じ解釈だったようですね。tapkop-sar で「円山・葭原」と見て良いのでしょうね。あるいは tapkop-us-sar で「円山・ついている・葭原」だったのかもしれません。

紫雲古津(しうんこつ)

sum-un-kot
西・にある・窪地?、西・に向かう・窪み?、
油・ある・窪地?


平取町西端、沙流川の西側に位置する地名です。漢字四文字でなかなかインパクトのある地名ですが、名うての難解地名でもありますね。

東蝦夷日誌には、次のように記されていました。

シリ(東川)、シユムンコツ〔紫雲古津〕村(東岸、人家三十餘軒)本名シユンコツにして、西地面の義也。畑多く有。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.139 より引用)

松浦武四郎はこの紀行の際に、紫雲古津のアイヌの家で一泊しています。翌朝の行程は次のとおりです。

シラウ(東川)源はシユルクシヌタと云て、一里計の一面烏頭(とりかぶと)の生たる處より來る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.139 より引用)

ということで、前後関係を含めて引用してみました。もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、東蝦夷日誌には「シユムンコツ〔紫雲古津〕村(東岸、人家三十餘軒)」とあるのですね。「荷菜」の項でも少し触れましたが、沙流川の東岸(南側)は台地状の地形となっているので、一面の湿原だったと思われる沙流川沿岸の平野部よりも住みやすかったのかもしれません。

戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

また川まゝ五六丁上るや、西岸雑木原・槲柏原也。川岸平(ピラ)に成りたり。右の方に東岸
     シユラシユツ(シユムンコツ)村
平の傍に小川有。是より上り上は平地にて白茨(茅)也。此処少し高きが故に水の患なし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.651 より引用)

ああ、やはり考えることは同じですね。これらの記録から考えるに、当時の「シユムンコツ」は、現在の「紫雲古津川向大橋」の南側の高台にあったように思えます。荷負の「ホビボエ」と似たような立地だったのでは無いでしょうか。

シユムンコツとは如何なる訳にや、土人も不解と云。シユンコツなれば西の地面と云儀にて、或土人の云には、むかし此川にて鱒が多く取れし時に、此処にて油を取りしによって此名有とも云り。何れも惣乙名ハフラは不審となし居たり。此土地は極草生よろしくして畑多し。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.651 より引用)

さて、sum-un-kot をどう解釈するかという話になるのですが、「西・にある・窪地」と考えるか、あるいは「油・ある・窪地」と考えるか、と言ったところでしょうか。

あっ、そうだ。永田地名解を見るのを忘れていました。

Shū un kot  シュー ウン コッ  鍋谷 紫雲古津村
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.228 より引用)

……。永田さん、どんだけ鍋好きなんですか(再掲)。ただ、この「鍋」説が意外と地元ではコンセンサスを得られているようで、紫雲古津には「鍋」のつく苗字の人が多いのだとか。

山田秀三さんの「北海道の地名」では、上記三説を紹介した上で、次のように締めていました。

 あるいは部落の西側の沙流川の崖にあった窪地を shum-un-kot(西・の・窪)と呼んでいて,それがこの名の起こりだったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.362 より引用)

うーん、ありそうな感じもしますし、そうでもなさそうな感じもしますね……。sum-un-kot を「西・に向かう・窪み」と考えて、それっぽい地形があれば可能性が高まるかなーと思うのですが……。ただ、sum の「油」を「原油」と考える可能性もアリかなーと思っていたりもするので……答えが出ないですね(すいません)。

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