2017年10月1日日曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (473) 「松前」

 


やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

松前(まつまえ)

mat-oma-i
婦人・そこにいる・ところ


北海道最南端の町の名前で、北海道で唯一の城下町でもあります。蠣崎慶広が「松前氏」を名乗ったのが 1599 年とのことで、この年は豊臣秀吉が死去した翌年に当たります。

松前には、国鉄松前線の「松前駅」がありました。ということでまずは「北海道駅名の起源」から。

  松 前(まつまえ)
所在地 (渡島国)松前郡松前町
開 駅 昭和 28 年 11 月 8 日
起 源 付近の地は鎌倉時代の末期万堂宇満伊犬(まとうまいぬ)と呼ばれ、本州から本道に移住した人たちの根拠地の一つであった。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.23 より引用)

ふむふむ。まだ続きがありますので、見てみましょうか。

永正 11 年(1514 年)蠣崎(かきざき)氏がこの地を占拠して本道に居住する本州人を統一し、慶長 4 年(1599 年)姓を松前と改め、福山に城を築いて松前藩の基を開いた。

はい。これは冒頭に記した通りの内容ですね。あえて引用するまでも無い内容かもしれませんが、良くまとまっていたので引用してしまいました。

「松前」は万堂宇満伊犬と同じ所を指すものと思われるが、姓を松前としたのは、当時豊臣秀吉の重臣であった松平家康(徳川家康)と前田利家の両者の姓を一字ずつとったものといわれ、また城下の海に面して大きな松があり、これを目当てに船が出入したので松前と呼ぶに至ったともいわれている。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.23 より引用)

はい? 「松平家康」というのは「松平元康」じゃないのか、というツッコミを入れる以前に、これだと「松前」=「松平+前田」ということになってしまいます。と思えば「松の前に舟溜まりがあったから」などという別説まで。「万堂宇満伊犬」の話はどこへ行ったんですか……。

そして、さらに続きがありました。

しかし万堂宇満伊犬と同じとすれば、松前の姓はやはり地名から出たもので、アイヌ語の「マツ・オマ・イ」(婦人のいるところ)から出たものというべきである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.23 より引用)

……。この変幻自在ぶり、なんとなく S さんっぽい気がしてならないのですが……。

更科さんに聞いてみよう

というわけで、S 科……いや、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見ておきましょうか。

 松前(まつまえ)
 明治の中ごろまでは北海道へ行くとはいわず、松前に往くといったもので、昔は松前とは北海道の代名詞であった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.8 より引用)

おおお。さすがは詩人、叙情的な出だしで始まりました!

松前の地名は藩主松前家の居城のあったところから出たものであるが、松前の姓は徳川家の旧姓松平の松と前田利家の前とをとったものだといわれているが、またアイヌ語から出た地名が殿様の姓になったのだろうともいわれ、小松前はポン・マツ・オマナイ(妾のいる所)その西の唐津内はカルク・オマ・ナイで姪のいる沢だといわれているが、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.8 より引用)

「……であるが、……いるが、……ともいわれ、……いわれているが、」ええと、あの……。この文章はいつ切れるんでしょうか……? そしてその続きが

早急に信じることはできない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.8 より引用)

(汗)。そして締めの一文が……

マック・オマ・ナイ(後の方にある川)という説もある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.8 より引用)

どないやねーん!(汗)

一応、まとめておきましょうか。

(1)「松平+前田」説
(2) mat-oma-i で「婦人・そこにいる・ところ」説
(3) mak-oma-nay で「後ろ・そこにある・川」説

ちなみに karku-oma-nay は「姪」ではなく「甥・そこにいる・川」のようです。「姪」だと matkarku になるのだとか。

上原さんにも聞いてみよう

アイヌ語通訳のパイオニアとして知られる上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」には、次のように記されていました。ちなみに上原熊次郎は松前出身じゃないかと言われていますね。

松 前          吉岡村迄行程三里
  夷語マトマイと申候得共、ヲマツナイなり。則婦人の在す澤と譯す。扨、ヲとはヲカイの略語にして有る又は在すと申事。マツとは婦人と申事。ナイとは澤又渓と申事なり。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.39 より引用)

とりあえず「松平×前田」(違う)という奇説や「松の前に舟がたくさん」という珍説は影も形もありません。ついでに言えば「万堂宇満伊犬」という表記も出てきません。指摘を忘れていたのですが、「万堂宇満伊犬」という表記は地名というよりは人名っぽいんですよね。

和人と戦ったアイヌとして「コシャマイン」や「シャクシャイン」の名前は広く知られていますが、いずれも名前の最後が -ayn という音になっています。これは -aynu だったと考えられるのですが、近世の和人は -aynu という名前に「犬」という字を当てることが多かったようです(人名に「犬」とは随分と失礼な感じもしますが、他ならぬ前田利家の幼名も「犬千代」でしたし)。

あと、「ヲとはヲカイの略語にして」というのは膝を打つ指摘でした。okay の単数形は an だそうで、okay は「(二つ以上が)ある」という意味です。ただ、その場合は o の前に名詞がある筈で、語頭に o がある場合は「そこに」あるいは「河口に」と解釈するほうが自然です。

上原説をまとめておくとこんな感じでしょうか。

(4) o-mat-nay で「そこに・婦人・沢」説

これを知里さん風に補ってみると、o-mat-oma-nay で「そこに・婦人・そこにいる・沢」とでもなるかもしれません。

松浦さんにも聞いてみよう

松浦武四郎が提出した北海道の郡名案「郡名之義ニ付奉申上候條」では、現在の「松前郡」ではなく「津軽郡」という名前が提案されていました。

松前ハ夷言マトヲマイの訛りにして、本名譯スル時ハ妻在の義ナリ。
(松浦武四郎「郡名之義ニ付奉申上候條」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.112 より引用)

ただ、「蝦夷地名奈留邊志」にはちょっと気になる記載もありました。

松前          ハコタテ 廿五リ
 ヲマツナイの轉し ヲとハ有る マツとハ女 ナイは沢にして 女居る沢と云わけ
(松浦武四郎「蝦夷地名奈留邊志」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.135 より引用)

あれ、これは上原熊次郎説そのままですね。これはさてどう考えたものか……。松浦説は (2) または (4) だったようですが、(4) はもしかしたら聞き書きなのかも……?

永田さんにも聞いてみよう

永田方正の「北海道蝦夷語地名解」の「松前郡」の項には、かなり詳しく由来が記されていました。

松前郡 原名ヲ「マトマイ」ト云フ「マトマイ」ハ「マッ オマイ」 (Matomai = Mat-oma-i) ニテ婦人居ル處ノ義、今ノ大松前町是ナリ 和人津輕津ト呼ビシハ津輕港ト云フ義ナリ奥州津輕ノ名ヲ此處ニ附シタルハ猶奥州箱館奥州松前ト云フガ如シ彼ノ地ヲ取リテ己レノ國名ヲ附スルハ戰國時代ノ流行ニシテ今更ニ言フマデモナシ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.12 より引用)

ということで、永田方正も mat-oma-i で「婦人・そこにいる・ところ」と考えていたようです。

まだ続きもありまして……

大松前町ノ橋西ニ小松前町アリ原名「ポンマトマイ」 (Pon-mat-oma-i) 小妻居ル處ノ義 アイヌ本妻ヲ「マツ」ト呼ビ妾ヲ「ポンマツ」ト呼ブ 小松前町ノ橋西ヲ唐津内町ト云フ原名「カラクオマナイ」 (Karaku-oma nai) 姪居ル澤此等ノ名ハ必ズシモ妻妾姪ノ居リシ處ニアラズ唯澤ノ大小ニ因テ名クルノミ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.12 より引用)

あっ。どこかで見たことが書いてある……! なるほど、karku を「姪」と誤訳?したのは永田さんがオリジナルだった可能性がありそうですね。

「此等ノ名ハ必ズシモ妻妾姪ノ居リシ處ニアラズ」というのは興味深い指摘です。知里さんの持論のひとつに poropon を「親」「子」と解釈するというものがありますが、そのバリエーションのひとつと考えていいかもしれません。

バチェラーさんにも聞いてみよう

最後に、ジョン・バチェラーさんの説をお伺いして、本項を締めたいと思います。

MATSUMAI(松前)──Matomai kotan「港湾地」。MA「港」の複数形 MAT と、OMAI「場所」「何かがある所」から。
(J・バチェラー・著、中川裕・訳「アイヌ地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.217 より引用)

ほーう。面白い解釈を考えたものですね。ここで思い起こされるのが松浦武四郎の「郡名之義ニ付奉申上候條」で、もしかしたら {pon-mat}-oma-i({妾}・そこにいる・ところ)という地名を憚って、「松前」の名前を隠蔽しようとしていたのではないかと。「妾に由来する地名など以ての外!」と思ったんじゃないかな、と。

バチェラーさんが全くの新作を出してきた理由を詮索するのはさておいて、後ろにちょっと面白いエピソードが記されていたので、引用しておきます。

ずいぶん前に、あるアイヌの老人から、ここにまつわるとても面白い話を聞いた。その主旨は、彼の先祖たちがその MATOMAI の要塞を攻めあぐねたのは、日本人がそのすぐ後ろに墓場をこしらえ、墓場を乗り越えて攻撃をしかけるというのが、アイヌの迷信に反することだったからだというのである。アイヌの人々は、常に堅固に守られている正面からしか近づくことができず。そのために、そこを奪取することができなかったというわけである。
(J・バチェラー・著、中川裕・訳「アイヌ地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.217 より引用)

どこまで本当の話かわかりませんが、アイヌの指導者が何度も騙し討ちに遭ったということも合わせて考えると、アイヌの和人に対する拭えない不信感が出ているようで興味深いです。

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