2017年1月9日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (66) 大内宿(下郷町)~市川(会津美里町) (1878/6/27~28)

 


引き続き、1878/6/30 付けの「第十二信(完)」(本来は「第十五信(完)」となる)を見ていきます。会津田島を発ったイザベラ一行は、会津西街道(下野街道)を北へと向かいます。

波形の道路

現在、会津田島から会津若松に向かうメインルートは阿賀川沿いの国道 121 号・国道 118 号ですが、1878 年時点でのメインルートは大内宿を経由する下野街道でした。今は観光名所となっている「大内宿」が国道から離れたところにあるのは、会津に向かうメインルートの変遷に理由があったのですね。

大内宿に向かうには、下郷町楢原のあたりから国道を離れ、八幡峠を越えて北上するルートを取ります。その後は中山峠を越えて、ゆったりした形状の谷の中、アップダウンを繰り返すことになります。イザベラも、このあたりの風景には感銘を受けていたようです。

この地方はまことに美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。山頂まで森林におおわれた尖った山々が遠くまで連なって見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.165 より引用)

イザベラは、大内宿に到着します。

私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.165 より引用)

「農家」と言いつつ、各種業務を一手に引き受けるくらいですから、相当立派な建物だったことが推察できますね。宿屋のアメニティには相当な行数を費やすことが常であるイザベラにしては、一切言及がないのは久しぶりのことです。

翌日、イザベラは更なる峠にアタックします。下野街道が結果的に廃れることになったのは、必要以上に峠が多かったこともあったのでしょうね。

私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、それから雄大な市川峠を登った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.165 より引用)

「追分という小さな美しい湖」は、現在は大内ダムのダム湖に沈んでしまったので、当時の風情を知る由もありません。戦前の地図では「大内沼」となっていましたが、ここでルートがふた手に別れていたことから、イザベラの時代には「追分」と呼ばれていたのかもしれません。

ここでイザベラは大内峠には向かわず、更に西側の「市野峠」に向かいます(イザベラは「雄大な市川峠」と記していますが、これは現在の「市野峠」のことだと思われます)。

道は、ご丁寧にも本街道と呼ばれるものであったが、私たちはその道をわきにそれて、ひどい山路に入った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.165 より引用)

この「市野峠」は、地図で見た感じでは、現在も自動車の通行は困難みたいですね。

これは幅が約一フィートの道で、側面に波形が続いていた。その凹みは一フィート以上も深さがあり、駄馬がいつも前の馬の足跡を踏みならしたためにできたものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.165 より引用)

1 フィートは約 30 cm ですから、山中のけもの道と呼ぶべきレベルのものだったようですね。車輌は車輪で動くものが殆どなので、だいたい均質の轍ができるものですが、馬は歩行するものなので、自然と階段のような形のうねりができてしまう、ということなのだと思われます。イザベラはこれを「波形の道路」と評したみたいです。

山王峠

何故かサブタイトルが「山王峠」なのですが、原文でも The Pass of Sanno となっていますね……。山王峠の印象がよっぽど強烈だったのでしょうか。

山路は、山の反対側に下ると、ものすごい峡谷の中に急に下りてゆく。私たちはその峡谷に沿って一マイルほど下って行った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.165 より引用)

「市野峠」から「市野沢」に下りるルートは二通りあるようですが、どちらも結構険しそうな感じがしますね。おそらく車道ではないほうが古くからの道だと思うのですが、目分量で 250 ‰ くらいはありそうな……。とても車では通れない勾配ですね。

ちなみに、イザベラ一行が回避した下野街道の大内峠ルートも、尾根伝いに似たようなレベルの勾配が更に長く続いていたようでした。大内峠に車道を通す際には、途中まで東側の山の山腹を抜けるルートに変更されています。

種々の草木

会津盆地に少しずつ近づきつつあるイザベラは、植生の変化に気づいたようです。

草木は今までよりも温暖な風土を示していた。木蓮や竹はふたたび姿を見せ、熱帯性の羊歯は、美しい青色のあじさいや、黄色の日本百合、大きな青色の釣鐘草とまじっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

イザベラは、山王峠を越えた時点で「日本海側に入った」と認識していた筈なので、基本的にはこの先は「下り」が多いという認識だったと考えられます。目の前の植生が、自らの認識を補強するものだったので、しっかりと書き記しておいた……と言ったところでしょうか。

興味のない藪

もっとも、イザベラは目の前の植生に只ならぬ興味があった、というわけでも無さそうで……

美しい蔓草がからまっている樹木の海があった。蔓草は白い葉を豊富につけているので、遠くから見ると、白い花の大きな房のように見える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

蔓草の生い茂る森を好意的に見ていたかと思うと……

しかしこの地方の森林に繁茂している藪は魅力的ではない。その構成部分の多くは雑草ともいうべきものである。ぶざまで、ぼうぼうと生えている芹や、粗野なすかんぽ、繁茂するいらくさ、その他に私の知らない草が多くあったが、二度と見たいとは思わない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

森のなかに構成されている藪については「魅力的ではない」「雑草ともいうべきものである」「二度と見たいとは思わない」と全否定でした(汗)。

男性優位

イザベラ一行は「市川」という村に入りました。現在は「市川」という地名を地形図で目にすることはありませんが、戦前の地形図には大字の名前として「市川」という記載がありました。

山を下る終わり近くで、私の雌馬は反抗して手に負えなくなり、私を乗せたまま、見苦しい姿で早駆けをして、市川という村に入った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

峠からもっとも近い集落が「市野」という名前なのですが、おそらくこの「市野」での出来事が記されているものと思われます。

ここは美しい場所にあるが、傍は切り立った崖となっている。村の中央に、すばらしい飛爆があり、そのしぶきで村中がまったく湿気に浸されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

現在だと「マイナスイオンが~」などと持て囃されそうな感じもしますが、確かに「湿気の元」と言われてみればそれまでですね……(汗)。

そこの駅馬係は女性であった。女性が宿屋や商店を経営し、農業栽培をするのは男性と同じく自由である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

イザベラ一行はここで馬を乗り換えた、ということなのでしょうね。上の文章を見る限りでは「男女同権」ぶりを肯定的に示しているようにも読めるのですが、

男女の住民の数や、馬や牛の数を記した掲示板がどの村にも立てられている。これまでどこでもそうであったが、市川でも男性が優位を占めているのに気がついた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

実際はどこも「男性優位」なんだよ、ということなのでしょうか。

*原注──首都では、男性は女性よりも三万六千人も多い。帝国全土では約五十万人多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.166 より引用)

イザベラが旅をした明治初頭の日本の人口はどれくらいだったのでしょう。Wikipedia の「国勢調査以前の日本の人口統計」によると、1878 年 1 月時点の本籍人口が男性 17,698,717 人、女性 17,199,823 人とのこと。その差は 498,894 人ですが、「約五十万人」というイザベラの記載が恐ろしく正確なところに驚いてしまいます。

ちなみに男女の出生比は 105:100 程度と言われていますので、男女の死亡率が同等であると仮定すると約 85 万人ほど男性が多いことになる筈なのですが、実際にはイザベラの言う通り 50 万人程度の差しか無いので、男性の方が死亡率が高かった、とも言えるのかもしれません。

自然信仰の神社

この先は、日本奥地紀行「普及版」ではカットされている内容です。まずは「自然信仰の神社」と題された一節から。

どこにでも密に杉の木で覆われた円錐形の山があって、その最下層に石か木で作られた鳥居のついた急なすばらしい石段がないということはめったにありません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.62 より引用)

どんな小さな集落にも、同じような様式の「神社」が存在する、ということを宗教人としてのイザベラは見逃さなかったようです。そして、その定義を次のように一般化していました。

たいていは小さな木造のお宮と少しの花と、わずかな米、あるいは常緑樹[榊]の小枝のような信仰の徴があります。これらの「森」と「高い場所」は、「すべて小高い場所の上とすべての緑の樹の下」に象徴を有する古い自然と英雄崇拝の神殿なのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.62-63 より引用)

「英雄崇拝」(原文では hero worship)という表現に少々違和感を覚えますが、概ねイザベラの見立ては正しいのかな、と思わされます。至る所に「ご神体」があって村の平穏を見守ってくれているという考え方は、ともすれば原始的なものにも思えるのかも知れませんが、当の日本人にとっては何の違和感もなく受け入れられるものでもありますよね。

宗教の明らかな衰退

一方で、宗教人としてのイザベラは、当時の世相……というか政策であった「廃仏毀釈」についても鋭い視線を投げかけていました。

仏教寺院は最近は少なくなり、とはいえ神道の神社よりずっと見栄えがよく、境内には石灯籠や様々な種類の像・記念碑があるのですが、それらは、ぼろぼろで傾き、塗りがはげて木地が現れています。それらは紛れもなく、活気ある「お布施」による補修がなされず、「廃仏毀釈」の見過ちようのない外観が見てとれます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.63 より引用)

本来は「村の鎮守さん」よりも厚く信仰を集めていた(のかも知れない)仏閣の多くが、突然一般大衆から見向きもされなくなったことが読み取れます。古いものの価値を十分に認めながらも新しいものに尻尾を振る、日本人の変わり身の速さが見て取れますね。

宗教的象徴に対する閑却とは対照的なのは、埋葬地は荒野の丘辺に孤立していてさえも常によく保たれていて、墓碑はいつでもぴんと立っており、ほとんどの墓には新しい花が供えられているという事実です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.63 より引用)

これは重要な指摘かもしれません。日本人は「先祖の供養」を大切にしているが、宗教は「供養における手順(プロトコル)の一つ」であると、極めてドライに捉えている可能性が伺えます。イザベラは 140 年前の日本を旅していますが、日本人の内実的な本質はあまり変わっていないのだなぁ、と思わせます。

あえて蛇足を承知で付け加えるならば、イザベラの論じた「宗教の明らかな衰退」は、最初から見当違いだったのではないか、ということです。



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