2008年3月19日水曜日

衝突事故は衝撃する

愛をとりもどせ!!

You は Shock !」という歌詞も、かなりルー語が入っていて、今から思えばかなり衝撃的なのですが、駅のアナウンスで聞く「橋桁に車が衝撃した影響で、列車に遅れが出ています」という表現も、かなり衝撃的です。衝撃した!!(← なんか違うよ

念のため、手元の「新明解さん」を見てみました。三河安城……ではなく案の定「衝撃」という名詞サ変する用例は掲載されていません。ついでに「サ変する」という用例も掲載されていませんでしたが、それはソレ、これはコレ。

ふつーに考えると、「衝突する」でいいと思うんですが、なんかのこだわりがあって、「衝撃する」という表現になっているんでしょうね……。鉄道業界のスラングっぽいことは認知されているようですが、肝心の「衝突する」との違いは今ひとつ明白ではありません。

もしかして、「衝突する」は「労使専門用語」だったりして……。:p いや、コレはマジであり得るかも。どーですかお客さん!!

衝突事故は衝撃する

ちなみに、「平成16年度交通事故の状況及び交通安全施策の現況」というページには、

※ 運転事故
 列車衝突事故,列車脱線事故,列車火災事故,踏切障害事故,道路障害事故,鉄道人身障害事故及び鉄道物損事故をいう。なお,軌道の運転事故は,鉄道運転事故と同様に定義する。

とあり、「列車衝突事故」という表現を使いつつ、

3両編成の特急列車が駅到着の際,減速せず車止めを乗り越え,駅舎の壁に衝撃し前2両が脱線し

「衝撃し(た)」とあります。うん、「衝突」は名詞、「衝撃」はサ変動詞として定義されているのかもしれませんね。誰か真相を「キク象」くんに聞いてみてください。間違えても木久蔵師匠には聞かないように。もちろん JARO に聞いても無意味ですので。

というか、「木久蔵」じゃなくて「キク象コーナー」って、いつの間にか「統廃合」という名のリストラを食らっていたのですね。

そんなわけで(どんなわけだ)、「大阪城北詰」という駅名にネーミングセンスの妙を感じながら、今日はこの辺で。なんか微妙に短いですが、たまにはネタがスリップすることもあるのです。衝撃しなかっただけマシだとしましょう(笑)。

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2008年3月18日火曜日

「脱脂粉乳」は「家畜のエサ」だったのか

Bojan、牛乳を語る

今を去ることウン十年ほど前、私がキュートなお子ちゃまだった頃、昼食は、小学校では「給食」で、中学校では「弁当」でした。ただ、どちらも「牛乳」だけは支給されていました。炎天下に置かれたせいで、生暖かくなる一歩手前の牛乳を飲まされるのは、今から思えばなかなかつらいものがありました。

それと、自宅にて、マグカップに牛乳を入れてレンジで加熱した後、表面にできた皮を剥いだ残りの牛乳を飲むというのも……、あんまり楽しいものじゃなかったですね。なんか「味がしない」ような印象がありました。

やっぱ脱脂粉乳でしょ♪

流浪の番組「タモリ倶楽部」の名物コーナー「空耳アワー」で、随分前にタモさんが語っていたのですが、「給食とかで牛乳飲みましたよね?」との安斎(肇)の問いかけに対して、タモさんは顔をしかめながら「オレの頃は脱脂粉乳だった」と答えていました。タモさんの生年月日は 1945 年 8 月 22 日と言いますから、「戦争を知らない子供たち」ではあるものの、「なーんにーもなーいなーんにーもなーいまーったーくなーんにーもなーい」とばかりに「やつらの足音のバラード」を地でいっていた、んじゃないかと思います。

脱脂粉乳」は、現代で言う「スキムミルク」だそうで。Wikipedia の「脱脂粉乳」の項には、次のように説明されています。

脱脂粉乳だっしふんにゅう)は、生乳、牛乳又は特別牛乳の乳脂肪分を除去したものからほとんどすべての水分を除去し、粉末状にしたもの。

「脂肪分を除去したもの」を粉末状にしたわけですね。なるほど、それでは「皮を剥いだ牛乳」以上に味がしない筈です。

脱粉(だっぷん)と略称されることもある。

これはさすがに聞いたことないですけど。なんか、語感が、ねぇ(笑)。

まぁ、タモさんをはじめ、当時実際に脱脂粉乳を飲まされた人は、軒並み「あれは不味かった」と口を揃えて言うようですね。ある程度は想像がつきますけど、本当にまずかったんだろうなぁ……。後学のために、一口だけ飲んでみても……いいかも。

「脱脂粉乳」は「家畜のエサ」だったのか

さて、その「めっちゃマズい」脱脂粉乳が、どうして敗戦国の学童のもとに届いたかと言いますと、アメリカの陰謀……ではなく、ユニセフの援助物資だったんですね。脱脂粉乳は、その栄養価もさることながら、当時では珍しい、今で言う「フリーズドライ」的な形態を取ることができていたわけで、アメリカから船便で運ぶことができたのが大きかったようです。

そもそも、何で「脱脂粉乳」について熱く語っているかをご説明しないといけませんね。理由ですが、今日、タクシーの車内でたまたまラジオを聞いていたんですが、その中で「脱脂粉乳はマズかった」という話題が出ていたのですね。曰く、「アレは家畜のエサやったのを日本に持ってきたんや」と。「せやからマズかったんや」とも。

敗戦後の学校給食で「脱脂粉乳」が広く採用されていたことは基礎知識として知っていたのですが、「家畜のエサ」説については聞いたことが無かったものですから、ちょいと気になって調べてみた、というのが真相です。

結論ですが、「脱脂粉乳は、家畜のエサとして使われることもある」といったところでした。ユニセフの援助物資として学校給食で広く使われた「脱脂粉乳」が、アメリカでは「家畜の飼料」としてしか使われないような粗悪な品質のものだったのかは、肯定も否定もできないかな、といった感じです。

今や「世界の鼻つまみ者」だけど……

我々は、幸いなことに「脱脂粉乳二世」なので、当時の「脱脂粉乳」がどれだけマズかったのかは知らずに済んだわけですが……。たとえ「飲めたもんじゃない」ものだったとしても、栄養価の高い援助物資を気前よく(?)用意してくれたユニセフ……まぁ、実際には「アメリカ合衆国」ですよね……には、感謝しないといけませんね。そりゃあ、色んな意味でシャクに触る国だけど、さ。

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2008年3月17日月曜日

「ハワイで親父に教わった」可能性

少年 A、赤の広場に降り立つ

さて、「ベレンコ中尉事件」の対極として語られるのが、「ペトロフ事件」ではなく「ルスト青年の事件」ですが……、これって、1987 年に起きていたんですね。思った以上に最近だったので、びっくりしちゃいました。

1987 年と言えば、阪神タイガースが初の(今のところ唯一の?)日本一に輝いたよりも新しく、蜂谷真由美こと金賢姫が大韓航空機を爆破した年なわけで……。覚えていても不思議はないのですが、覚えていなかったということは……、それほど報道もされず、話題にも上らなかった、ということなんでしょうね。

あとは、「事件」を起こした際のルスト青年の年齢もネックだったのかも……。マティアス・ルストは 1968 年生まれと言いますから、事件を起こした時は 19 歳。日本では「未成年」に当たりますから、「少年 A」扱いですね。

「ハワイで親父に教わった」可能性

Wikipedia の「マチアス・ルスト」の項から引用しますと、

事件は 1987 年 5 月 28 日に起きた。当時 19 歳のルストはハンブルクでセスナ機をレンタルして離陸、経由地フィンランドのヘルシンキ・マルミ空港でセスナ機の燃料を給油し、ストックホルムへ向かうことを管制官に告げ離陸した。しかし彼は機首を東に向け、まもなくフィンランドの管制空域から機影が消えた。彼はバルト海沿岸に沿って飛んだのち、モスクワへと向かった。

いろいろと疑問が出てきます。まず、ルストは 19 歳なのにセスナの操縦ができたのか? という「もっともな疑問」があるのですが、これは、操縦の仕方は「ハワイで親父に教わった」と仮定すれば解決できます。次なる疑問は「セスナをやすやすとレンタルできるのか」ですが、案外「レンタルのニッケン」あたりでもレンタルしていたのかも知れません。

続けましょうか。

この日は偶然ソビエト連邦の国境警備隊の休日であり、警備が緩んでいた隙をついて機体はモスクワまで妨害を受けずに飛行した。5 時間にわたるソ連上空飛行ののち、ルストは機体をソ連の中枢であるクレムリンに隣接する赤の広場に着陸させた(正確には人だかりを避けて 100m ほど離れた橋に着陸し、機体を赤の広場の観光バス用駐車場まで移動させた)。彼は直ちに逮捕された。

意外と国境警備隊の好待遇が目につきます(ぇ)。ベレンコ中尉の(元?)奥さんがブチ切れたのが原因かもしれません。また、ルスト青年の的確な状況判断、ならびに土地勘についても注目すべきでしょう。CIA のエージェント説も検討に値しますが、事前に「地球の歩き方」を買って研究していた可能性も捨てきれません。

ソ連国境警備隊はセスナ機の侵入を把握していたが、適切な決定が下されなかった。当時ソ連の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長はこの事件を好機ととらえ、グラスノスチやペレストロイカに反対していた国防相および防空軍総司令官を解任した。

「適切な決定が下されなかった」というのは、まるで極東の某島国を思い起こさせますね。仮想敵国(ソ連にとっては NATO 諸国もそうでしょうから)から珍客が舞い込むのは、意外と政治的にラッキーなことなのかも知れません。

その後の名探偵、じゃなくてルスト青年

裁判は 9 月 2 日にモスクワで始められた。ルストは飛行の目的を "東西の対立を解消し平和をもたらす為" であると述べた。彼は暴力行為、航空法違反、不法入国の罪で 4 年間の懲役を命じられた。432 日間の懲役生活のあとアンドレイ・グロムイコ外相(最高国家評議会議長)の恩赦を受けて彼は国外退去処分となり、1988 年 8 月 3 日に西ドイツに戻った。

グロムイコがソ連の外相を務めたのは 1985 年までで、その後はエドゥアルド・シェワルナゼが外相を務めていた筈なので、Wikipedia のこの記述は厳密には誤りですね。といったことは置いといて、ルスト青年は一年とちょい後に、無事西ドイツに戻ったのでした(へぇー)。

ルスト青年のその後についても、なかなかナイスな記述があります。

帰国後彼は良心的兵役忌避のためハンブルクの病院で奉仕活動に従事したが、その最中の 1989 年に交際を断わられた看護婦をナイフで刺し、2 年半の懲役刑となった。釈放後はソビエト崩壊後のロシアへ渡るなどしていたが、その後の人生もトラブルが続き、2001 年にも万引きで罰金刑を受けている。現在は結婚してベルリンに居住し、ポーカーの賞金で生計を立てている模様。

ポーカーで生計を立てられるもんなんですね(笑)。

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2008年3月16日日曜日

全てはベレンコの奥さんがブチ切れたことから始まった

As Seen On TV...

ヴィクトルイワーノヴィチベレンコ中尉が操縦するミグ 25 戦闘機が函館空港に強行着陸したのは 1976 年 9 月 6 日のこと……ですから、もう 32 年近く前の話になります。当然ながら、リアルタイムでの記憶はありません。

どんな事件だったかと言いますと、(当時の日本が「仮想敵国」と見なしていた)ソ連防空軍のミグ 25 戦闘機が、演習に向かう途中に 1 機だけこっそり北海道に向かい、レーダーの死角となる海面スレスレに飛行することで自衛隊の迎撃をかわし、あろうことか函館空港に着陸させてしまったという、前代未聞の不祥事でした。

実際には、ベレンコのミグは自衛隊のレーダーに捉えられていたが、その後低空飛行に移ったためレーダーでの追跡に失敗、また、迎撃した F-4 は下方の視界が良くなく、結局ベレンコのミグを見つけることはできなかったとのこと。ソ連による領空侵犯は「良くある話」なので、「今回 *も* 引き返したのだろう」という「思いこみ」も、きっとあったのだと思います。

絶望した!かどうかは定かではありませんが……

幸い、ベレンコは米国への亡命を希望していたため、「軍事的な損失」とはならなかったのですが、仮にベレンコのミッションが、例えば生物兵器を散布するなどの、秘密裏な攻撃活動だったとしたならば……といった可能性を考えると、自衛隊は防空に失敗したと言えるわけで、関係者に大きな衝撃を与えたと言われます。

ただ、もう一方の当事者たるソ連も、後の 1987 年に、あろうことか、領空を侵犯したセスナ機をモスクワの赤の広場に着陸させてしまうという「空前絶後の不祥事」を起こしてしまっています。スティングも「歴史は繰り返す」と嘆くわけです(笑)

えと、つまりどういうことかと言いますと、「防空って大変だよね」ってコトでして……。日本とソ連が格別にお粗末だったかと言うと、うーんどうだろ、とも思います。間違いなく日本がお粗末だったと思うのは、こういった「事件」が起こった際のプロシージャ(「手続き」と訳すべきか)に、未定義の部分が多すぎる(ような気がする)所ですね……。

生ミグ見放題さわり放題

さて、白昼堂々(だったと思う)函館空港に強行着陸したミグ 25 戦闘機は、結局オーバーランして田んぼに突っ込んで止まったらしいのですが、機体は転覆したり大きく破損することがなかったため、自衛隊や米軍に取っては、図らずも「生ミグ見放題さわり放題」というウハウハな事態となったのでした。

主力戦闘機が、ほぼ完全な形で「敵」の手に渡ることほど恐ろしいことは無いでしょうね。旧日本海軍の「ゼロ戦」も、運悪く沼地に不時着した機体が米軍に回収され、とことん研究されたと言われます。徹底的な研究は、太平洋戦争後期にゼロ戦の損耗率が著しく上昇した原因の一つと言えるかと思います。

当時、「ソ連っておっくれってるぅー☆」というネガティブキャンペーンに使われたのが、トランジスタ全盛のご時世にあって、重要部位に「真空管」が使われていたことですが、これは未だに評価が定まらないみたいですね。「真空管はトランジスタと比べて核爆発による影響が少ない」という説もまことしやかに囁かれているようですが、「大出力のレーダーを安定稼働させるためには(当時の技術では)真空管がベストな選択だった」という説も、負けず劣らず魅力的な仮説であるように思えます。

全てはベレンコの奥さんがブチ切れたことから始まった

ベレンコ中尉亡命事件」のその後ですが、ヴィクトル・ベレンコは、無事米国への亡命が認められ、その後、KGB の殺し屋に消されることなく、CIA のブレーンとして活躍したとか。一方、機体の隅々まで「見放題さわり放題の刑」に処されたベレンコの愛機(ミグ 25)は、最終的にはソ連に返還されたそうですね。

ベレンコの「出奔」が原因で、ソ連が失ったものはとても多かったわけですが、ベレンコを亡命に駆り立てた理由は、「劣悪な生活環境と、そこから来た妻との不和」だという説が有力なのだとか。ベレンコの奥さんがブチ切れたおかげで、最終的には防空軍パイロットの生活水準は著しく向上したと言いますから、「人間万事塞翁が馬」とは良く言ったものです。

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2008年3月15日土曜日

日本におけるペレストロイカの発展と衰退

先日、ふと思うところがあって、MapFan.net で地図を眺めていたところ……。
何とも素敵なマンショーンを見つけました(「ペレストロイカ マンション」)。その豪快な名前に敬意を表し、所在地もグラスノスチしようかとも思いましたが、都合によりゴルビーサラウンドは中止させていただき増位山。

ちなみに、ペレストロイカも、ご多分に漏れず 1500 円以上国内配送無料だそうです。
問題は、ペレストロイカにどの程度の値段がついているか、ですね。案外 150 ルーブルくらいだったりして……。

カロ、フリーダ

さて、「グラスノスチ」と「イサム・ノグチ」の間に統計学上有意な類似点を見いだせないか検討するのはあまりにバカバカしいので置いておきまして、人類女性初の宇宙飛行士とされるワレンチーナ・テレシコワが発した「ヤー・チャイカ」という言葉について。

「ヤー・チャイカ」は「私はカモメ」と和訳されることが多いのですが、もともとはアントン・チェーホフの戯曲「かもめ」から来ているとのこと。何とも文化的で高尚なやりとりに思えますが、チェーホフの「かもめ」が発表されたのは革命前のロシアだったという点もポイントでしょうか。

赤いカゴメ

かもめ」と言えば、チェーホフの戯曲であり、JR 九州の特急列車の名前だったりもしますが、似て非なる語感の「かごめ」という言葉もあります。トマトに社運を賭けている某企業の名前でもありますが、童謡の「かごめかごめ」というものの存在も気になるところです(気にならないと思う

さて、童謡の「かごめかごめ」ですが、土地によって様々なバリエーションがあったとか。最終的には、千葉県野田市近辺に伝わっていたものが全国進出に成功し、統一王座についたとされます。つまり、野田市は「『かごめかごめ』のふるさと」と言えるのかもしれません。

後ろの正面にはデルモンテがいた

話をややこしくするのが「キッコーマン」の存在でして、ご存じの通り、千葉県野田市はキッコーマンの「聖地」でもあります。キッコーマンと言えば、まずは「しょうゆ」のメーカーですが、グループ配下に「日本デルモンテ株式会社」という会社を抱えていたりして……。

んまぁ、デルモンテと野田は直接関係ないので、勘違いの余地は無いんですけどね。

本日の補足トリビア

ついでに……。カゴメ株式会社の社名の由来について、Wikipedia の「カゴメ」の項から引用しますと……。

商標の由来
蟹江一太郎は陸軍退役時に上官から「農業をやるなら、洋野菜をやりなさい」と言われてトマト作りを始めた。その恩を忘れないために陸軍の象徴である五角の星を商標として使おうと考えていたが、あまりに一般的な印であるとして認められなかった。このため、六角の星に改変し、籠を編んだときの目(籠目)印であるとしてこちらの商標が認められた。 カゴメという社名もこれに由来する。

へぇー(・∀・)

当然以上のことからこども遊びの歌、「かごめかごめ」が由来ではない。

そゆことですよね。もちろんジャストシステムカニエウェストも関係ないです(ぉ

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2008年3月12日水曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルパシフィック東京」編

昨年の初夏あたりから、どーのこーのと言いながら、毎週のように東京に来る羽目になっていたのですが、足かけ二年(笑)、よーやく呪縛から解放されつつあります。などと言いながら、今日も品川です(ぉ

今日のお宿は、品川駅の向こう側(どっち側だよ)にそびえ立つ「ホテルパシフィック東京」です。うん、見るからにちと高そうな気がしてちょっと二の足を踏んでいたのですが、「これでしばらく東京に来ることも無いかなっ♪」ってな気分だったもんで……。一泊、超特価 \14,000- 也。

コロコロと、いつものキャリーバッグを転がしつつホテル前に到着。敷地が広いからか、どこから入れば良いかと一瞬迷う(笑)。2 階に続くスロープを昇っていったところ、フロントは 3 階とのこと。エスカレーターで 3 階へ。

3 階についたは良いものの、チェックインと支払いが別カウンターの「欧米式」だったらどーしよー、とほんの一瞬迷う。ただ、このホテルは幸いにして純粋な日本式のようで、とりあえず「F R O N T」に行けば良いようです。

フロントに辿り着く前に、ボーイのお兄さん(布袋寅泰では無い。もちろん「ホテルともやす」でもない)が荷物を預かってくれました。ちゃんとしたホテルは、この辺がちゃんとしてるんですよね。その分お値段もちゃんとしてるけど。

フロントでは、隣の中国人と思しき団体が喧しかったけれど、平静を決め込みながらチェックイン。フロントのお兄さん曰く「シングルでのご予約ですが、少し良いお部屋をご用意しました」とのこと。心の中でガッツポーズを決めたのは言うまでもありません。

お部屋紹介

で、案内されたのが、こちらのツインルーム。キャリーカートとお仕事カバンは、ボーイのお兄さんがカートで運んでくれたことは言うまでもありません。

決して新しくは無いですが、綺麗な部屋です。
チェックインした時から気になっていたといえば気になっていたのですが、このホテル、「ホテルパシフィック東京」と言いながら、あちこちにデカデカと "MERIDIEN" の文字が光ります。「メリディアン パシフィック東京」を主張したいみたいで……。

ちなみにこのホテル、東京ディズニーリゾート・グッドネイバーホテルのひとつで、窓際にはこんな案内もありました。
窓から見える品川駅の夜景はこんな感じ。
テレビのリモコンも、無駄に「メリディアン」を主張していました(笑)。

まとめ

個人的には、もの凄くポイント高いです。2 階には「売店兼コンビニ」もあって、大抵のものは手に入りますし、品川プリンスほどだだっ広く無いですし。何よりもオトナの客が多い(子供が少ない)のが落ち着きます(笑)。

星の数は、堂々の「★★★」(三つ星)を進呈しましょう。お値段次第ですが、次も使ってみたいですね。

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2008年3月9日日曜日

古田空想史学の終焉

最後のファンタジー

この際だからカミングアウトしてしまいましょう。古田武彦は凄いと思います。

古田武彦という人は、その著書「邪馬台国はなかった」で知られる人で、日本における「多元的古代」というユニークな考え方を広く世に広め、その独創的な考え方は「古田史学」と呼ばれたものです。

ただ、より正確を期すためには「古田史学」ではなく「古田空想史学」、あるいは「古田ファンタジー史学」としたほうが良い、とも思います。略して「FF 史学」なんてのも良いかもしれません。「ダルマスカ」は「ダニマルカ」(イタリア語で「デンマーク」の意)から語感をパクっていると思います(だからどうした

大学教授とは、誰も読まない本を書く人たちと見つけたり

相変わらず妙な前置きですが、本題に移ります。古田武彦著の「真実の東北王朝」を読みました! いやー、全編で古田節が炸裂!していて、もう最高です。ブラボーですね。

「大学教授」の普遍的な特徴として、「『誰も読まない本を書くという習性がある」と看破した人がいるとか……。これは恐ろしく卓見です。ごく一部の例外を除いて、大学教授の著した本というものは、おそろしく詰まらないです。

ところが、古田武彦の本は……実に面白いのです。「真実の東北王朝」なんて、まさに「読み出したら止まらない」状態になっちゃいました。朝の 4 時頃まで読み耽る始末……。

読後の清涼感は、まやかしの清涼感

「誰も読まない大学教授の本」との最大の違いは、「誰も読まない本」は客観的な論述に終始しているのと比べ、「古田武彦の本」は、すべて「わたし」の主観で綴られている、という点です。また、文中の「わたし」には全能感すら漂い、神々しさすら感じられるのが最大の特徴と言えましょう。

「わたし」は、「旧来の固定観念に縛られた『定説』という名の巨人ゴリアテ」に挑むダビデであり、次々と「画期的な新発見」をしては定説を書き換える、というのが定番になっています。氏の文章は、学術論文では絶対お目に掛かれない「情緒豊かな文章」で(そもそも論文に情緒は不要ですが)、自信たっぷりに読み手に語りかけて来るのです。

で、「真実の東北王朝」という本ですが……。最初に出てくるのが「多賀城碑」、そして次に出てくるのが「つぼのいしぶみ」。真打ちとして出てきたのが「東日流外三郡誌」という……。いずれも、出版当時では真贋の定まらない「キワモノ」ばかりなわけでして。これらを題材に、熱っぽい「古田節」が炸裂するわけです。

古田空想史学の終焉

中でも、「東日流外三郡誌」(またの名を「和田家文書」)は、当時から後世の偽作であるとの評が絶えない「疑惑の古書」だったわけですが、その疑わしき点をピックアップしてはフォローを入れてしまうその姿勢は、涙無くしては語れません(笑)。

なんせ 1859 年に出版された、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」についての講釈を、「ダウイン一世の説」として 1700 年代に長崎で聞いたことになっていたり、挙げ句の果てには江戸時代の古文書に、「ビッグバン」についての記載があったり、ですからね(笑)。ビッグバンという考え方が成立したのは 20 世紀ですから。

それを、「ダウイン一世」は「チャールズではなく、その祖父のことだ」としたり、「ビッグ・バン」についても、「学説として成立したのは 20 世紀だが、それ以前にもコンセプトモデルとして捉えられていた(かもしれない)」といった、あまりに不自然なフォローを連発する姿は、「古田(空想)史学も終わったな」と思わせるに十分でした。実際、稀代の偽書である「東日流外三郡誌」にコミットしたことが、古田の学者人生にとどめを刺した、と見る向きも多く、また、実際その通りになったわけで。

やっぱり、「ファンタジー」は「ファンタジー」として世に問うのが全うだよね、と思うわけです(まる)。あれ、作文?

(文中、敬称略)
「疑似科学」や「カルト」の入門書としては、古田氏の本はオススメ!です。ただ、「私は何でも素直に信じてしまうの」といった人には、とてもお勧めできません。「科学とは、すべてを疑うことと見つけたり」という境地に達した方にのみ、お勧めします。大学でマトモに研究をしたことのある人なら、きっと誰でも大丈夫だと思います。

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