2017年1月29日日曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (412) 「勘太浜・宮津・球島」

 


やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

勘太浜(かんたはま)

kanna-ota?
上方にある・砂浜


稲穂岬の南、稲穂集落から見て東に位置する集落の名前です。

東西蝦夷山川地理取調図や西蝦夷日誌には「勘太浜」との記述は無く、一見和名のようにも思えますが、古い地形図(北海道測量舎五万分一地形図)に「勘太歌」という記載が見つかりました。「歌」は ota だと考えられるので、「カンタウタ」もアイヌ語に由来するのかもしれません。

kanna-ota であれば「上方にある・砂浜」と読み解けます。kanna は今まであまり目にすることの無かった語彙ですが、koy-ka(波のかみ)でお馴染みの ka から派生したものですね。アイヌの考え方は「東方上位」だと言われますから、島の北東部にある浜の名前としてアリだったりするかな? と無理やりこじつけてみました(ちょっと苦しいですかね)。

なお、東西蝦夷山川地理取調図や西蝦夷日誌には「フレフタトマリ」あるいは「フレフタ泊」という記録があります。これは hure-ota-tomari で「赤い・砂浜・泊地」と読めるかもしれません。鉄分の多い谷地水が流れ込んだか、あるいは赤っぽい藻が繁茂していたのか、その辺でしょうか。

繪圖澗(えづま?)

既に失われた地名だと思われますが、稲穂岬と勘太浜の間(灯台の東側あたり)に「繪圖澗」という地名があったようです(現在の字では「絵図澗」ですね)。音からは etu-oma で「岬・そこにある」と読み解けそうですね。

はい。こんな感じで失われた地名も少なからずあるのだなぁ……と言うお話でした。

宮津(みやづ)

chasi


勘太浜の南の地名で、「宮津弁天宮」のあるところです。どう見ても和名に思えるのですが……まずは西蝦夷日誌を見てみましょう。

マウサン(北岬〔稲穂岬〕)、フレフタ泊(澗)、上にチヤシ〔茶津〕(平地)、此所昔しの城跡也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.22 より引用)

ということで、宮津のあたりは元々「茶津」という地名だったようです。「茶津」をどう読んだのかは不明ですが、アイヌ語の chasi」に由来すると考えて良さそうですね。

ちなみに、まだ続きがありまして……

寶徳三年(辛未)秋八月二十八日、公(信廣〔武田〕)與ニ其臣佐々木繁綱(兵衞尉)・工藤祐長(九郎右衞門)自奥州南部(田名部蠣崎村)來于北夷遂上國(松前記)。其時暫時爰に住せしと土人の口牌〔碑〕に残る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.22 より引用)

ふわわわ、漢字が多いですね(汗)。えーと、蠣崎信広が家臣とともに宮津に上陸して暫し滞在した、ということでしょうか。現在「宮津弁天宮」がある場所は、砦としても絶好の立地に思えるのですが、ここが砦の跡だったということでしょうかね。

球島(きゅうしま)

chiw-as-suma?
波・立っている・岩


奥尻島北東部に「球島山」と言う山があって、その南東麓に「球浦」(たまうら)と言う集落があります(球浦川もありますね)。この「球」はどこから来たのだろう……と思っていたのですが、球浦の沖合に「球島岩」という孤岩を見つけました。地理院地図には「球」に「きゅう」とルビが振ってあり、どうやら「球島」で「きゅうしま──」と読むようです。

球浦には「白水川」と「球浦川」が流れているのですが、古い地形図を見ると現在の「白水川」のところに「球島川」と記されていました。「球島川」こと「白水川」を遡った先に「球島山」があるので、他の例と同様、山の名前は麓の地名に由来するように思えます。

「玉島」ではなくわざわざ「球」の字を当てて、しかも「たま」ではなく「きゅう」と読ませるのは、もしかしたらもともと「キュウシマ」に近い呼ばれ方をしていたのかもしれません。chiw-as-suma で「波・立っている・岩」と読めるのですが、いかがでしょう……?

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