2011年1月31日月曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (45) 「人生ヒツジでジンギスカン♪」

「三航北国日誌」第 45 回です。わずか 3 日ちょいの話題で 45 回ですからねぇ。いかに「無期限引き延ばし大作戦」が順調に(←)進んでいるかを物語りますね(←

いわゆる「大シーボルト」です

「義経=チンギス・ハーン説」を世に送り出したのは、意外や意外なことに、かのシーボルトだったそうです。シーボルトはご存じの通り、幕末に来日してあーだこーだしてどーのこーの(←)という人ですね。このように、「義経伝説」がインターコンチネンタルになったのは江戸後期から幕末にかけてですが、その原型になったと思われる「義経北行説」は、実は室町時代にはある程度ベースが出来ていたのだそうです。

♪人生ヒツジでジーンギースーカァーン♪

「義経は死なせるには惜しい」→「義経は衣川で死ななかったに違いない」→「逃げおおせたに違いない」→「逃げたのなら、頼朝の影響力が及ばない蝦夷地に違いない」という論法になるのはおおよそ想像がつくわけで、そこから「そうなのであれば、蝦夷地には義経主従の伝承があるに違いない」という後付けの論理に至り、「うーん、それだったら『オキクルミあたりが義経っぽくね?」という付会になった、と考えられるみたいです。

  • 「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」『続本朝通鑑』「俗伝」林鵞峰(林春斎)編纂。寛文10年(1670年)
  • 「世伝義経不死於衣河館、遁至蝦夷」「然則義経偽死而遁去乎、至今夷人祟奉義経、祀而神之、蓋或有其故也」『大日本史』徳川光圀編纂。
  • 「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ」「今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝へシトモ云フ」『読史余論』新井白石。

林鵞峰(春斎)の『続本朝通鑑』「俗伝」の記載(1670年)により、義経北行伝説は急速に広がっていった。
(Wikipedia 日本語版「義経=ジンギスカン説」より引用)
こうやって見てみると、新井白石や水戸光圀といった「有名どころ」も、「義経北行説」の立証に随分と熱心だったことが伺えます。もっとも、江戸時代に「義経北行説」の立証が盛んに試みられたのは、

このような源義経北行伝説の萌芽も、やはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、1669年から翌年にかけておこったシャクシャインの戦いなど北方の係争と無縁でない。
(Wikipedia 日本語版「義経=ジンギスカン説」より引用)
といった時代背景も一役、いや二役か三役くらいは買っていたと見るべきかと思います。

樹木を大切にしましょう

さて、そんな(どんなだ)義経神社に戻りましょう。
「平取油田記念碑」をまわれ右して、再びメインの参道?のほうに戻りましょう。周りを見てみると、なにやら立派な木が見えます。
義経神社の栗記念保護樹木」とあります。
「義経神社の御神木として住民に親しまれています」とありますね。樹木を大切にしましょう。

鳥獣よ安らかに

こちらは……
鳥獣鎮之碑」とあります。見ての通り、そのまんまですね。インパクトという意味では、高野山で見かけた
こちらのほうが強烈ですが……(←

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2011年1月30日日曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (44) 「掘れば何かが出てくるディープな町・平取」

「三航北国日誌」第 44 回です。本日は、ウエスタン・ラリアットとアックスボンバーの違いについてお届けします(違う)。

義経北行説・考

昨日の続きです。斯くして「義経=チンギス・ハーン」説は「砂上の楼閣」だと断じられたわけですが、次は「義経大陸行説」の元となった「義経北行説」について考えてみます。

まぁ、これも「義経は衣川で自害した」という史実が厳として存在するわけで、それを否定できるだけの材料は存在しないと考えられます。端的に言えば、これも「史実では無い」とするのが至極妥当な話です。

判官贔屓の真実

ただ、ここで考えたいのは史実の是非ではなく、なぜこのような伝説が語り継がれてきたか、という点です。まず考えられるのが「判官贔屓」という、もしかしたら日本固有かも知れない心情の存在です。「ホーガン贔屓」というのは、当時の新日本プロレスで、スタン・ハンセンやアントニオ猪k(ry

……失礼しました。話を元に戻しましょう。イチバァーン!(←

改めまして、判官贔屓の真実(←

判官贔屓」について、このままテキトーなことを書いているとアックスボンバーを喰らいそうなので、久しぶりに新明解さんに聞いてみましょう。

ほう がん[1](ハウ グワン)【《判官】〔古制で〕四等官の第三。じょう。〔狭義では、検非違使(ケビイシ)の尉(ジョウ)を指す〕
(新明解国語辞典 第六版「ほう がん」三省堂 p.1359 より引用)
ふむふむ。そういえば「平安京エイリアン」という TV ゲームがありましたね(いつの話だ)。

─びいき[5]【─〈贔屓〉】「はんがんびいき」の老人語。
(新明解国語辞典 第六版「ほう がん」三省堂 p.1359 より引用)
老人語」とは失敬な!(←) しかし、こういったことをさらっと言ってのけるあたり、さすがは新明解さんです。侮れません。ちなみに同じページの下の方には「豊胸術」という項目までありました。ますますもって侮れませんね。

リダイレクト先

ということで、「はん がん びいき」の項目を見てみましょうか。

はん がん[1](─グワン)【判官】①ほうがん。②〔古〕裁判官。─びいき[5]【─〈贔屓〉】〔兄頼朝(ヨリトモ)に嫉(シツ)視されて滅びた九郎判官源義経(ミナモトノヨシツネ)に対する同情の意〕第三者が、弱者の立場に在るものに同情する気持ち。ほうがんびいき。
(新明解国語辞典 第六版「はん がん」三省堂 p.1224 より引用)
意外と当たり前のことしか書いていません(←

死んだはずだよ

日本は古来から、国を二分するような戦乱が何度もあって、そのたびに数多くの「廃車」……じゃなくて「敗者」が誕生してきました。もちろん「負け方」にも色々あって、著しく品行に欠けた「滅ぶべき敗者」もあれば、反対に「惜しまれる敗者」も少なくありません。

後者のケースで、その死が些かでも不明瞭であった場合、その人となりをオシム語録……いや、惜しんで「生存伝説」がいつしか作られる、という流れがあるように感じます。「死んだはずの人が生きていた」という話としては、義経主従の他にも「安徳天皇」「真田幸村」「豊臣秀頼」「お富さん」あたりの名前が頭に浮かびます。

掘れば何かが出てくるディープな町

というわけで、義経神社の話題に行ってみましょう。
石段を登って、まっすぐ進むと本殿(だと思う)が見えるのですが、ここを右に曲がると……
なんと! 「平取油田記念碑」なるものがありました。確かに平取というところはいろんなネタが埋まってそうな印象がありましたが、まさか原油まで埋まっていたとは想定外でした。ふむふむ、どうやら昭和 30 年代前半の僅かな期間に採掘されていたそうですね……。

読めない(←

隣にはこんな石碑も。
拡大しておきますと、
昭和九年に立てられた石碑らしく、子弟の教育に貢献した人を顕彰する碑のようなのですが、浅学なもので上の三文字が読めません(……。)。一番左が「碑」で、一番右は「頌」のように見えるのですが、真ん中の字がさっぱりでして……。どなたかご教示をお願いします。

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2011年1月29日土曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (43) 「チンギス・ハーンと義経は別人28号だった」

「三航北国日誌」第 43 回です。本日も平取町の「義経神社」についての話題を続けます。Genghis Khan の「めざせモスクワ」を聞きながら……(←

チンギス・ハーンと義経は別人28号だった

史実では、奥州衣川で自害したとされている源義経は、実は蝦夷地(北海道)に逃げ延び、やがて大陸に渡って「チンギス・ハーン」となり、その後は滝川市で焼き肉店を開いてウッハウハ、というのが「源義経=チンギス・ハーン説」の骨子だったりします(一部潤色あり)。確かに義経と成吉思汗(チンギス・ハーン)の生年は近いこともあり、時系列で追ってもそれほどの矛盾は無いようですが、

現在では後年の研究の結果、チンギス・ハーンのおおよその生年も父親の名前もはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・ハーン説は科学的には完全に否定されている。
(Wikipedia 日本語版「義経=ジンギスカン説」より引用)
ということなのだそうです。そりゃま、そーですよねー。ついでに

また、モンゴル本土にも類似した伝説はない。
(Wikipedia 日本語版「義経=ジンギスカン説」より引用)
なのだそうで、「源義経=チンギス・ハーン説」は完膚無きまでに否定されたと見て良いかと思います。

というわけで、ここは「義経は大陸には渡らなかった」と考えるべきなのですが、「義経は北海道にも渡らなかった」という証明は、まだ成されていません。まぁ、そもそもが「悪魔の証明」なので、どだい無理なんですけどね。(ん? もしかして「どだい無理」って大阪弁ですか?)

「菖蒲」は何と読む?

さて、「義経神社」を見て行きましょう。鳥居の右側には……
花菖蒲が植えられています。この花菖蒲は
明治神宮から分けてもらったものなのだそうです。

参道をゆく

では、参道を進みましょう。
生々しい切り株もあったりします。
参道の階段は、とても立派な石段です。
ずーっと階段が続くわけでもなく、途中で平坦な部分もあるので、呼吸器が弱い人間にとってはありがたいですね。
石段の記念碑? もあります。地元の工事業者の方が施工されたようですね、って当たり前か。

到着!

石段を登り切ると、本殿(かな?)が見えてきます。
とても綺麗に整備されていますね。あまり北海道らしさを感じない風景です(笑)。

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2011年1月28日金曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (42) 「義経伝説と『めざせモスクワ』」

「三航北国日誌」第 42 回です。あっちが船橋であっちが浦賀さ♪(←

民宿にて

その日の朝食を頂いていた時のこと。「義経神社に行こうと思っているんです」と口にしたところ、「じゃあ、麓に車を停めて、石段を登っていくのがいいわよ。途中まで車で行くこともできるけど」と教えていただきました。そういえば「いい運動になるから」という話もあったような……、はて。

サイレンススズカ

というわけで、二風谷ダムから踵を返して、義経神社に向かっていたところ……
お馬さんの姿が。なにやら石碑もあります。
サイレンススズカ号墓碑」への案内のようです。競馬と言えば「タマモクロス」「ミスターシービー」くらいしか判らないのですが(いつの時代だ)、ふむふむ……華々しい活躍と早すぎる不慮の死ですか。まるで源義経のようですね。

ここは植木等さんの出番かと

なにやら別の看板もあります。
寄ってみましょう……、なになに?
山菜採り等で馬が驚ろき事故となった場合は責任をとっていただきます」(ママ)とありますね……! わたくし、とても責任は取れませんので、ここはすごすごと退去しましたです、ハイ。

義経神社

というわけで(どんなわけだ)、「義經神社」にやってきました。
参道の鳥居を正面から見てみます。
この鳥居は鋳鉄製のものでしょうか。着雪の影響を最小限にしようとする狙いがあったりするのでしょうか。比較的温暖に見える平取も、それなりに雪は降るでしょうし……。

めざせモスクワ

「義経神社」の祭神は、そのまんま「源義経」ですが、岩手の「衣川」で自害した筈の義経が、なぜ平取の地で祀られているのか……といったことが気になります。
鳥居の隣に「由 緒」として、なにやら説明があるようです。拡大してみましょうか。
「創祀年不詳なるも寛政十年近藤重蔵等により此の地の伝説を辿り北辺の鎮護として勧請さる。」……で合ってますか?(誰に聞いている

衣川で自害した筈の義経が蝦夷地に逃れ、やがて大陸に渡ってチンギス・ハーンとなり、その後「めざせモスクワ」などのヒット曲を連発した……という伝説は有名ですが(なんか違う)、この「義経神社」も「義経伝説」に触発されて建造されたものであり、その中でも最たるもの……かも知れません。

道内における「弁慶」優越の理由

「義経」と言えば「弁慶」ですが、道内にはむしろ「弁慶」という地名の方が多いようです。これは武蔵坊弁慶の人気が高いわけでは無くて、単にアイヌ語の pen-ke に「弁慶」という字を当てただけ……ではないかと。他にも「辺渓」という字を当てたケースもありますね。あ、意味は「川上の・所」です(対義語は pan-ke で「川下の・所」)。

では、「義経伝説」について考えながら、石段を登って行きましょう!

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2011年1月27日木曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (41) 「Wild Heaven」

「三航北国日誌」第 41 回です。本日も、誰も話題にしないようなディープにズレた話題をお届けします。

二風谷 → 永田町 → 二風谷

えーっと、そんなこんなで(?)「二風谷ダム」に来ましたよ、という所で気がつけば赤坂見附にワープしてしまっていたのでした。なので、話を元に戻します。

プリンシプルは無いけれど

二風谷ダムを、西側から眺めた写真です。
そもそも、何の目的で作られたのかも判然としないこのダムですが、実は水力発電も行われているのだそうです。
二風谷ダムの東側には国道が通っていて、「萱野茂二風谷アイヌ資料館」などもあって開けた印象がありますが、地図を見る限りでは、ダム湖の西側には自動車が通行できる道路も無いように見えます。
ただ、ダムの近くに設置されていた「二風谷ダム案内図」を見る限りでは、ダム湖の西側も、少し上流までは、自動車が通行可能な道路が存在するようです。

リアル「熊出没注意」

というわけで、先に進んでみたところ……
いきなり、ゲートで道路が閉鎖されていました。右側になにやら看板があるのですが、
ありゃりゃ。リアル「熊出没注意」ってヤツですねぇ。

仕方が無いので、車をゲートの前に停めて写真撮影などをしていたところ、いきなり後ろの方から車がやってきました。どうやら私の車が道を塞いでいたようです。あわてて車をバックさせて、道をあけたのは言うまでもありません。

一部始終をご覧頂きます

ダム湖のパトロールカーだと思うのですが、
ゲートを開けて、
車でゲートをくぐってから、しっかりと施錠して、走り去りました……。
まぁ、こんなことが書いてあるくらいですから、やはり近づかないのが無難なようです。

Just Wild Heaven...

ちなみに、パトロールカーに進路を譲るために車をバックさせたところ、
これまた、なにやら看板がありました。
こちらは「ヘビ(マムシ)」が出没するそうです。"Wild Heaven" というヤツですね。宇都宮隆さんもびっくりです。

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2011年1月26日水曜日

Bojan のホテル探訪~「グランドプリンスホテル赤坂」編(おしまい)

その日の(いつだ)夜の話です。
3 階のカフェレストランで夕食を頂いていたのですが、後ろの方からやたらと「俺様はエライんだぞ」という態度が出まくりのおじさんが、なにやら語っていました。耳を塞ぐわけにも行かず、仕方なしに話の内容を耳に入れていたのですが……、話の主は、どうやら国鉄(あるいは JR)の「無料パス」を持っているようでした。……そう、国会議員らしいのですね。

そうか、ここは赤坂見附駅のすぐ近く、ということは永田町駅のすぐ近くです。だから別に国会議員が屯していても不思議は無いのですが、何だか「へぇー」と、妙な感慨に耽ってしまいました。

利用者の例
政治
自由民主党の派閥「清和政策研究会」の事務局が旧館1階に置かれており、毎年春頃に政治資金パーティーを開催している。創始者で第8代自由民主党総裁の福田赳夫は西武グループ総帥・堤義明の媒酌人を務め、福田の長男・福田康夫は麻布学園や早稲田大学で堤の2年後輩に当たる。
(Wikipedia 日本語版「グランドプリンスホテル赤坂」より引用)
ふむふむ、「清和政策研究会」なんてものがあるんですねぇ。

グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)の旧館(旧李王家邸)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に政治資金パーティーを開催することが慣例となっているが、
(Wikipedia 日本語版「清和政策研究会」より引用)
ほほう、これまた華麗な話ですね。しかしながら、

同ホテルが営業終了するのに伴い他所に退去予定。
(Wikipedia 日本語版「清和政策研究会」より引用)
なんだかちょっぴり切なくなります。

ブルーガーデニアで朝食を

翌朝は、40 階のレストラン「ブルーガーデニア」で朝食バイキングです。
通常は、宿泊パッケージに含まれてでもない限り、自分から朝食バイキングに出向くことはあまり無いのですが、これはやはり「最初で最後」というキーワードに踊らされていると見ました。バイキングそのものは、オムレツだか目玉焼きだかをその場で焼いてくれるのは加点ですが(えらそうに)、内容そのものはごくごく普通のものでした。

もちろん及第点は十分クリアしているのですが(何と偉そうな)、「ここのバイキングは凄い!」と思わせるほどのものは無かったかなぁ、などと……。いや、もちろん景色はご覧の通りの素晴らしさですけどね。

WITH OUR GRATITUDE, But...

チェックアウトを済ませて、ついでに荷物の宅配の手配を済ませて……。ふと周りを見渡してみると、
なにやら書いてありますね。
ふむふむ、1955/10/1 に開業して、2011/3/31 に営業終了(予定)であることが書かれている、55.5 年間の記念碑的モニュメントでしょうか。
ホテルの外観にも、
"WITH OUR GRATITUDE" と銘打った感謝のメッセージですが、さりげなく「2011年3月末日まで変わらぬおもてなしでお迎えいたします。」とアピールしていたりします。まだ営業終了まで 2 ヶ月強ありますので、興味を持たれた方は是非一度ご利用ください。

Rating

ここまで長々と書いてきましたとおり、サービスや雰囲気については申し分ありません(国会議員はちょっと……でしたけど)。Rating は「★★★★☆」(四つ星半)にしてみました。東京のど真ん中にありながら、実は意外とリーズナブルな料金で泊まれるあたりはポイント高いです。今が最後のチャンスですよ!?

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2011年1月25日火曜日

Bojan のホテル探訪~「グランドプリンスホテル赤坂」編(まだ続くよ)

四回目(まだやるのか)の今日は、恒例の水回り編です。

まずは洗面所から

まずは、洗面所を見てみましょう。
小さいながらも、機能的にまとまっています。
各種アメニティグッズは棚の中に。
比較的新しいホテル……例えば、お台場のホテル日航やホテル・グランパシフィックなんかと比べると、全体的にコンパクトで実用的な作りです。まぁ、お台場のホテル群とは場所柄も客層もちょっと違うでしょうから、比較対象としては適切ではないのかも知れませんが。

次はバスルーム

続いてバスルームですが……
まさかのバス・トイレ一体型です。一室あたりの専有面積を考えると仕方が無いのですが、密かにセパレートを期待していたもので。もちろんご覧の通り、バスタブとトイレの間には十分な隙間?が確保されています。足の踏み場もない……なんてことはありません。
バスタブも必要十分なサイズです。日本人なら殆どの人が足を伸ばせると思います。それにしても、ビジネスホテルの中には信じられないサイズのバスタブが設置されているところがありますよね。あれはきっと子供用だと信じたい……。うん、あれは江戸川コナン用なのでしょう、きっと(←

トイレも

トイレも、これまた機能的なつくりです。
内線電話もあるのですが……
40 秒後に交換手が応答します」って……
心臓発作などで「気分が悪くなった」のであれば、この 40 秒は、まるで永遠に待たされるように思えてしまうのでは……。せめて 30 秒程度に(← 五十歩百歩

昭和の遺産、ここにあり

そうそう。電話と言えば、部屋の電話機がですね……
電電公社」マークのものでした! なつかしー!

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