2012年7月31日火曜日

道東の旅 2011/春 (98) 「昭和十四年度 北千島鮭鱒漁場マーク圖」

カウントダウンは突然に

えー、根室市にある「北海道立北方四島交流センター」にお邪魔して展示を眺めていたのですが、入場したのが 16:23 頃で、気がつけば 25 分ほど経過してしまっています。そして、この建物の閉館は 17 時……ということで、あと 10 分ほどしかありません(汗)。

択捉島の立体模型

1 階から 2 階に向かうスロープ(だったと思う)を歩いて行くと……
択捉島の立体模型が。なかなか良くできていますね。東半分を拡大しますと……
「千島歯舞諸島居住者連盟根室支部青年部 制作」という文字が見えます。ちょっと字が縦長すぎると思うのですが……。

左のほうで、オホーツク海(奥のほう)に突き出ている半島が見えるかと思いますが、この半島の根元左側が、択捉島でもっとも栄えていた「紗那村」のあったところです。

続いて西半分です。
太平洋側にぽこっと凹んだ湾があるかと思いますが、これが南雲機動部隊が集結した場所として知られる「単冠湾」(ひとかっぷわん)です。

ハードボイルドだど

さぁ、前述の通り時間が無いのですが、まだ見ていない展示があるようです!
……ここです! 「北方資料館」とあります。中はハードボイルドな展示で溢れているのでしょうか!?(←
中に入ってみました。確かにハードボイルドな感じが漂ってきます(どこがだ)。

北千島鮭鱒漁場マーク圖

まずはこちらから。
このサイズだと「何が何やら……」なのですが、えーと、「昭和十四年度 北千島鮭鱒漁場マーク圖」とあります。目一杯拡大したのがこちら。
「なんだろうこの島は」と思ったのですが、これは「幌筵島」と、その北東に見える「占守島」の地図でした。さらに目一杯(あれ?)拡大すると……
うぅーん、図の見方がわからないですね……。定置網の場所とか、それともトロール漁法の場所とか? どなたか見方をご存じの方がいらっしゃいましたら、是非ご教示いただきたく……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月30日月曜日

道東の旅 2011/春 (97) 「『戦前の四島の《くらし》』ふたたび」

「戦前の四島の《くらし》」ふたたび

ここからは、「戦前の四島の《くらし》」らしい展示に戻ります。

Сякотан

まずは色丹島の「斜古丹」から。
「しこたん」島の「しゃこたん」です。ちょっと紛らわしいですね……。パネルの説明文を引用してみましょう。

 色丹島の北東に位置する斜古丹は、役場や無線電信施設を持つ郵便局などがあり、島の中心地でした。
 湾の東側には捕鯨工場があり、捕鯨基地として栄え、その活況ぶりはクジラのアゴの骨で作られた神社の飾り門にも表れています。
斜古丹には、樺太・千島交換条約の締結に伴って 1884 年(明治17)に占守島から移住させられた千島アイヌの人々が住んでいました。そのため、ハリストス正教会の会堂や日本語教育の場としての学校が建てられました。
 昭和 8 年には色丹村と改名しました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
見た感じ、非常に正しい文章なのですが、前提となる情報(知識?)に触れていないので「はい???」となってしまいそうですね。えーっと、このあたりは Zajac Malgorzata さんの「千島アイヌの軌跡」という良書(ちなみに和書です)に詳しいのですが、(1) 千島には「千島アイヌ」と呼ばれる先住民がいた、(2) 北千島はカムチャツカとの結びつきが強く、交易などが盛んだった、(3) 北千島はロシアの支配下にあり、千島アイヌに対してロシア正教の布教を行っていた、という話が前提としてありました。名前もロシア風のものを名乗っていたと言います。

そういった状況下にあって、得撫島から占守島が日本の領土となったため、政府は「利敵の虞がある」千島アイヌを色丹島に集団移住させ、「皇民化教育」を行った……という話だったと思います。

とりあえず、戦前の色丹は、人の住めるところで、それなりに栄えていた、ということは事実として言えそうですね。

Хабомаи

歯舞諸島……あ、今は「歯舞群島」が正式な名前になったんでしたね。この辺はやはりソルジェニーツィンの影響でしょうか(違)。歯舞群島の中から、志発島の「相泊」の紹介です。
パネルから引用してみましょう。

 歯舞群島の中で一番大きな島が志発島です。島の西側にある相泊は、時化でも安全な相泊港を持つ沖合漁業の基地でした。郵便局や志発西前小学校、金比羅神社などがありました。
 また、コンブを原料とするヨードの製造工場が建てられ、戦時中は副産物の塩化カリが火薬の原料とされました。さらに缶詰工場があって、サケ・マスやホタテの加工も行われていました。缶詰工場には、函館などからも働きに来ていました。島には木が少なかったため、この港には根室から薪が運ばれてストーブなどに用いられていました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
さすがに志発島の場所がすぐにわかる人は少ないと思いますので、パネルの地図を拡大したものを載せておきます。
現在は、歯舞・色丹には住民はいないとのことですが、戦前は豊かな水産資源を基幹産業として、それなりに栄えていたことを伺わせます。函館から出稼ぎに来ていた例があったのには驚きですね。

Кунашир

続いては国後島の「古釜布」です。
はい。こちらもパネルから引用です。

 国後島の中央部太平洋側にある古釜布は、島と根室港を結ぶ重要な港町でした。古釜布港は冬でも凍結せず、天候が崩れると多くの船が来泊しました。村には旅館やカフェーがあり、モダンな町並を見ることができました。
 尋常高等小学校は、学芸会や運動会などの催しがあると多くの人々が訪れ、あたかも地域の集会場のようでした。また古釜布と泊の間では、昭和初期に数回にわたって合同で陸上競技大会が行われるほど、村同士の交流も盛んでした。カニ缶詰工場に勤めるのが若い人たちのあこがれで、青森や秋田などから出稼ぎに来た人も含めて、多くの人が働いていました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
流氷がおしよせる海にあっては、不凍港の存在は重要だったでしょうからねぇ。そして国後島は択捉島の影に隠れてあまりその大きさを認識されていませんが、沖縄本島よりも大きかったりします。

「カニ缶詰工場」と聞くと、どことなーく小林多喜二な世界も連想されるのですが、世界的な不景気下にあっては雇用を創出する産業自体が貴重だったのかも、なんて思ったりもします。

なお、古釜布(Южно-Курильск)の人口は、2006 年時点で 6,081 人なのだそうです。

Итуруп

締めは日本最大の「島」、択捉島の「紗那」です。
えー、今回もパネルから引用です(手抜きですいません)。

 択捉島の中央部オホーツク海側にある紗那は、村役場や警察署、測候所などがある島の中心地でした。戦前は漁期になると子どもも漁場にかり出されていましたが、昭和10年ごろ、児童が学業に専念できるよう尋常高等小学校に寄宿舎が設けられました。文政年間(1818~1830)の作といわれる大砲が安置された紗那神社の祭りでは、青年団が大小の灯籠を掲げました。剣道が盛んで、全島の剣道大会も行われました。
 紗那郵便局には無線電信設備が整っていましたが、一方冬の郵便物の配送は荷物を背負ってスキーで運んだり、馬ソリで運ぶしかありませんでした。これらの仕事は、流氷で漁ができない漁師たちの小遣い稼ぎとなっていました。
(北海道立北方四島交流センター内展示パネルより引用)
ふむふむ……。択捉島の地図を見ると、単冠湾(太平洋側に開けている天然の良港)のあたりが中心地かな? と思ったのですが、実際は北隣のオホーツク海沿いが一番栄えているんですね。少し意外な感じもします。Google Map で見てみると、まるで「西舞鶴」と「東舞鶴」のように分かれているようにも見えるのですが……。

「大砲が安置された紗那神社」というのも、いかにも時代背景が感じられますね。当時の日本人は、とにかく神社を作るのが大好きだったようですから(南洋神社とか昭南神社とか)。

あ、択捉島の単冠湾と言えば、真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊が集結した場所としても有名……ですね。大圏航路では択捉からハワイに向かうのが最短距離だったのでしょうか。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (62) 「知来乙・札比内・晩生内」

昨日は難しいものが多かったので、今日はわかりやすいアイヌ語地名を集めてみました。いや、集めてみたつもりだったのですが……。

知来乙(ちらいおつ)

chiray-ot
イトウ魚・群来する
(典拠あり、類型多数)
月形町の西のほうにある地名で、札沼線(学園都市線)の駅もあります(知来乙駅)。これは実にわかりやすいアイヌ語地名なのですが、念のため「角川──」を見てみましょうか。

地名は,アイヌ語のチライ・オッ(イトウ魚・群来するの意)に由来する(地名アイヌ語小辞典)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.887 より引用)
はい。chiray-ot で「イトウ魚・群来する」という意味です。知里さんの「──小辞典」では chiray-ot-nay で「チらヨッナィ」という例を示しているのですが、ここでは「チライオツ」となっているのが少々不思議です。一般的にアイヌ語地名ではリエゾンすることが多いので、chiray-ot であれば「チラヨッ」となりそうな感じがするので……。

ちなみに、石狩川を挟んだ向かい側には「江部乙」という地名もあります。

札比内(さっぴない)

sat-pi-nay
乾いた・小石・小川
(典拠あり、類型あり)
月形刑務所を過ぎて、月形町の東の方にある地名です。同じく札沼線(学園都市線)の駅がありますね(札比内駅)。こちらも「角川──」を見てみましょう。

地名は,アイヌ語のサッ・ピ・ナイ(乾く・石の・川の意)に由来し,渇水期になると水が砂利の中に吸い込まれてしまう川であったことにちなむ(アイヌ語地名の研究1)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.887 より引用)
ふむふむ。ここでは山田秀三さんの著作から引用していますね。せっかくなので別のソースからも。

アイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(かれた細い沢)から出たもので、現在の札比内川を指したものである。
☆このあたりからメロンの産地。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.53 より引用)
同じ解釈のようですね。むしろ補足情報の方が重要かも知れません(笑)。

えーと、「札比内」は sat-pi-nay で「乾いた・小石・小川」と解釈して間違いなさそうです。

晩生内(おそきない)

o-soske-nay?
川尻・剥げている・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
最初っからルビを付記しているのでバレバレなのですが、意外と難読地名なのかな? と思ったりもします。今回は、山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょうか。

 浦臼町内の地名,川名(石狩川支流)。駅あり。この名の意味ははっきりしない。永田地名解は「オ・ショキ・ナイ。川尻の高崖出たる処」と書いたが,ショキは sotki (寝台)とでも読んだのだろうか。たぶんアイヌ古老の説だったのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.48 より引用)
sotki は山田さんの言うとおり「寝台」あるいは「寝床」という意味なので、どこから「高崖」が出てくるのかがちと理解に苦しみますね。続きを見てみると……

北海道駅名の起源は昭和 25 年版から「オ・ショシケ・ナイ(川尻が崩れている谷川)から転訛した」と説をたてた。o-soshke-nai(川尻・剥げている・川)と読んだ巧い考えかたである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.48 より引用)
うーん。私案も考えたのですが、現実の地形と照らし合わせてみると o-soske-nay で「川尻・剥げている・川」のほうが適切なのかも知れませんねぇ。soske の真ん中の s は閉音節なので、閉音節という概念を持たない日本人が略してしまった、と考えれば納得できそうな気もします。

あ、書こうかどうか迷ったのですが、私案は o-so-(usi)-kot-nay で「川尻に・滝・窪んだ・川」というものです。地形図で見たところでは、ちょっと窪んだところにある川のように見えたので……。もっとも、川尻に滝が無いとどうしようも無いのですが。

それにしても、改めて考えてみると、「おそき」に「晩生」という字を当てたのはセンスがあるなぁ、と思います。難読になってしまったけれど……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (61) 「篠津・蕨岱・当別」

約 4 ヶ月ぶりのご無沙汰でございます……(仕事が忙しかったものですいません)。

篠津(しのつ)

sin-not?
大地・顎
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
札幌近郊の方はよーくご存じでしょうが、そうでない方には「それってどこ?」と言われそうな、全国的にはマイナーな地名……ですね。もともとは篠津村という独立した市町村だったのですが、昭和 10 年に江別市に吸収(合併?)されています。今ではお隣の「新篠津村」のほうが有名かもしれませんね。

さて、その「篠津」の由来について、いつもの「角川──」(略しすぎ)を見てみましょう。

地名は,アイヌ語のシンノッ(山崎の意)に由来(北海道蝦夷語地名解)。松浦武四郎「再航蝦夷日誌」に「スノツ,左りの方の枝川也。此処元番屋有しと云り。其跡今顕然たり」,同「廻浦日記」に「シノツ,川巾五六間,遅流にして深し。左りの方に有今の番屋は此処に有しと聞り。如何なる故なるか,変化の者多く出しより今の処え引よし也。川源はシヘツとトフヘツの川の間に有りて少しの山有。是より来るよし也」と見える。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.654 より引用)
うぅーむ。なんだかすっきりしません。斯界の碩学・山田秀三さんの「北海道の地名」にも「篠津」のエントリが無いので、うーどうしたものか。永田方正翁の「山崎」説は sin-not で、直訳すると「大地・顎」(sinsir の音韻変化)となります。これは海または平野部に突き出した山脈の終わり、といった意味ですね(日本語が難しい……)。

ただ、現在の「篠津」は、石狩川によって形成された沖積平野で、どう考えても山脈などは見当たりません。sin-not に相当する山は当別のあたりにしか無いので、もしかしたら sin-not はもともと当別のあたりを指す地名で、「変化の者」が多く出た云々で今の場所まで地名が移動してきた、といった話になるのかも知れませんね。

あ、「廻浦日記」に書いてあるのはそういうことか(←

蕨岱(わらびたい)

なんかもしかしたらアイヌ語地名じゃ無いかもなぁ……と思いながらも調べてみると……。ふむふむ、道内に「蕨岱」という地名は長万部と当別の二ヶ所にあるみたいですね。ちょっと邪道ですが、まずは長万部のほうから。

地名は,アイヌ語のワルンベフル(蕨坂の意)に由来する(北海道蝦夷語地名解)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1650 より引用)
warumpe-hur で「蕨・丘」と言った意味でしょうか。もっとも warumpe などというアイヌ語は、実は確認できていません。山田秀三さんも「北海道の地名」で言及していますが、おそらく「ワルンベ」は日本語からの借用語だったのだと思います(「コンブ」と同じく)。

で、今回の対象である当別町の「蕨岱」の由来ですが……

泥炭地で野火が多く,焼跡に蕨がよく繁茂したのが,地名の由来である。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1650 より引用)
実にあっさりとしたものです。というわけで、これは「非アイヌ語地名」と捉えてしまって良さそうですね。ちなみに「蕨岱」は「角川──」の全 1651 ページの中で、最後から 2 ページ目に掲載されています。最後の最後、ですね。

当別(とうべつ)

to-pet
沼・川
(典拠あり、類型あり)
しばらくサボっていたのがいけないのですが、久々にリハビリかねて書き始めてみたところ、いきなり難題続きでどーしたものかと……。次こそシンプルに行きたいものですね。はい、札沼線(学園都市線)の「石狩当別駅」がある当別町です。

今回は、山田秀三さんの「北海道の地名」から。

 石狩川下流北岸の川名,町名。明治 4 年仙台の支藩岩出山藩主伊達邦直が家臣を率いて移住開拓した処である。永田地名解は「トー・ペッ。沼・川。旧名チワㇱペト。早川」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.38 より引用)
いやー、やっぱり地名解はこれくらいシンプルで無いといけませんよね。というわけで続きを……

 行って見たが然るべき沼が見えない。当別市街から 17 キロばかり上の東側に沼の沢があり,その上に小さな古沼があっただけである。処がふと松浦図を開いて見たら,当別川下流の西側(今の石狩太美駅の近くらしい)に,昔は沼が並んでいたのだった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.38 より引用)
うー、さすがは山田さん。この辺の検証はぬかりないですね。というわけで「当別」は to-pet で「沼・川」と解釈してしまって、これはまず間違いないでしょう!

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月27日金曜日

道東の旅 2011/春 (96) 「四島返還運動の父」

ヤルタ会談

「戦前の四島の《くらし》」という展示を見ています。が……
ここからしばらくは、戦中、あるいは戦後の話がメインとなります。「1945 年 8 月 15 日を過ぎて」というパネルです。真ん中の円卓は、ご存じ「ヤルタ会談」の時の写真です。左の方に岡田眞澄さんの姿も見えます(違)。

四島返還運動の父

続いては「領土返還に向けて」というタイトルがつけられています。
左上の写真は、サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂ですね。その右に見慣れない顔が見えるのですが……
はい、この方ですが、昭和 20 年当時の根室町長だった「安藤石典」(あんどういしすけ)さんです。この安藤さんは、昭和 20 年 12 月 1 日、「北海道附属島嶼復帰懇請陳情書」を手に連合国軍総司令官だったダグラス・マッカーサーに直訴していて、これが北方四島返還運動の嚆矢となったと言われています。

ブルガーニンの視線の先には

右下には年譜がありますが、その一番上に来ているのが昭和 20 年 12 月 1 日です。
ちなみに、左のおじさんは日ソ共同宣言に署名するニコライ・ブルガーニンです。ブルガーニンの視線の先には、実は鳩山一郎の姿があります。

しわしわ~

そして「歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島全図」が展示されているのですが……
うん、アイロンとか当てた方がいいかも知れない。:)

千島歯舞返還懇請國民大會

昔の新聞の切り抜きも展示されています。
「千島返還懇請國民大會開く」とありますね。旧字体が踊りますが、文中には「一九五一年九月のサンフランシスコ平和会議」という表現もあるので、1952 年以降の話のようですね。「クリル族元酋長も参加」という文字も目を惹きますが、これはいわゆる「千島アイヌ」の人のこと……でしょうか(本文中には実名も記されているのですが、見たところ一般的な和名でした)。

左の方には「日ソ平和条約急げ」そして「領土問題はそのあとで」という記事もありますね。これはいろんな意味で興味深い記事ですね。この論調は、朝日新聞……でしょうかね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月26日木曜日

道東の旅 2011/春 (95) 「戦前の四島の《くらし》」

エトピリカ

「エトピリカ」というのは鳥の名前で、世界的には結構な数が見られる鳥らしいのですが、日本では随分と目撃数が少なくなっているようで、日本国内から消え失せてしまう可能性もあるのだそうです。それはさておき……「エトピリカ文庫」なる部屋がありました。
はい。ご覧の通り、ごくごく一般的な開架書庫です。手前に何やら置いてありますね。
ということで、ここの書物一式は寄付されたものなのだとか。どんな本があるかと言えば……
む、むぅ(笑)。「マンガ 世界屈指の石油会社ユコス」とか、なかなか濃いネタが揃っていますね。

北海道人(三重県出身)

しかしながら、こんな渋い?ものもあります。
はい。われらが「北海道人」(三重県出身)、松浦武四郎さんの「蝦夷日誌」の現代語訳(だと思う)です。

戦前の四島の《くらし》

続いては……「戦前の四島の《くらし》」という展示です。一瞬、「なんで戦前?」という馬鹿げた疑問を持ってしまいましたが……(恥)。
こちらは常設の展示らしく、とても落ち着いて見ることができます。……誰もいませんが、これは閉館間近だから……と信じたいです。
コラージュを多用した展示が目を惹きます。ちなみに「メナシ」はアイヌ語で「東」という意味……の筈です。

四島の返還に拘る理由は……

日本政府は「北方四島は日本固有の領土」という見解を堅持していて、このように啓蒙活動にも余念が無い(効果はさておき)のですが、ある意味では北海道の大地すら持て余し気味(過疎化の進行が著しい、という意味で)の日本が四島の返還に拘る理由は、ずばり「水産資源」だということが良く解ります。
極端な話、四島周辺の漁業権をロシアと折半するだけでも万々歳……という人も少なくないのでは無いでしょうか。そんな風にすら思えてしまいます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月25日水曜日

道東の旅 2011/春 (94) 「林子平『三国通覧輿地路程全図』」

「海国兵談」でおなじみ「林子平」さん

2011 年のカレンダー(注:ここを訪問したのは 2011 年のことです)も展示?されているのですが……
古地図をあしらったもので、なかなか興味を惹きます。地図の部分を拡大してみましょうか。
本州・四国・九州なんかはかなり良い感じなのに、肝心の北海道がすごい形に……。カラフト(樺太)に至っては大陸と陸続きのままですしね。しかも困ったことに樺太の北側に「サガリイン」(サハリン)があります(笑)。この楽しい地図の名は……
「三国通覧輿地路程全図」というもので、作者は林子平です。どっかで聞いた名前だなー、と思ったのですが、「海国兵談」の作者でした。すっかり忘れてました……。

今年のカレンダーシリーズ しょの 2

今年のカレンダーシリーズが続きます。次はこちら。
「改正蝦夷全図」とあります。こちらは先ほどの地図?とは違って、北海道や樺太のあたりも随分とマトモなものになっています。千島列島の小さな島々に至るまでその名前が記されているのですが、当然のことながら(?)アイヌ語系の地名になっています。1854 年の時点では、随分と千島のことも把握できていたのですね。

そして、地図の上のほうにはこんなおまけ?まで。
「蝦夷方言」すなわち「アイヌ語」と日本語の対訳表なのですが、うん、なかなか興味深いですね。合っているものもありますし、微妙に違うものも……。

次回予告

さてさて。次は「エトピリカ文庫」なる部屋に行ってみましょう。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月24日火曜日

道東の旅 2011/春 (93) 「日ロ友好+四島返還」

日ロ友好+四島返還

根室市にある「北海道立 北方四島交流センター」なる施設の中をうろついています。どうやら日本とロシアの間で相互理解を深めつつ、四島の返還を要求するというスタンス?のように見て取れます。ですので、
こんな記念写真を撮れるところがあったりする中、
こんなポスターも貼ってあります。

北方領土を巡る様々な動き

さて。「日本文化ルーム」を一通り見学したあとは、展示を見てみましょう。
このように、オープンスペースに所狭しとトピックスが貼ってあります。たとえばこんな感じ。
もちろん、北方領土問題の基礎情報もぬかりなく掲示してあります。
さらには……
北方四島への「ビザあり渡航」の自粛を求めていますね。えーと、北方四島に渡航するためにロシアのビザを取得するのは、ロシアの主権を認める行為であり、日本政府の立場と相反するのでやってはいけない、ということですね。

字が多い(←

若年層向けの掲示もあります。
んー……、ちょっと字が多いですね(←
この手のポスターは良く見かけますが、こういった地図を作成する場合は、四島と北海道の大きさを比較できるようにしたほうが良いんですよね。択捉島は沖縄本島よりも大きいということは、まだまだ理解されていないことも多いと思いますので。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年7月23日月曜日

道東の旅 2011/春 (92) 「Зал ознакомления культуры Японцев」

バリアフリーな日本家屋

さてさて、「日本文化ルーム」(Зал ознакомления культуры Японцев)を見ていきましょう。「靴をぬいでお入り下さい」とありますね。この辺からしていかにも日本的です。
ちょっと不思議なのが、「日本文化ルーム」の玄関(土間)が少し低く作られていることです。わざわざこのような階段を下りていかないといけません。まぁ、一般的な階段の一段分も無いのですが。
で、このような構造になっている理由はすぐにわかりました。
右側が「日本文化ルーム」なのですが、つまり、日本風の「玄関」を再現しつつ、バリアフリー構造の「裏口」を設けたかったから、ということのようです。

いかにも日本的

では、「日本文化ルーム」を見ていきます。
まぁ、やはりと言うべきか、思いっきり和室です。
電話機やスイッチ類がたくさんあるのも、いかにも日本的です(違)。

「封じ手」?

中はご覧の通りの八畳間です。
襖の上には……
えーと、これはプロ棋士の方々の書、でしょうか。「不易流行」はいいとして、「四島入魂」ってのは……。その横には
なぜか「封じ手」なんかが額に納められていたりします。そうか封じ手は日本の文化だったのか(違)。

火災報知器の設置は義務づけられましたが

天井の構造は……
うーん、こういった構造はあんまり一般的ではないような。真ん中に見えるのはスプリンクラーでしょうかね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International