2017年11月13日月曜日

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秋の道南・奥尻の旅 (193) 「ミマツダイヤグラム」

 


「三松正夫記念館」には、もちろんあの「ミマツダイヤグラム」も展示されていました(複写かも知れませんが)。「昭和新山隆起圖」と題されたこの図は、私達が「ミマツダイヤグラム」として親しんでいる物そのものですね。


ただ、この「昭和新山隆起圖」は実はもう一枚の「諸事象経過図」とセットになっていたのだそうです。「地震・隆起・爆発・地皴・熔岩塔 月別表」と題されたこの図は、いくつかの地点の標高と地震の数を時系列でプロットしたもののようです。



田中館秀三さん

三松さんが後に「ミマツダイヤグラム」として完成する定点観測を始めたのは、 1910 年(ハレー彗星がやってきた年ですね)の有珠山噴火の際に現地調査にやってきた大森房吉さんや、その後調査にやってきた田中館秀三さんから「『一つの対象を一定の視点で継続的に』追跡することの重要性を教えられていた」からなのだそうです(カッコ内は展示パネルより引用)。


ところで、「田中舘」という名前にピンと来た方はいらっしゃいますでしょうか。割と珍しい苗字なので「もしかして……」と思った方はきっと大正解です。そう、田中館秀三さんは田中舘愛橘さんの養子でいらっしゃるのだとか。

創意工夫で生まれた「観測台」

本題に戻りますが、昭和新山が形成されたのは 1944 年のことでした。昭和に直すと「昭和 19 年」ですから、太平洋戦争で日本の敗色が決定的になっていた頃でしょうか。情報も物資も統制され、民間人が測量器具を手に入れることは事実上不可能だったため、郵便局の建物と物置の間にテグスを張って、それをスケール代わりに観測したのだそうです。

このやり方だと視座がズレると意味がないので、顎を乗せる台をつくってポジションを固定したのだとか。なるほど、これだと目の位置を(ほぼ)固定させることができそうですよね。今だったら、窓枠の決まった位置にスマホを置いて写真を撮るだけでいいんでしょうけど……。

さて、そんな創意工夫から生まれた「観測台」で、筆写による観測記録が次々と生み出されていきます。


これは是非現地で実物をご覧いただきたいのですが、下手な写真よりも断然リアリティがあるんですよね。写真はあるがままの「眺め」が描かれるのに対して、これらの筆写図は「主題」だけが克明に描かれているので、実にわかりやすいのです。人間の空間把握能力も捨てたものではないなぁ……とすら思えてきます。


並べて展示されている観測記録は、敗戦後の 1945 年 9 月 20 日で終わっています。1945 年 4 月あたりからは、山全体の隆起が落ち着いた代わりに中央に溶岩ドームが形成されて行ったことが良くわかりますね。



胆振縦貫鉄道の悲劇

「ミマツダイヤグラム」の「No. 1 図」(1944 年 5 月頃?)と「No. 24 図」(1945 年 9 月 20 日)を並べたものがこちらです。さすがに三松さんもこんなことになるとは想定してなかったのでは……?


昭和新山の形成に伴う土壌の隆起は 1940 年に開通したばかりの胆振縦貫鉄道(後の国鉄胆振線)の線路も持ち上げてしまいます。線路を修復したところで急勾配となってしまい、坂を登ることができなくなったので、数度に亘って川沿いに迂回ルートを建設することを余儀なくされてしまいます。


「昭和新山」が大噴火を起こした一週間後に「戦時買収」により胆振縦貫鉄道は国有化されてしまいますが、これは「渡りに船」と感じられたのかもしれませんね(国有化されると自力で復旧工事を行わずに済むので)。

三者三様?

北大から貸与された測量機で観測を行う三松さんの写真と、大森房吉さんと田中館秀三さんの写真などが並んでいます。アイヌと並んで記念撮影した大森房吉さん、まるで自宅で寛いでいるかのような田中館秀三さん、そして観測中の三松正夫さん。それぞれのポートレートに個性が出ていて面白いですよね。



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