2010年4月30日金曜日

「人麻呂の暗号」とパープル暗号(関係ないし)

藤村由加の「人麻呂の暗号」という本をご記憶の方はおいででしょうか。実は、「藤村由加」という人物は「この世に存在しない」とされています。というのも、藤村の正体は SIGINT (電子機器による情報収集活動で、暗号の解読なども行う)に従事するスパイとも言うべき存在で、その存在は決して公にされない……というのは全部ウソで(←)、単に「ペンネーム」なのだそうです(←←←

藤村 由加(ふじむら ゆか)は、四人の女性執筆者集団のペンネーム。四人の名前から一文字づつ取っている。
(Wikipedia 日本語版「藤村由加」より引用)
ふむ、「四人の共著者による筆名」だということは知っていたのですが、四人とも女性だったというのは知りませんでした。で、その「人麻呂の暗号」ですが、

概要
ヒッポファミリークラブで朝鮮語を学び、1989年新潮社より『人麻呂の暗号』を刊行し、『万葉集』は朝鮮語で読み解けると主張
(Wikipedia 日本語版「藤村由加」より引用)
といった本でした。もう 20 年も前の話になるんですねぇ。私も歳を取ったものです。

「大発見」もやがて化けの皮が剥がれ……

てなわけで、現代の日本人にとっては意味不明な枕詞が並ぶ「万葉集」が、実は「古代朝鮮語」で解読できる! ということで、当時はちょっとした話題になったわけですが、

当時は、20代の女性による大発見と賞賛する声が多かったが、中西進、安本美典らの批判を受け、遂に「トンデモ本」と認定され、その後も著書をいくつか出した。
(Wikipedia 日本語版「藤村由加」より引用)
まぁ、安本美典に批判されたのはさておき(← さておいた!)、中西進さん(何故に「さん」づけ!?)に批判されたのは痛かったかも知れません。まぁ、中西先生は

来歴・人物
東京出身。東京大学文学部国文学科卒業。同大学院博士課程修了。久松潜一に学び、30代で博士論文『万葉集の比較文学的研究』により1963年第15回読売文学賞受賞。以後日本古代文学の中国文学との比較研究を始め、日本文化の全体像を視野におさめた研究・評論活動、グローバルな視点からの文化論を展開している。漢字本文・現代語訳・簡潔な注を収めた、文庫本としては画期的な『万葉集』のテキスト講談社文庫『万葉集』(全4冊と万葉集事典1冊)を編集し、『万葉集』の普及に努めた。みずみずしい感覚で『万葉集』を始めとする日本古典文学を読み解いた研究書・評論書も多数。著書は100冊を超える。
(Wikipedia 日本語版「中西進」より引用)
なんて方ですので、学界の権威におもねるわけではありませんが、そう簡単に論駁できる相手ではなかった……ということなのでしょう。「画期的な新説」の大半が勘違いや思い込みでできているというのも、古今東西で変わらない「真理」なのかも知れません。

日本各地の地名も「アイヌ語」で読み解ける!(←

さて。「万葉集」が「古代韓国語」なる謎の概念で読み解ける、とするのであれば、日本各地の地名が「アイヌ語」で読み解けても何の不思議もありません。はい、そもそもの立脚点が「トンデモ」なので、これからの「珍説」も同程度(あるいはそれ以下)の内容でしか無いのですが、お楽しみいただければと思います。

……あ、ずいぶん字数も多くなったので、また今度ということで(←

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2010年4月29日木曜日

滝の音はたえて久しくなりぬれど……

四方田犬彦は違うみたいです(←

「アイヌ」と言えば北海道、と連想するのが普通ですが、史料上は、少なくとも 17 世紀の頃には、北東北の僻地にもアイヌの集落が見られるそうです。江戸時代の史料になるのですが、アイヌの集落は「犬村」(正確には「けものへん」に「犬」)と書かれています。また、その「アイヌ村」に住む人の名も、軒並み「○○○犬」といった、とうてい人の名とは思えないような名前になっています。

大変残念な話ですが、江戸時代の役人にとっては、アイヌは人として扱われていなかった、と考えざるを得ません。「征服する側」が、土着の民を人扱いしない……というのは洋の東西を問わずある話ですが、他ならぬ我々日本人もその轍を踏んでいた、ということになります。

伝家の宝刀「同化政策」

ちなみに、北東北のアイヌの民は、山田秀三さんの「津軽の犬村の記録」(「アイヌ語地名の研究 <3> ─山田秀三著作集─」に所収、これも「犬」の字は同様に「けものへん」に「犬」)によれば、1756 年に「和人籍に編入」されたのだそうです。明治以降には北海道でも、同様の「同化政策」が取られましたし、後には併合後の韓国に対しても同様の政策を取ることになります。いわば日本人の「お家芸」のようなものですが、古くは「えみし」や「えぞ」に対しても似たような手が用いられていた、ということになります。

もっとも、「同化政策」というものは、基本的には被征服者の文化の否定に他ならないわけで、決して無条件に褒められたものではない……とも言えます。もちろん、「全てが悪」と決めつけられるものでもないので、例によって例のごとく、評価が難しいのですけどね。

「犬村」の「けものへん」に「犬」という字の話ですが、山田さんの別の書には「狄村」と記されていました。「夷狄」(いてき)という単語に使われる字です。もしかしたら「けものへん」に「犬」というのは「狄」の変字体かも知れません。

東北北部のアイヌ語地名

ま、ここ数日にわたる壮大な前フリ(←)で、東北地方の中でも北部のほうには、アイヌの民が名付けたと思しき地名が、北海道に負けず劣らず多く見られる、という「仮説」には、皆さんも首肯していただけるものと思います。

山田秀三さんは、在野の方(プロの研究者ではない、ということ)とは言え、極めて学術的に調査を進められたので、その著書には極めて明確な「アイヌ語地名」ばかりが出てきます。例えば「佐比内」(さっぴない)だったり「尻労」(しつかり)だったり、あるいは「ワシリ」だったり「今別」(いまべつ)だったりと、アイヌ語で解するのに *ふさわしい* ものばかりです。

滝の音はたえて久しくなりぬれど……

ちなみに、山田秀三さんの見解としては、このような「あからさまなアイヌ語地名」は、福島県あたりを境に見られなくなるのだそうです。福島県と言えば、中通りの「白河関」だったり、浜通の「勿来関」があたりが有名かと思います。

「勿来」は、藤原公任(ふじわら の きんとう)の和歌でも有名かも?知れません。百人一首の「なこそなかれて なほきこえけれ」の「なこそ」は、「勿来関」(なこそのせき)とかかっている……のだと思いますが……異説もあるとか……。

ま、そんなわけで、福島県は、中世には既に「蝦夷討伐」の最前線だったわけですから、福島以南にはその手の地名が見受けられない、という山田さんの説は、極めて当を得たものだと言えるかと思います。

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2010年4月28日水曜日

「いわゆる彫りが深い顔立ち」の遺伝子

Jack In The Box に見る日本人のルーツ

日本人の多くは、全体的に彫りの浅い、のっぺりとした顔をしています。日本国内にいると滅多に自覚することはないのですが、例えば昨年の 9 月に SFO の JACK IN THE BOX でハンバーガーを買おうと並んでいて、硝子窓に映る自分の顔を見た時なんかに「うわー、モロ東洋人じゃん」と思ったりしたものです。
一方、先祖代々からの日本人でも、中にはとても彫りの深い人とか、あるいは全体的に顔が「濃い」人(気を悪くされた方にはお詫び申し上げます)もいます。平たく言えば「エキゾチックな顔立ち」となるのですが、そうした「日本人離れした」ルックスを持つ人は、そのルーツを辿ると結構な確率で、北海道だったり、あるいは南西諸島に行き当たります。

いわゆる彫りが深い顔立ち

この、「彫りが深い」という特徴は、いわゆる「縄文人」の特徴とも相通じます。

形質的特徴
縄文人の形質的な特徴を一般的に表すと、次のようになる。まず身長は平均して成人男性で160センチ弱、成人女性で150センチ弱。頭部は身長に比べて大きめで、顔の輪郭は正方形に近い。いわゆる彫りが深い顔立ちであり眉間が突き出しているが、一方で鼻の付け根が引っ込んでいる。眉毛は濃く、目は大きめで、まぶたは二重、唇はやや厚めで顎の骨が発達している。
(Wikipedia 日本語版「縄文人」より引用)
身長については、旧石器時代と比べると現代のほうが格段に栄養価の高いものを食しているので、あまり参考にはならないでしょう。平均寿命が格段に向上しているのも、同様に説明が可能です。

「いわゆる彫りが深い顔立ち」の遺伝子?

ポイントは「いわゆる彫りが深い顔立ちであり」というところです。アイヌ、あるいは古くから南西諸島に暮らしてきた人々の多くは「彫りの深い顔立ち」であるように思います。

分子人類学から見た縄文人のルーツ
ミトコンドリアDNAの分析による縄文人のルーツ解明も試みられている。宝来聡によると、東南アジアの少数民族と現代のアイヌおよび琉球弧人が共通の因子を持つとされ、形質人類学においてこの両者と縄文人が特に近いとされることから、縄文人のルーツの一つに東南アジアの旧石器時代人が存在したとの見方が可能である。
(Wikipedia 日本語版「縄文人」より引用)
前述の「印象」は、こうやって DNA レベルでも確かめられている……というのは言い過ぎでしょうけど、少なくとも仮説を裏付けるような調査結果は存在するようです。

良くある仮説

日本の国土の中でも「北の果て」と「南西の果て」に住まうの人々のルーツが共通でありながら、「関東」や「畿内」の人間とは、見た目からも多少の違いが見られるというのはどうしてか、ということで、次のような Ad Hoc な仮説を立てることができます。

1. かつて、日本列島は北から南(南西諸島含む)まで、縄文人系が住んでいた
2. 弥生時代になって、大陸から弥生人系の人種が大挙して押し寄せ、先住民(縄文人系)を追い出した
3. 追い出された先住民は、東北・北海道や南西諸島などに落ち延びた

こういった話はまことしやかに語られますが、

エミシ・エビス・エゾ・アイヌと縄文人
前述のように明治から第二次世界大戦が終わる頃までは、縄文人は日本民族によって日本列島から駆逐されていった先住民と見られていた。こうした見方は必然的に、古代から近世にかけて日本の支配する領域の北隣に居住していた異民族、そしてアイヌを縄文人の直接の末裔と見る説を生み出した。このような縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていない。
(Wikipedia 日本語版「縄文人」より引用)
ということなのだそうです。

とりあえず「そんなに単純なもんじゃない」ということです

ただ、こういった考え方は全くのデタラメというわけではなく、注意しないといけないのは「縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は(中略)今日の学界では受け入れられていない」ということだけであり、「不等号で結ばれる」というわけでは無い、ということです。「肯定できない」だけであり、「完全否定」ではない、ということですね。

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2010年4月27日火曜日

奥州藤原氏はアイヌではなかった?

「えみし」は「アイヌ」か「辺民」か

一昨日に引き続き、「えみし」と「えぞ」について続けます。

蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を日本人の一部とする蝦夷辺民説である。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
これがまた、漢字で書かれているので、文脈をきちんと追わないと一見意味不明になってしまうのですが、この「蝦夷」は「えみし」のことです。うん、書いているそばから読み違えてしまいましたよ……!

何らかの繋がりはある筈……

えーと、改めて整理しますと、「蝦夷(えみし)はアイヌである」という「蝦夷(えみし)アイヌ説」と、「蝦夷(えみし)も和人である」とする「蝦夷(えみし)辺民説」の両方がある、ということですね。個人的には「蝦夷アイヌ説」に乗りたいところなのですが、そうとも断言できない可能性も捨てきれないようです。

ただ、「蝦夷(えみし)」と「アイヌ」は一切の関係を持たないという仮説は、さすがに棄却できそうな雰囲気です。

現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中しているから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
またしても、みんな大好きな「地名」による比定?なのですが、北東北(青森県や秋田県、岩手県など)には「アイヌ語地名」が多数見つかることから、北東北には多数のアイヌの人たち(少なくとも、アイヌ語を使う人たち)が住んでいたことを窺わせます。

この人も「蝦夷」=「アイヌ説」でした

ちなみに、こんな本も先日読み終えました。
「アイヌ語研究」の第一人者であり、三省堂「明解国語辞典」の編者としても知られる「金田一京助」の評伝です。金田一春彦さんのお父さんです。なお、名探偵の「金田一耕助」や、その孫の「金田一少年」とは血縁関係はありません(あったらこわい)。

著者の藤本英夫さんは、もともとは高校の教員だった方ですが、趣味が嵩じて(?)あちこちの遺跡発掘に従事したり、また他ならぬ金田一京助の最大の弟子・知里真志保の評伝を書いたりしています。そういった意味では文章もアマチュアの筈なのですが、なかなかどうして、とても読ませる文章をお書きになる方です(ただ、どうやら 2005 年末?に逝去されたようです)。

あ、話が逸れましたが、金田一京助さんも、やはり「蝦夷アイヌ説」をプッシュしていたのだそうです。

しかし、奥州藤原氏はアイヌではなかった?

このように見てみると、「蝦夷」=「アイヌ」と考えるのが極めて自然なのですが、ここで興味深いのが「奥州藤原氏四代」(清衡、基衡、秀衡、泰衡)のミイラが中尊寺金色堂に残されていたという点です。

昭和 25 年にミイラの学術調査が行われたそうなのですが、その結果は「遺体は日本人(和人)の特徴を具え、アイヌのおもかげは見られない」というものだったそうです。奥州藤原氏が「蝦夷の子孫」を自他共に任じていたことを考えると、肉体的器質に「アイヌ」の特徴がほとんど見られなかったことは、「えみし」と「アイヌ」の断続性を物語ることにもなってしまいます。

……続きはまた後日、ということで。

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2010年4月25日日曜日

阿弖流為は「えみし」?「えぞ」?

阿弖流為は「えみし」?「えぞ」?

昨日は、唐突に「蝦夷のリーダー」だった「阿弖流為」(アテルイ)の話をしました。阿弖流為が主戦場としたのが岩手県の胆沢のあたりですから、当時、岩手県は蝦夷の勢力下にあった、ということになります。

ちなみに、広辞苑による阿弖流為の説明は次のようなものです。
蝦夷の族長」とありますね。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
これは昨日も引用した文ですが、最後に一文増えています(昨日は意図的に引用しませんでした)。確かに、近世における「蝦夷地」の住人は、大半が「アイヌ」であることは間違い無いのですが、それが「阿弖流為」らの「蝦夷」と類似の存在なのか、あるいはまったく別物なのか、意見が分かれているのだとか。私自身は「蝦夷」=「アイヌ」だとばかり思っていたのですが、これは必ずしも確実とは言えないのだそうで。

「えみし」の定義

まず「えみし」の定義から。

えみし
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に国力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
ちょっと引用が長くてすいません。「えみし」と「えぞ」の違いを明らかにしておかないと面倒なことになりそうなので、長めに引用してみました。

……つまり、この定義に即して考えると、「阿弖流為」は「えみし」だった、ということになる……と思います(弱気)。いや、「えみし」と「えぞ」の違いなんて、今まで考えたこと無かったもので。でも、

ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならない。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
なのだそうです。

「安倍氏」「清原氏」そして「奥州藤原氏」

その後、平安時代になると、遠征にかかる費用が馬鹿にならなくなり「事業仕分け」の対象にされたか、それとも単なる「平和ボケ」からか、「蝦夷討伐」は行われなくなります。

平安時代前期(9世紀)になると、畿内朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、畿内朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。前九年の役、後三年の役などが勃発し、平安後期の東北北部は戦乱の時代であったが、当事者のうち安倍氏や清原氏は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが、他方源氏などは蝦夷とは全く無関係のまま東北に乗り込んでおり、当時の民族状況の一端が伺える。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
安倍氏」や「清原氏」の名前は良く目にするのですが、自称「蝦夷」系なのですね。可能性はあると思っていましたが……。そして、「安倍氏」「清原氏」以上に東北において栄華を極めたのが……

平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶことになる。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
あの金ピカ中尊寺でおなじみの(←)「奥州藤原氏」ですが、「蝦夷との血縁的・系譜的関係」と言うからには、自他共に「蝦夷(えみし)の子孫」を任じていたと考えられます。

「えみし」はどこに消えた?

その「奥州藤原氏」も、大量破壊兵器……じゃなくて戦争犯罪人(源義経)をかくまったとしてイチャモンをつけられ、やがて滅ぼされることとなります。

奥州藤原氏が源頼朝率いる関東地方の鎌倉政権によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国武士を派遣し、ここに蝦夷と全く無関係な鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及ぶことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
奥州藤原氏の滅亡と時を同じくして、「えみし」の存在が文献史料から姿を消し、代わって「えぞ」の存在が確認できるようになります。

……へぇ、そーだったんだ?(←

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2010年4月24日土曜日

阿弖流為さんの話

なぜか 3 巻だけ

相変わらず、最近はこんな本ばかり読んでいます。
山田秀三著作集」は第 1 巻から第 4 巻まであるそうなのですが、手元にあるのは第 3 巻だけです。3 巻しか持っていない理由は……単に 3 巻だけ Amazon.co.jp に在庫があった、というだけの話だったりするのですが(←

実は二代目

さて、思いっきり話が飛びますが、平安初期に「蝦夷征伐」で活躍した坂上田村麻呂という人物がいました。坂の上の……じゃなくて坂上田村麻呂は史上初の征夷大将軍だ……と思われたりしますが、実際には二代目なのだそうです(初代は「大伴弟麻呂」とのこと……誰ソレ?)。

最近の阿弖流為さん

坂上田村麻呂が対決した蝦夷のリーダーとして高名なのが「アテルイ」です。「阿弖流為」という字を当てるのに個人的には親しみを持っていますが、そもそもが当て字なのでいろいろなバリエーションがあるようですね。

さて、このアテルイさんがどんな人物だったかと言いますと、

この項目では、平安時代の人物について記述しています。東日本旅客鉄道が水沢駅~盛岡駅間で運行している快速列車「アテルイ」については「東北本線」をご覧ください。
(Wikipedia 日本語版「アテルイ」より引用)
……って、ちょっと(笑)。いやー、JR 東日本もすんごい名前の快速列車を走らせているものですね。JR 九州の「特急かいおう」と勝負できそうな気がします(どんな勝負なんだか)。

本来の阿弖流為さん

では、気を取り直して。

アテルイ(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。789年に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
(Wikipedia 日本語版「アテルイ」より引用)
「岩手県奥州市」と言われると逆に良くわからないのですが(市町村合併の弊害)、「胆沢」は岩手県西南部の「旧・胆沢町」のことです。ちなみに「いさわ」と読むそうです(「いざわ」だと思ってました。すいません)。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。
(Wikipedia 日本語版「アテルイ」より引用)
さすが蝦夷の総大将、いかにも「いかつい」当て字が威圧感を漂わせています(でも「卑字」は少ないかも?)。

「蘇我蝦夷」なんて人もいましたが

さて、今更言うまでもない結論ですが、平安時代初期には、岩手県のあたりは「蝦夷」の勢力圏であり、「大和朝廷」の権力は及ばなかった、ということになります。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
はい、この定義は問題ないですね。ポイントとしては、「蝦夷」が固有名詞か一般名詞か、というところになるのですが……そろそろ時間でしょうか?(←) 本日はこれまでということで(謝)。

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2010年4月23日金曜日

「ヘンな日本語」の答え合わせ

桑名に迫る湾岸危機(←

今日は名古屋行きの特急に乗ったのですが、車内の電光掲示で停車駅が表示されていたのですね。日本語で「……桑 名です」と表示された次に、英語で「……Kuwana」と表示されたのですが、これを見てつい「クウェート!?」と読み間違えたりしました。クウェートは、アルファベットだと "Kuwait" なのですね。最初の 4 文字ほど同じなので。「その手はサダムの焼きぼっくい」てな感じでしょうか(意味不明)。

クウェートと派遣労働の現状

さらに意味不明と言えば、"Kuwait" でググってみた時の検索結果なのですが、
確かに派遣労働の現状を知ることは大事だと思うのですが、ちょっぴり場違いな気もしないでもありません。

もの忘れについて考えさせられます

……ええい、こうなっては、今日は「意味不明」路線で行きましょう。なぜか手元のストックにあったのは、「もの忘れフォーラム 2008」なるイベントの宣伝バナー。
本文の日付に注目です。どう見ても 2009 年なのですが、今頃 2008 年のイベントの宣伝をするというのも……。内容が内容だけに、「もの忘れ」ではないかと心配してしまいます。

「ヘンな日本語」の答え合わせ

そうそう、4/14 の記事の答え合わせをしていませんでしたね。
この文章のどこが良くないか、という話をしていたのでした。率直に言うと、これは「間違いだ」と断言したいところなのですが……。

えーと、どういうことかと言いますと、「──を偽る」という表現にダウト(死語?)なのですね。たとえば、「──を偽る」という場合、「年齢を偽る」とか「職業を偽る」とか「気持ちを偽る」といった風に、「属性を偽る」となるのが自然だと思うのですね。

もう少しわかりやすく言い直すと、例えば「ジャニーズを偽る」とか「井上陽水を偽る」とは言わないですよね。おかしいですよね? そう、この場合は「──を騙る」を使うべきなんです。せめて、この程度の日本語は、多くの人の目に触れる文章であれば尚のこと、きちんとしてもらいたいものです。

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2010年4月22日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルアソシア静岡」編(おしまい)

「ホテルアソシア静岡」の第三回(完結編?)です。最後は水回りを。
ご覧の通り(?)、浴槽は十分な広さが確保されています。
特筆すべきはこちら。シャンプーとコンディショナーなんですが、この色は……。緑茶の香りがするのですね。そう、ここは日本の茶どころ・静岡です。
水栓は便利なサーモスタット型の混合水栓です。
バス・トイレはセパレートではありませんが、バスが十分足を伸ばせるだけの長さがあるので、結果として結構広々とした空間になっています(うまく写真が撮れていませんが……)。
窓からは、マニア垂涎のトレインビューです(←

Rating

築年数もそれほど経ってないように見えますし、静かで綺麗で、高級感もあるホテルです。あ、朝食は取れなかったのでその辺の雰囲気は良くわからないのですが……。

そうですね、現時点では「他人にお勧めできるホテル」であって、それ以上でもそれ以下でもない、という感じでしょうか。ちょっと厳しい言い方をすれば、ホテルとしてのアイデンティティが未だやや弱いかな、なんて思います。ある意味ではすごく「日本的」なのかも知れませんが……。

えーと、Rating ですね。今後益々のご発展を祈念して(←)★★★☆・(三つ星半)ということで!

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2010年4月21日水曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルアソシア静岡」編(つづき)

JR 静岡駅ほぼ直結の、「ホテルアソシア静岡」について、第二回です。ちなみに、今回は運の良いことに「モデレート ダブル」にアップグレードしてもらいました。

「モデレート」という単語からは、「モデレーター」かそれとも「モデラート」か、という感覚があったのですが……どっちも正解だったようですね。「モデラート」という発音はラテン語なんでしょうね、きっと。

要するに、「モデレート ダブル」は、「ほど良く倍!」という意味だということです(違います)。

PC が用意されているのは当たり前?

何しろモデレートですから(しつこい)、デスクには PC も完備です。
しかも……。
PC 本体の横にはプリンタまで。
ブラザー製のものですね。FAX もコピーもできる複合機タイプのようです。

「ヨ」が大きい

更に、その右側には……。
iPod 対応のスピーカーシステムまで。一瞬「BOSE か!?」と焦りましたが、オンキヨーの製品のようでした。オンキーではなくオンキー。表記は正しくありたいものです。

ATOK 2010 ですが、「おんきょー」で変換すると、最初から「オンキヨー」が優先的に出てきます。大したものですね。
エアコンは摂氏・華氏切り替えタイプのもの。これならアメリカ人も OK ですね。

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2010年4月20日火曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルアソシア静岡」編

えー、ちょいと時間が無いので、これまた昨年の 9 月に静岡の「アソシア静岡」に宿泊した時の記録などを……。それにしても、昨年の 9 月は西海岸に行き、静岡に行き、福岡に行き……。一体何をしてたんでしょうね、まったく。

このアソシア静岡ですが、ご存じの方はご存じの通り、JR 東海系列のホテルです。名古屋駅の「名古屋マリオットアソシアホテル」が有名でしょうか。

景気後退のさなか、サラリーマンの出張も減少傾向のようで、ホテルアソシアも、「エクスプレス予約」(東海道・山陽新幹線のネット予約のアレです)の会員向けに優待予約キャンペーンとかをやっていました(今も継続中だったかな?)。旅程の都合でちょっと遅めのチェックインになったのですが、やはりと言うべきか、追加費用なしでアップグレードしてもらえました(ラッキー♪)。

入り口とか

まず、ドアの鍵ですが、今風に IC カードです。荷物がある時には助かりますね……。ただ、確かここのホテルではボーイさんが荷物を運んでくれなかったような記憶があります(だからこそ、こんな写真も撮れるということで)。

お部屋の様子

部屋の中はこんな感じ。えーと、ツインではなくダブルなんですが、随分と部屋が広いダブルです。
なにしろ、こんな感じです。デスクには PC が備え付けられていますし、他にも何やらいろいろとあります。写真の粒子が粗いのは光度不足のせいですね。すいません。

ベッドとかソファとか

基本はツイン派なので、滅多にダブルは選ばないのですが、シングル 2 台分は優にありそうなダブルベッドです。
ソファはなぜか一人分。まぁ、デスク用の椅子もあるので、これで十分なのかも知れません。あるいは、もともと一人用にカスタマイズしてしまっているのかも……。

荷物も沢山置けます

ちょっと驚かされるのが、入り口横のこの棚です。鞄置き場なんでしょうが、結構積めそうなデザインになっています。

はい、例によって例のごとく、続きます。

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2010年4月19日月曜日

インディカー入門

オーナーのバーバーさんはいい人っぽかったけど

昨日は、インディカーシリーズの第 3 戦「アラバマ」を見ていました。もともとはオーバルコースをひたすらぐるぐる走るだけのシリーズだったはずが、いつの間にかストリートコースが増え、ロードコースが増え……。第 3 戦も、アラバマ州バーミングハムBarbar Motorsports Park という常設のロードコースが舞台でした。

どうでもいいことですが、「バーミングハム」という米国風の発音より「バーミンガム」という英国風の発音のほうが好きです。「グラハム」よりも「グレアム」派。

……はい、これだと「『ロードコース』とか『ストリートコース』って何? 『オーバル』って?」という方が多そうなので、少しおさらいしておきましょう。

オーバルコースとは

こちらが、オーバルコースの例です。
(Wikimedia Commons より借用。この作品はパブリック ドメインで提供されています)
これは Homestead-Miami Speedway ですね。ホームステッドは「1.5 マイルオーバル」と呼ばれるもので、その名の通り 1 周が 1.5 マイルです(約 2.4 km)。インディカーはこのコースを 25 秒程度で 1 周します。平均時速 340 km/h といったあたりでしょうか。

さりげなく書いていますが、結構とんでもない速度です。しかも、車体の構造上スリップストリームがそれなりに効くので、抜きつ抜かれつのデッドヒートが楽しめます(トップを走ると風圧がモロにかかるのに対し、後ろを走ると風圧が軽くなるので、追い越しやすくなるわけです)。

ロードコースとは

一方、ロードコースはと言えば……。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の作者である Will Pittenger 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

先週レースが行われた、バーバー モータースポーツ パークのコース図です。どことなく犬のように見えたりもしますが、それはさておき。日本だと「岡山国際サーキット」のような感じの、常設のサーキットコースです。

ストリートコースとは

ストリートコースは、F1 の「モナコグランプリ」のような、公道などをサーキットにしてしまうパターンですね。
(Wikimedia Commons より借用。この作品はパブリック ドメインで提供されています)
これは、かつて 1980 年代には F1 も開催された、かのロングビーチの市街地コースです。(11) が、幾多のパッシングが見られた有名なヘアピンでしょうか。ロングビーチも意外とこまめにコースが変更されているので、なかなかおっかけるのが大変なんですが……。

第 3 戦「アラバマ」の見所

昨日の「アラバマ」はロードコースだったわけですが……。うーん、コースは綺麗だし安全性も高くていいんですが、ほとんどパッシング(追い越し)ポイントが無いせいで、正直言ってかなり退屈なレースでした。ストレートも短いから、スリップストリームも使えないし……。やっぱインディカーって時速 300 km/h Over でひたすらぐるぐる回ってナンボだと思うんですけどねぇ……。

唯一の見所は、周回遅れの Milka Duno が左右から同時に抜かれた(一瞬、コース上で 3 台が横並びになった)ことが少なくとも 2 回あったことでしょうか。並みのドライバーなら動揺してスピンしてしまいそうなものですが、その辺ミルカはさすがはベテラン、堂々とラップダウンされていたのが印象的でした。

みんなで祝いましょう

ちなみにミルカ姐さんは 4/22(木) が誕生日です。何歳になるかはマナーとして触れないでおきます(←

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2010年4月18日日曜日

幻のサーキット 「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」

横浜町のお隣の、野辺地町の海岸線に

青森県は下北半島に位置する「横浜町」については、先日の記事で触れた通りなのですが、改めて場所のおさらいをしておきましょう。このあたりです。
さて、ずずずぃっとズームインしてみます。
横浜町は下北半島の陸奥湾側に位置します。太平洋側は六ヶ所村と、南側は野辺地(のへじ)町と境を接しています。上空からの写真を見る限りでは、東西どちらもまっすぐな砂浜が伸びている感じでしょうか。

何かが見えます

さらにズームインしてみましょう。
これは、ちょうど野辺地町側の海岸線です。何かが見えるような気がします(← またか)。

むつ湾インターナショナル・スピードウェイ

そして、その「何か」をプロットしてみたのがこちら。
そう、どうやら、かつてここにサーキットがあったらしいのですね。

むつ湾インターナショナル・スピードウェイは、1970年代に青森県野辺地町にあったサーキット場である。
(Wikipedia 日本語版「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」より引用)
日本におけるオーバルコースと言えば、栃木県の「ツインリンクもてぎ」が有名ですが、なんと 1970 年代にオーバルを模したコースがあったとは初耳でした。文章が過去形となっているように、サーキットとしてはとうに廃業していて、現在はご覧のような状態です(空き地……のように思えます)。

概要
  • 1972年7月にオープンの4.5km、セミオーバル・左回りの東北地区初の超高速コース。コース幅20メートル、ピット数40、アスファルト舗装。フラットコースだが第1&最終コーナーにカントがついている。
(Wikipedia 日本語版「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」より引用)
ここには書いていないですが、ストレートが 1.8 km 近くあったらしく、

  • サニークラスですら最高速250kmに迫る超コースであった。
(Wikipedia 日本語版「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」より引用)
「超コース」って何? まさか「逆コース」の親戚……なんて訳はなく、多分「超高速コース」という意味なんだと思いますが……。

かくして幻のサーキットと化した

しかし、その後は意外な運命に翻弄されます。

  • おもにストックカーレースを中心に開催された。しかし、オイルショックによるガソリン代の高騰、遠隔地なことから参加者の確保が難しく、また冬にはレース開催が不能で、海沿いであったことから砂がコースに入り、又水没したこともあり
(Wikipedia 日本語版「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」より引用)
「冬にはレース開催が不能」はさておき(冬場は基本的にシーズンオフなので問題ない)、「砂がコースに入り」「水没したこともあり」というのはさすがにちょーっと……。上の写真からもわかると思うのですが、メインストレートは本当の海岸線を突っ切っていたそうで、間に観客席も何も無かったのだそうです。なるほど、これだと砂がコースに入ってしまっても不思議はありませんね……。

賑わうことなく1973年わずか10レースほどで幕を閉じた。
(Wikipedia 日本語版「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」より引用)
ぐっはー。これはちょっと寂しすぎますねー……。国際格式のサーキットで、経営がうまくいかずに破綻したケースは「オートポリス」だったり「TIサーキット英田」(現・岡山国際サーキット)だったり、それなりに存在するわけですが、開業後一年で廃業ってのはさすがに……。

サーキットは死してサルを残した

ちなみに、閉鎖後もこんな「事件」があったそうです。

  • サーキット閉鎖後も敷地内は動物園として利用されていたが、動物園が閉鎖後、野生化したタイワンザルが近隣の植物を襲うので問題になったことがあった。
(Wikipedia 日本語版「むつ湾インターナショナル・スピードウェイ」より引用)
相当りっぱな施設だったであろうに、わずか一年で姿を消してしまったあたり、「幻のサーキット」と呼ぶに相応しいと思うのですが、いかがでしょうか?

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2010年4月17日土曜日

良心的選別拒否?

さてみなさん!

今朝の新聞で見かけたのですが(あ、これだとまるで浜村淳さんみたいですが、違いますからね!)、えーと、「もっとトリアージを活用して云々」という記事だったような。

「トリアージ」って何? という方のためにちょいと引用します。

トリアージ(Triage)は、人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること。語源はフランス語の「triage(選別)」から来ている。
(Wikipedia 日本語版「トリアージ」より引用)

人の手には重すぎる冷徹な選別行為

この文章で見る限りは特異性の感じられない行為に過ぎませんが、こと現実に当てはめてみると、「トリアージ」という行為は大変残酷な側面を持ちます。平たい表現をすると、多数の傷病者が出ている激甚災害に相当する状況下において、

 (1) 現状でも助かるか助からないかの境界線上にいる重度傷病者に治療を施す
 (2) このまま放置すれば生死に関わるが、今治療を施せば確実に救命できる傷病者に治療を施す

という二者択一を迫られた際には (2) を選ぶ、という考え方です。犠牲者を最小にとどめるためには、この考え方が最適解だとされます。しかしながら、逆に言えば、(1) のケースにおいて「重度傷病者を見捨てる」ということになります。これは医療従事者に尋常ではないストレスを与えるとされます。

例外中の例外

日本におけるトリアージ(選別)の嚆矢となったのは、2005 年の JR福知山線脱線事故だとされます。当然のことながら多くの反省点もあったようですが、それなりに成果を上げたと考えられているようです。

もっとも、トリアージは

これは「全ての患者を救う」という医療の原則から見れば例外中の例外
(Wikipedia 日本語版「トリアージ」より引用)
であり、おそらくは日本人の国民性にはなじまない考え方だと思われます。そのため、比較的近年になるまでは取り上げられることの無かった概念だと考えられるのですが、世界的に見るとその歴史はかなり長いものです。

残念ながら、英語版の記事からの引用になってしまうのですが、

History and origin
Triage originated and was first formalized in World War I by French doctors treating the battlefield wounded at the aid stations behind the front. Much is owed to the work of Dominique Jean Larrey during the Napoleonic Wars. Historically, a broad range of attempts occurred to triage patients, and differing approaches and patient tagging systems used in a variety of different countries. Triage has existed for a very long time, albeit without a particular appellation applied to the practice.
(Quoted from Wikipedia, "Triage" )

ということで、「少なくとも第一次世界大戦においてフランスの医師によって実践されていた」「類似の取り組みは過去からさまざまな国において行われていた」とされます。また、こういった経緯からも、「トリアージ」という概念は最前線の戦場にて醸成されてきた、ということが言えるかと思います。

良心的選別拒否?

おそらくはベトナム戦争の頃だったと思うのですが、アメリカの野戦病院でも戦力の早期回復を旨として、軽傷者の治療を優先していたのだそうです。この考え方が「非人道的である」として、良心的兵役拒否を申告したケースがあったのだとか。

気持ちはとっても良くわかるのですが、もはや「トリアージ」は民間レベルの概念になってきました。「小義を捨て大義に生きる」なんて言ってしまえば格好もつくのですが、いざ、「トリアージ」が必要な状況に追いやられた際に気丈に振る舞えるかと言われたら、自信は持てないですね……。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である Steve Mann 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
 Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU Free Documentation License, Version 1.2 or any later version published by the Free Software Foundation; with no Invariant Sections, no Front-Cover Texts, and no Back-Cover Texts. A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".

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2010年4月12日月曜日

山田秀三さんの「占冠」=「鵡川の本流」説

もの凄い本「北海道の地名」

趣味はツンドラ……じゃなくて「積ん読」、というのも随分と痛い趣味なのですが、昨晩、久々に山田秀三先生の「北海道の地名」を手に取り、一気に 100 ページほど読み進めました。ちなみにこの本、地名辞典形式なのですが、本文が 500 ページにして索引が 89 ページという、ある意味もの凄い本です。
内容自体はもの凄く興味を惹かれるものなんですが、何しろ 600 ページ近いハードカバーなんで……少々重たいんですね(←)。横になって読み続けるには腕が痛くて……(←)。しかし、昨晩は珍しくというか、半ば意地になりながら読み進めたのでした。あと 40 ページで本文は完読、というところになります。

山田秀三さんについて

ま、「私の読書録」になってしまってもアレですので、軽く山田秀三先生について。

山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年 - 1992年7月28日)はアイヌ語地名研究家である。北海道曹達株式会社の経営者でもあった。東北地方・北海道他、多数の地名を現地実証重視で研究した。
(Wikipedia 日本語版「山田秀三」より引用)
山田秀三さんは「先生」との尊称を奉るに相応しい業績を残された方だ、と思うのですが、実はプロの学者さんではなく、内地(東京)出身の一実業家だったと言うのですから畏れ入ります。

人物
戦前はエリート官僚として東條英機首相とも交友し、戦後はアイヌ語地名研究家として金田一京助知里真志保久保寺逸彦と交友関係を持ち、知里真志保に「私の(アイヌ語研究の)弟子であり(現地調査の)師匠である」と言わしめた。
(Wikipedia 日本語版「山田秀三」より引用)
というわけで、あの異才・知里真志保をして「わが弟子であり師匠である」と言わしめた人物でした。山田のほうが十歳年上で、知里真志保からすると大学(東京帝国大学)の先輩に当たりますが、それがむしろ良いほうに影響したか、山田との交友は終生変わることは無かったようです。

「北海道の地名」には、「知里博士によると──」という言い回しが散見されるかと思いきや、「知里さんは──」という親しげな表現も見られます。知里真志保は 1961 年に 52 歳の若さでこの世を去りましたが、ちょうど山田は還暦を迎えた頃で、「実業家」の看板を下ろしてさぁこれから、と思っていたでしょうから、さぞかし無念だったことと思います。

「占冠」=「鵡川の本流」

山田秀三の地名解は、後発ということもあり、また、知里真志保という天才に触発されながらも先人の成果をきちんと評価していることもあり、大変優れたもののように思います。たとえば「占冠」については、

占冠 しむかっぷ
 鵡川源流一帯の村名。勇払郡の中なのであるが,山一歩越えた富良野の金山が近いので富良野村役場の所管であった。その後独立した占冠村であるが,今でも上川支庁管内である。占冠の意味については,従来「シユムカプで,川岸にやちだもの多いのを指す」,「シモカプで,甚だ静かで平和な上流の場所」等の解が書かれたが,アイヌ語地名の形としてはどうも考えられない。地名の通常の形であれば,双珠別川を分かった処から上の本流がシ・ムカ(sih-mukap 本流の・鵡川→鵡川源流)である。その音に占冠と当て字をしたのではなかろうか。なお今の占冠市街は支流パンケシュルの川口の処である。昔だったらその支流名で呼ばれた土地であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.373-374 より引用)※ 強調は引用者に依る

と、実に鋭く「従来の解」への批判を行っていました(「従来の解」のどちらかは永田方正の「北海道蝦夷語地名解」ではないかとも思うのですが、確認できず)。

ちなみに、この「占冠」の解釈ですが、2008/10/4 の記事で触れたものです。当時は山田秀三の著作には目を通していなかったのですが、今から思えば、「『鵡川の本流』説」が山田秀三の解釈だったわけで……。Wikipedia の記述は、未だに「静かで平和な川の上流」オンリーなので、いつか加筆してやろうと目論んでいます(←

※ 文中、一部敬称略

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2010年4月11日日曜日

柳生博……といっても柳生博覧会ではありません(←(第 10 回)

懐かしい雰囲気の駅が続きます

「月ヶ瀬口」駅の次は、南山城村の役場にほど近い「大河原」(おおかわら)駅です。ただ、何故か(勾配の関係かな?)集落の中心部に駅を作らず、少し離れたところに作ったようなので、崖と川に挟まれた駅となっています。
(Wikipedia Commons より借用。この作品の作者である「計記録」氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
 フリーソフトウェア財団が発行した GNU Free Documentation License に示されるバージョン1.2またはそれ以降のライセンス)

「元弘の変」の舞台

やがて木津川を渡り、かつて後醍醐天皇が籠城したことで知られるガンダーラ……じゃなくて笠置山の麓、「笠置」駅に到着です。
停車位置の都合で、微妙なアングルですが……。

ついでにもう一枚。
柳生流」や「柳生博」で有名な「柳生の里」も、笠置から一山越えたところにあります。「柳生」は奈良市ですが、最寄り駅はこの「笠置」になります。駅からはおおよそ 3km くらいでしょうか。

眼前に広がる驚きの光景

そんな、歴史のロマン漂う(← 言い過ぎ)笠置駅を後にすると、次は終点「加茂」駅です。そして、ここで車窓に驚きの光景が……。
そう、マンションがあるのですね。おそらく分譲だと思うのですが、それにしても結構な大きさです。

JR 関西本線のディーゼルカーは、もともとはもう一駅先の「木津」まで走っていました。ところが、昭和から平成にかけてのことだったと記憶していますが(調べろよ)、木津から加茂までの一駅間 *だけ* 電化されたのですね。松明からガス灯に、長屋から文化住宅に、てな感じで(喩えがおかしい)。その結果、大阪の天王寺や難波・梅田に直通電車が走ることになり、「格安でマイホームを!」という層が飛びついた、といったところでしょうか。

かつてレーニンは言いました(←

たった一駅手前では「柳生博」だの「荻生徂徠」だの(違う)言っていたのが、いきなり分譲マンションですからねぇ。やはり「電化」は偉大な効果があるようです。

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2010年4月10日土曜日

上野から神戸までを結ぶ鉄道(広小路あり)(第 9 回)

上野から神戸まで

伊賀上野から伊賀神戸までを結ぶ「伊賀鉄道」。これ、「伊賀」の文字を抜いたらびみょうに楽しいことになりそうです。「上野から神戸までを結ぶ『鉄道』」となるわけでして、なんだかとっても壮大な話になってしまいます。しかも、途中に「広小路」駅まであります。これはさすがに偶然だと思うんですが……。あ、近所に松尾芭蕉の生家があるそうです。
さて、そんな「伊賀鉄道」は、ローカル線ながらも電化されています(架線の柱が見えますよね)。一方、我らが JR 関西本線は「電化って何?」状態で、散切り頭をたたいてみれば文明開化の音がするってな次元です(それは言い過ぎ)。

一種の「近代化遺産」?

次の「島ヶ原」駅もこのような感じ。
なんだかパターン化しつつあるようにも思えますが、これも明治から大正・昭和初期にかけての駅の風情がそのまま残されています。

そして京都府に入ります

三重県伊賀市と京都府南山城村の府県境を越えると「月ヶ瀬口駅」です。

京都府と三重県は隣り合わせになっているところがあるのですね。逆に、滋賀県と奈良県は隣り合わせではありません。

次の「月ヶ瀬口」駅は、カーブした築堤上にあるため、まるで高架のような雰囲気の駅です。
(Wikipedia Commons より借用。この作品の作者である「計記録」氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
 フリーソフトウェア財団が発行した GNU Free Documentation License に示されるバージョン1.2またはそれ以降のライセンス)

ここは京都府……とは言っても、もっとも近い県庁所在地は「奈良市」ですし、京都と大阪なら、どっちに行くにも距離は大差ありません。なにしろ、明治から大正にかけては「関西鉄道」が「官鉄」との死闘を繰り広げた路線ですから、それだけのポテンシャルはある筈なんですね。

「まちづくり」とは何か

現在は、1 時間に 1 本ディーゼルカーが走るだけのローカル線なのでどうしようも無いのですが、電化されて大阪まで直通の快速電車が走ったなら、約 1 時間で天王寺あたりまでは辿り着けそうなところです。それを見越して……かどうかはわかりませんが、こんな(失礼)ローカル線の駅の割には、ニュータウンが形成されていたりもします。
Google Earth で見てみたところ……、半分近く空き地のようにも見えます。自然環境は悪くないのでしょうけど、致命的な問題として、近所にスーパーだのショッピングセンターだのが皆無のように見えるんですね。これだとさすがに「まちづくり」は厳しいでしょうね。

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2010年4月9日金曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルニューオータニ博多」編(おしまい)

さて、最後はバス・トイレです。
目を見張るほど広いわけではありませんが、まぁ、十分な広さでしょうか。築年はそこそこ古そうに思えますが、部屋の内部は綺麗にリニューアルされています。

例えば、こんなところには歴史が感じられるわけで……。
なんと、「ナショナル」のロゴがまだ生き残っていました。「松下電器」の名前自体が過去帳入りしてしまった今となっては……何とも懐かしいですねー。
シャンプーやボディソープなどはボトルタイプのもの。
シャワーキャップなどのアメニティも揃っています。
バスタブは、十分足を伸ばせるサイズのものです。
サーモスタット型の混合水栓です。やっぱこれじゃないと……。

Rating

Rating……の前に。えーと、チェックインした日の晩に、一本 400 円の(← しつこい)コーラを飲みました。ただ、同じ部屋に二泊したので、チェックアウトの際に伝票は持って行かなかったのですね(連泊時は係の人がミニバーの使用状況をチェックしてくれるため)。

ところが、チェックアウト時に請求された金額には、件のコーラ代は含まれていませんでした。内心「しめしめ……」などと思いながらほくそ笑む人もいらっしゃるかと思いますが、わたくし根が素直なもので……(←←←)、つい「初日にコーラを飲んだんですが?」と申告してしまいました。

すると、フロントのお兄さんは何の動揺も見せず、笑顔でひとこと「今回は結構でございます」と。このホテルは全体にしっとりした空気良い意味で)が漂っていたわけですが、こんな所にもしっとりした雰囲気が見て取れます。単に伝票を打ち直すのが面倒だったのかも知れませんが……(←

あ、Rating ですね。ホテルで朝食を取らなかったので、その辺での加点が期待できない分でハンデがあるのですが、★★★★・(四つ星)で……! もしかしたら、レストランを使っていたら四つ星半だったかも知れませんが……。

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2010年4月8日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルニューオータニ博多」編(のつづき)

昨年の 9 月に「ホテルニューオータニ博多」に泊まったときの話を続けます。

ん、これって「話」なんだったっけ?

そうだ、コーラ、飲もう

えーと、昨年の 9 月ですから、まだまだ残暑厳しき折と言ったところでした。部屋に着いてまず思ったのが「コーラ飲みたい」という……。信号の斜め向かいまで歩けばコンビニもあるんですが、時間も結構遅かったですし、「コンビニで買ったコーラを持ち込む」ということに何となく拒否感をおぼえていたこともあり……。
「ニューオータニ」クラスになると、なんて言い方はとても嫌みったらしいと思うのですが、ええ、今でもきちんとミニバーが用意されています。

冷蔵庫
ミニバー
小型の冷蔵庫の中に複数の飲料(ミネラルウォーター・ソフトドリンク・アルコール)やおつまみが配備されているもので、商品を消費した場合は備え付けの伝票に記帳するなどしてチェックアウトまでに精算する。冷蔵庫から飲料瓶を取った時点で「購入」として機械的に課金される旧式の冷蔵庫が設置されてあるホテルも存在する(後述)。ミニバー商品の価格はホテルのサービス料を含んだ金額とされ、市価の倍以上の価格である場合が多い
(Wikipedia 日本語版「ホテル」より引用)※ 文中の強調は引用者による

さてさて。「市価の倍以上の価格である場合が多い」ミニバーにて、250 ml 缶のコーラ(ソフトドリンク)はおいくらでしょうか? 市価だと普通、120 円を上回ることは無い筈ですが……。
税込み 400 円でした。あははははっ……(笑)

でも、「ま、いっか」とばかりにコーラに口をつけたのでした。こちらは汐留のコンラッドで一杯 \1,350- のホットコーヒーをいただいた経験もあります。これしきで驚いていてはいけません(←

デスクとかクローゼットとか

その、一本 400 円のコーラが入っていた冷蔵庫は、液晶テレビの下にあります。テレビ台とデスクが別々になっているのは嬉しいですね。
ストロボは使わない主義なんで、どうしても光量が不足すると画質がざらついてしまうのですが……(逆に、この程度で済むところが素晴らしいと思ってますけどね)。入り口近くのクローゼットです。

部屋の空調は摂氏だけ

あれ、なんでこんな写真を撮ったんだろ……。部屋の空調スイッチ、ですね。まだまだ残暑が厳しい 9 月だけあって、エアコンは 20 度に設定してありました。実際の室温は 22 度くらいですね。ちょうどいい温度でしょうか。

あ、もしかしたら、摂氏 Only なのをアピールしたかったのかも知れません。アメリカでは未だに華氏のほうがメジャーなようで、アメリカ人宿泊客向けに摂氏・華氏切り替えスイッチのあるエアコンも多いですよね。

というわけでぇ

つづくっ!

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