2017年11月23日木曜日

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「日本奥地紀行」を読む (75) 津川(阿賀町) (1878/7/2)

 


1878/7/2 付けの「第十四信」(初版では「第十七信」)を見ていきます。初版の「完全版」では漆に関する話題に脱線していましたが、ようやく純粋な旅行記に戻るようです。

津川の宿屋

イザベラ一行は津川(阿賀町)に投宿しました。宿屋は混雑していたものの、イザベラには「群衆から離れた庭園の中の静かな二部屋」が与えられたようです。

伊藤は、どんなところに到着しても、常に私を部屋に閉じこめて、翌朝の出発まで重禁錮の囚人のようにしておきたがる。ところがここでは、私は解放された身となって楽しく台所の中に腰を下ろしていることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)

おやおや、これは一体どんな心境の変化があったのでしょう。図らずも自由の身となったイザベラは、宿の主人と会話を交わしたようです。

宿の主人は、もとは武士という、今では消滅した二本差しの階級(士族)である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)

この一文が原文ではどうなっていたのか確認してみました。

The house-master is of the samurai, or two-sworded class, now, as such, extinct.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

なるほど……見事な和訳ですね。

下層階級の人たちとくらべて、彼の顔は面長で、唇は薄く、鼻はまっすぐ通り、高く出ている。その態度振舞いには明らかな相違がある。私はこの人物と多くの興味ある会話をかわした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)

「士族」の人たちはどうしても侍気質が抜けなかったのか、商売人としては明らかに横柄な態度を取るものが多かったと言われますが、この宿の主人はどうだったのでしょうか。イザベラは「態度振る舞いには明らかな相違がある」としましたが、切った張ったの世界の中を生きてきた凄みを感じていたのか、あるいは単に横柄な頑固親父に見えたのか、どっちだったのでしょうか。

礼儀正しさ

日光から津川までの十日間ほどで、イザベラは行った先々でともすれば見世物のような扱いを受けることがありました。髪の色も肌の色も違う上に体格が一回り大きい西洋人は、当時の日本人から見ると「同じ人とは思えない」という印象だったのでしょうね。次のエピソードはまさにその感覚を体現したもののように思えます。

宿の奥さんと伊藤は、私のことを人目もかまわず話していた。私は、彼らが何を話しているのかときいてみた。すると彼は、「あなたはたいそう礼儀正しいお方だと彼女が言っています」と答えてから、「外国人にしては」とつけ加えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)

このような余韻をもたせた言い回しに対して、イザベラが黙っている筈がありません。

私は、それはどういうことかと更にたずねた。すると、私が、座敷に上がる前に靴を脱ぎ、また煙草盆を手渡されたときにおじぎをしたからだと分かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)

今でも来日する観光客には色んなタイプの人がいると思いますが、中にはもの凄く勉強して日本の文化に敬意を払ってくれている人もいますよね。この「外国人にしては」という言い回しをイザベラがどう受け止めたかは謎ですが、素直に「名誉なことだ」と受け止めてよかったのではないかな、と思ったりします。

積み出しの港

イザベラ一行は、翌日は阿賀野川を下る予定だったようです。現在、津川の西には「揚川ダム」があるので舟運は不可能ですが、当時は鉄道も開通してなかったので、代わりに舟が川を普通に上下していたのでしょうね。

 私たちは、明日の川の旅行で食べられるものがないかと町の中を探して歩いたが、卵の白身と砂糖で作った薄い軽焼き菓子と、砂糖と麦粉で作った団子、砂糖でくるんだ豆だけやっと手に入れることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)

イザベラは買い出しの成果に若干不満だったようですが、それだけでも手に入ったのは良かったんじゃないでしょうか。ところで「卵の白身と砂糖で作った薄い軽焼き菓子」というのはどんなものだったんでしょう。

津川の街については、イザベラは次のような印象を記しています。

街路は、直角に二度曲がり、上流の岸にある寺院の境内で終わっている。それで、たいていの日本の町々とは違って単調ではない。ここは人口が三千で、多量の産物がここから川を下って新潟へ運ばれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)

地図を良く眺めてみると、今でも県道 14 号「新発田津川線」がクランク状にカーブしている場所があることに気が付きます。イザベラの言う「直角に二度曲がり」がこのことを指しているのであれば、ちょっとした感動を覚えます。

「たいていの日本の町々と違って単調ではない」というのが、具体的にどういった様を表しているのかについては残念ながら読み解けませんでした。平成の大合併で阿賀町になる前の津川町の人口は 5,228 人とのことですから、当時の「人口三千人」というのは結構な規模だったのでしょうね。

「蕃鬼」

イザベラが、旅の途中で地元民から好奇の目で見られていたというのは先にも記した通りです。そしてそれは「人気者」として見られていた訳ではなく、むしろ「異形なるもの」として民衆に恐怖を抱かさせるものだった、というのが本当のところでしょう。

いつの時代でも子供は正直なものです。従って……

日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)

……このような「事件」が起こってしまうのも当然の結末と言えるでしょうか。ちなみに「蕃鬼」には「フアンクエイ」とルビが振られていました(原文では Feng Kwai とのこと)。この悪態をついた子供が実際にはどのような言葉を口走ったのか、ちょっと気になってしまいます。

「第十七信」の最後をこの話題で締めるのはイザベラもさすがに残念だったのか、最後にこんなエピソードが追加されていました。

宿で生鮭の切身が一つ出たが、こんなにおいしいものは今まで味わったことがないと思う。私は陸路による旅行の最初の行程を終えた。明朝には船で新潟に向かって出発する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.182 より引用)

鮭の切り身、美味しいですよね。でも、焼鮭じゃ無かったんでしょうか?(かなりどうでもいい)



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