2017年3月20日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (68) 高田(会津美里町)~坂下(会津坂下町) (1878/6/28~29)

 


引き続き、1878/6/30 付けの「第十三信」(初版では「第十六信」)を見ていきます。イザベラ一行はいつもの「招かれざる大歓迎」を受けて、ほうほうの体で高田(会津美里町)を脱出した……と思われたのですが、実はさらっと「社会見学」も済ませていたようです。

和紙

イザベラ一行は豪農の「田中家」で「紙漉き」作業の見学をしていましたが、このエピソード全体が何故か普及版では削っれています。確かに「奥地紀行」の主題からは少々離れているのでカットされたことも理解できますが……。

日本において紙は重要な部分を果たすので、それについて高田の近くの農家で、少し学ぶことが出来たのは私にとって大変うれしいことで、この農家に私は紹介を乞いましたが、その農家の人は大変に礼儀正しいということがわかりました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.66 より引用)

引用元である高畑美代子さんの「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」によると、この「高田の近くの農家」はこのあたりの「郷頭」だった「田中家」だったと考えられるのだそうです。「郷頭」と言うからにはそれなりに裕福な暮らしをしていたのかな……などと想像してしまうわけで、その辺の「ゆとり」が礼儀正しさとなって現れていたのかな、と思ったりもします。ほら、「金持ち喧嘩せず」とか言うじゃないですか(なんか台無しな感じも)。

イザベラの「大人の社会見学®」が続きます。

カジノキはポリネシア人がタパ布すなわち紙の服をつくる植物です。日本における製紙植物の栽培は最も重要な産業です。ウツギとハイビスカスの種(the Buddlea and Hibiscus species)の植物も使われますが、それはほんのわずかで、カジノキの樹皮と混ぜられます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.66 より引用)

「ハイビスカスのたね」ではなくて「ハイビスカスしゅ」と読むべきなのでしょうね。これはもしかして「ケナフ」のことでしょうか? ケナフは外来種ですが、あるいは似たような在来種があったのかも知れませんね。

イザベラの「奥地紀行」はイギリス政府のバックアップを受けていました。日本がどのような植生に適した風土であるかを知ることは、プランテーションを導入するに際しての重要事項ですから、このような地誌的な記述はやはりスポンサー(イギリス政府)を意識したものだった可能性がありそうですね。

この農家では紙は家庭の少量の自家用のために作られていました。大農家(ファーマー)の田中さんが言うには、カジノキの芽が 5 フィートの長さに成長したら毎年切り取り、数日間水の中に浸した後、樹皮をはがしてから、槽の中で煮るのだそうです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.67 より引用)

これも引用元の高畑美代子さんの指摘ですが、「日本奥地紀行」の旅の途中でこのように個人名が出るケースは、日光の金谷家を除けばこれが唯一のケースなのだそうです(通訳の伊藤氏は最初から名前が出ていたので例外ということで)。

学校教師の会議

「大人の社会見学®」を終えたイザベラ一行は、北にある会津坂下に向かって出発します。再び馬上の人となったイザベラは疲労困憊だったようで、

これから後は、水田の間を五時間もとぼとぼと進む憂鬱な旅であった。湿気の多い気候や、このようなやり方による旅行の疲労は、私の健康にさわるので、私の背骨の痛みは、日毎に増してきて、とてもひどくなり、一時に二十分以上は馬に乗ることも歩くこともできないほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)

愚痴モード全開のイザベラ姐さんと化していました。

会津高田から会津坂下までは、直線距離にして 12 km ほどですが、

あまり進みがのろかったので、坂下に着いたのは六時であった。ここは人口五千の商業の町である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)

この文章を読んだ感じだと、3~4 時間はかかったような感じでしょうか。

イザベラ姐さんは、会津坂下の町の印象を次のように記しています。

まさに水田湿地帯の中にあって、みすぼらしく、汚く、じめじめと湿っぽい。黒い泥のどぶから来る悪臭が鼻をつく。温度は八四度で、暖かい雨が、重苦しい空気の中を烈しく降ってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)

「みすぼらしく、汚く、じめじめと湿っぽい」って、姐さん、飛ばしてますね……(汗)。前述の通り、イザベラ姐さんは疲労困憊だったので、どうしてもげんなりしてしまう部分ばかり印象に残ってしまったのかな、と思ったりします。

「じめじめと湿っぽい」のは 6 月末の日本にあっては当たり前の話ですし。「どぶから来る悪臭」も、昭和30年代のヘドロに塗れた川の臭いがどんなものだったか、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

「温度は八四度」とありますが、これは摂氏 29 度ということですね。摂氏 29 度で夕立に降られたりしたら、そういったことに慣れている筈の日本人でもゲンナリしてしまいますから、イザベラ姐さんの落胆ぶりも容易に想像できてしまいますね。

私たちは馬を下りて、干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚から出る臭いは強烈であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)

「干魚から出る臭い」というのは少し想像がつかないのですが、もしかして「くさや」や「鮒ずし」のようなものだったのでしょうか。もしそうだとしたら、イザベラ姐さん、引きが強いですね……(汗)。

さて、毎度お約束になりつつある踏んだり蹴ったり状態のイザベラ姐さん一行ですが、ここで珍しく、いい話でもあり悪い話でもある話題が入ってきました。

しかしこの地方にも改善の兆候が出てきた。三日間にわたる教員会議が開かれており、空席の人事のために候補者を検討中であった。学校教育において特に漢文がどれほど価値があるか、という問題について、長時間の論議が続けられていた。どの宿屋も満員であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.170 より引用)

たまたま「教育を良くしよう」という目的で教員の会議が開かれていたのだとか。それ自体は地元の子供のために大変有益なことなのですが、結果として宿屋に空きがないという話に。現代でも都市で大規模な学会があったりすると、近くのホテルの空きが無くなる事態になりますが、明治初期の日本でも同じようなことがあったんだなぁ……と思うと、なかなか感慨深いものがあります。

会津坂下は会津盆地の西側に位置する町で、見たところそれほど湿地が多いようには思えないのですが、イザベラの受けた印象は少し違ったようです。ちなみに「坂下」は「バンゲ」と読みますが、アイヌ語の panke(川下の)との類似性を論じる向きもあるようですね。

坂下(バンゲ)には沼沢地の毒気があった。あまりマラリア熱が多いので、政府は医療援助をさらに送ってきていたほどである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.170 より引用)

イザベラは、もう少し先の場所で投宿することを考えていたようですが、代わりの馬が手配できないという不慮の事態に見舞われます。レンタカー屋さんに行ったらたまたま全車捌けていた、と言った感じでしょうか。

山までは一里だけしか離れていなかったから、どうしても旅行を続ける必要があると思われたのだが、午後十時まで馬は一頭も手に入らなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.170 より引用)

背骨に痛みがあったイザベラは、ついに前進を諦め、坂下に留まることを決断します。宿屋は前述の通り、会議に出席していた教員たちによって大方押さえられていたので、宿を探すところから始めないと行けなかったのですが、

それから一時間ほど、疲れて待っていると、その間に駅馬係から五人の使いの者が出て、宿を探しに行ってくれた。だいぶ暗くなってから、私はようやく超満員の古ぼけた宿屋にありつくことができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.170 より引用)

なんとか「超満員の古ぼけた宿屋」を確保することに成功します。この先の展開ももはやお約束ですが、

私の部屋は、よどんだ水の上に丸太を組み合わせたような建物であった。蚊があまり出てくるので、空気もうっとうしかった。病熱が出て、みじめな夜を過ごしたが、朝早く起き、ようやくここを出発することができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.170 より引用)

蚊の音が耳元で聞こえたときの得も言われぬ恐怖は、いつの時代も変わらなかったのだろうなぁと思わせます。イザベラはいつも通りの「悲惨な一夜」を過ごし、翌朝坂下を出発することになります。



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