2017年7月17日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (69) 坂下(会津坂下町)~片門(会津坂下町) (1878/6/30)

 


引き続き、1878/6/30 付けの「第十三信」(初版では「第十六信」)を見ていきます。会津坂下での一夜が明けて、出立しようとしたイザベラを、またしても大勢の群衆が取り囲みます。

群衆の臆病さ

イザベラを取り囲んだ群衆は、イザベラのあるアクションを目にしてパニックに陥ります。

二千人をくだらぬ人々が集まっていた。私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとしたときであった。群集の大逃走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.170 より引用)

一体何が起こったのか……という話ですが、通訳の伊藤少年によると、群衆はイザベラが取り出した「望遠鏡」を「鉄砲」と見間違えたのだろうとのこと。ただ、良く考えてみると戊辰戦争が終結してから僅か 10 年しか経っていないわけで、群衆が銃器に対して必要以上に怖れを抱いていたのも仕方がなかったかも知れません。

イザベラは、群衆にあらぬ誤解を与えてしまったことに対して慚愧の念を抱いたようです。

優しくて悪意のないこれらの人たちに、少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.171 より引用)

イザベラが群衆のことを「優しくて悪意のない」と評したのは、日本でここまで旅をしてきて、非礼な仕打ちにあったり不当な代金を吹っ掛けられたことが無かったからだったようです。イザベラは、ヨーロッパの多くの国々で嫌な目にあったり金をゆすり取られたりしたことがあったようで、日本ではそういった目に遭っていないことに感心していたようでした。

また、「馬子」のプロフェッショナル精神にも触れていました。

馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事をほうり出して酒を飲んだり雑談をしたりすることもなく、彼らは直ちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって、家へ帰るのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.171 より引用)

「心づけ」は、欧米諸国で言う「チップ」のことだと思いますが、確かに日本には根付いていない習慣でしたね。仕事に際して細心の注意を払うのは、皮肉な見方をすれば「封建的な社会の悪弊」がそのまま息づいていたとも言えるのですが、不平不満をこぼさず勤勉であるという古き良き特質が如実に現れている文章に思えます。

イザベラは、旅に同行してくれる馬子に対して、最大級の賛辞を贈っています。

彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。それは見ていてもたいへん気持ちがよい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.171 より引用)

一方で、通訳兼アシスタントとして同行している伊藤少年に対しては……

伊藤の私に対する態度は、気持ちよいものでもなければ丁寧でもない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.171 より引用)

……(汗)。ただ、イザベラの観察眼は、伊藤少年のもう一つの側面もしっかりと捉えていました。

しかし同じ日本人に向かって話しかけたりするときには、日本人同士の礼儀作法の束縛から脱けきることができず、他の日本人に劣らず深々とお辞儀をして、丁寧な言葉使いをするのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.171-172 より引用)

これはなかなか面白い話ですね。イザベラは伊藤少年がいかに有能であるかを熟知していて、同時に警戒の目を緩めることもありませんでした。そして、そのことを伊藤少年も正しく認識していたのかもしれません。内心互いに「食えないヤツだなぁ」と思っていたのかもしれませんね(笑)。

悪い道路

イザベラは、会津坂下からは国道 49 号に近いルートで西に向かいます。

ようやく一時間してこの不健康な沼沢地を通り越し、それからは山また山の旅である。道路はひどいもので、辷りやすく、私の馬は数回も辷って倒れた。手荷物を載せた馬には伊藤が乗っていたが、まっ逆さまに転んで、彼のいろいろな荷物は散乱してしまう有様であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.172 より引用)

「辷る」は「すべる」と読みます。イザベラが乗った馬も何度も滑って転んだようですが、伊藤少年はもっと悲惨な目に遭っていたようです。

悲惨な道路の状況に業を煮やしたか、イザベラの筆は政府批判に向かいます。

りっぱな道路こそは、今の日本でもっとも必要なものである。政府は、イギリスから装甲軍艦を買ったり、西洋の高価なぜいたく品に夢中になって国を疲弊させるよりも、国内の品物輸送のために役立つ道路を作るというような実利のある支出をすることによって国を富ました方が、ずっと良いことであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.172 より引用)

正論ですね……。あえて意地の悪い見方をするならば、日本の軍事力が向上することを好ましく思っていなかった、とも取れるのですけどね。まぁ「鹿鳴館」に金をかけるくらいなら、国内の交通インフラに金を回したほうが間違いなく効果的だったとは思います。

私たちは阿賀野川という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の丈夫な綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が一二フィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.172 より引用)

なるほど、吊橋でも沈下橋でもなく、浮き橋があったということですね。浮き橋は(通常の橋の「橋桁」に相当する)船と船をいかに強固に結びつけるかが鍵だと思われますが、藤の蔓で編んだ綱は実用に耐えうる強度を持っていたということなのでしょう。巨大な自動車を通すことはできなかったでしょうが、人と馬を載せる程度であれば「浮き橋」で十分事足りたのでしょうね。

悪質の馬

イザベラ一行は「浮き橋」で阿賀野川を渡りましたが、ここで驚愕の事実が明らかになります。

伊藤は落馬したために一時間おくれたので、私はその間、片門という部落で、米俵の上に腰を下ろしていた。この部落は、阿賀野川の上流の山手で、急な屋根の家々がごたごたと集まったところである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.172 より引用)

どうやら、真っ逆さまに落馬した伊藤少年は途中で放っておかれていたようでした(汗)。イザベラもそれくらい待ってあげればいいのに……と思ったりもしますが、伊藤少年を放置してさっさと川向うの集落に向かっていたようです。

伊藤少年を放置してイザベラ一行が向かったのは「片門」という集落でした。

二百頭以上の駄馬が集まっていて、噛んだり悲鳴をあげたり蹴ったりして騒いでいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.172 より引用)

……なかなか騒々しい場所だったようです(汗)。いや、わざわざ伊藤少年を置き去りにしてまで向かう価値のある場所だったのかなーと思ったもので。



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