2012年9月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (76) 「札弦・斜里・以久科」

さぁ、ようやくオホーツク海沿岸部までやってきました!

札弦(さっつる)

sak-ru
夏・道
(典拠あり、類型多数)
川湯温泉から斜里に向かって、釧網本線でひと山越えたところにある駅の名前です。「札弦」で「さっつる」と読むのですが、なかなか読めないかも知れませんね。

弦楽器の「弦」なんですけどね。

では、今回も山田秀三さんの「北海道の地名」から牽いてみましょう。

 永田地名解は「サッ・ルー。乾・路なるべし」と書いたが読み違いであろう。古い松浦氏廻浦日記は「サツルエ。サツは夏,ルは道也」と書いた。諸地の類型地名から見ればサㇰ・ル(sak-ru 夏・道)であろう(sak の k は不破裂音で和人は聞きとりにくい)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.220 より引用)
なるほど。sak-ru であれば確かに道内各所に見られる地名ですね。意味も「夏・道」で間違いなさそうです。ちなみにもともとは「札鶴」という地名だったのだそうです。「札鶴」のほうが読みやすそうですけどね(笑)。

斜里(しゃり)

sar
葦原
(典拠あり、類型多数)
「斜里」は今では「知床観光」の玄関口として有名で、それに併せて駅の名前も「知床斜里」に変わってしまいました。地名の由来は簡単明瞭、sar で「葦原」という意味です。

例によって孫引きで恐縮ですが、山田秀三さんの「北海道の地名」から。

 斜里町史地名解(知里博士筆)は「斜里。アイヌ語サㇽ(sar)の訛で,葦の生えた湿原を意味し,もとこの辺一帯をさす地名であった。日高にも有名なサ?(沙流)があるので,区別するため,沙流をマッネ・サㇽ(女性のサㇽ),斜里をピンネ・サㇽ(男性のサㇽ)と云うこともある。北海道南部の古い物語の中ではモシリ・パ・シャㇽ(島の上手にあるシャㇽ)という名称もあらわれる」と書いた。(サㇽ,シャㇽは同音)
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.218 より引用)
「斜里」は「沙流」と並び称されるほどメジャーな地名だったんですね。道北の「猿払」はどうなんでしょう……。

以久科(いくしな)

i-kus-na-pet
それ・向こう側・方向・川
(典拠あり、類型あり)
斜里の中心部から少し東に行ったところです。斜里から越川までを結んでいた、国鉄根北線の駅があったところです。再び「北海道の地名」を見ていきましょう。

 猿間川を少し上ると,その上流はいくつかの諸川に分かれ,手の指を拡げた形であるが,その中の最も向こう側(東側)の川が幾品川である。また幾品川から海岸までの間の土地は,違う字を使って以久科と呼ばれている。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.218 より引用)
例の「越川橋梁」の正式名称は「第一幾品川橋梁」と言いますが、越川橋梁が越えていたのが「幾品川」という川で、地名の方は「以久科」という字を当てている、ということですね。

 松浦図は「イクシヘツ」と書き,永田地名解は「イクㇱ・ペッ。彼方の処」と記した。そのような音でも呼ばれていたのであろう。
 知里博士筆斜里町史地名解は「イクㇱナペッ。幾品川。エ・クㇱナ・ペッ(そこを・突き抜けている・川)。山の際まで突き抜けている川の義」としたが,同氏小辞典では山の処を横切っている川と解説している。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.218 より引用)
えー、とりあえず i-kus-na-pet で「それ・向こう側・方向・川」という意味になりますね。「それ」って何? と聞かれても答えられないのが残念なところなのですが……。山田秀三さんも

当時の何かの目標物があって,その向こうの川の意だったのではなかろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.219 より引用)
と記されていましたので。

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2012年9月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (75) 「トサモシベ・仁伏・弟子屈」

はい。本日は屈斜路湖周りの不思議な?地名をいちぶ紹介します。

トサモシベ

to-sam-us-pe
湖・傍・ある・者
(典拠あり、類型あり)
屈斜路湖のまわりの山々には変わった名前のものが多く、たとえば「サマッカリヌプリ」「コトニヌプリ」「サマッケヌプリ」「イクルシベ山」「アトサヌプリ」「マクワンチサップ」「サワンチサップ」「ニタトルシュケ山」など、枚挙に暇がありません。これを全部追っかけていても大変なので、もっとも屈斜路湖に近くて意味不明っぽい「トサモシベ」を見てみましょうか。今日も山田秀三さんの「北海道の地名」から。

 この山(376 メートル)は湖の東岸に張り出している唯一の山なので目立つ。松浦図ではトサムシヘと書かれた。ゆっくりいえばト・サㇺ・ウㇱ・ペ「to-sam-ush-pe 湖の・傍・にいる・者(山)」であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.275 より引用)
いやー、単純かつ明快な答で素晴らしいですね。to-sam-us-pe で「湖・傍・ある・者」と見て間違いないでしょう。

仁伏(にぶし)

nip-si??
柄・大きな
ni-pu-us-i?
木・庫・多くある・ところ
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
出汁を取るのに使う……(それは煮干)ではなくて、スペインのフラメンコギターの……(ry

……気を取り直して。「仁伏」について、「角川──」(略──)を見てみましょう。

〔近代〕昭和22~36年の弟子屈(てしかが)町の行政字名。もとは弟子屈村大字屈斜路(くつしやろ)村の一部。サクンチサップとも通称された。地名の由来は,アイヌ語がニブシで,大きい柄のある所の意。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1109 より引用)
ふむふむ。ちょっと良くわからない感じもしますが、nip-si で「柄・大きな」ということなのでしょうか。違和感があるのは、この si は通常、接頭語として使われるので、「大きい柄のある所」なのであれば si-nip-pe とかになりそうな気がするのですね。

なお,江戸期の松浦武四郎「戊午日誌」には「ニベシ。ニブシなるべし。是土人の庫の事也。木を組上て立しもの。此辺え土人等鹿のアマホを懸に来り,其取りし肉を其庫え入置為に作りしもの也」と見える。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1109 より引用)
これだと ni-pu-si で「木・庫・大きな」といった感じでしょうかね。

弟子屈(てしかが)

tes-ka-ka?
簗・岸・の上
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
ちょっと前までは難読駅名の一つとして有名だった「弟子屈」ですが、駅の名前はいつの間にか「摩周」に変わってしまいました。確かに「弟子屈」より「摩周湖」のほうが有名なのは認めざるを得ないですが、少しばかり寂しい感じもします。

弟子屈の「テシ」は、天塩の「テシ」と同じだと思うのですが、「カガ」がちょっとわからないですね。というわけで山田秀三さんの説を見てみましょう。

 弟子屈市街は釧路川最上流の賑やかな処で,屈斜路湖や摩周湖を訪れる人の必ず立ち寄る街。また弟子屈町は釧路川源流一帯の土地で,町内のどこを歩いても風光が素晴らしい。日本最高の自然の中の町だろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.273 より引用)
いやー、北海道のあちこちを歩いている筈の山田さんがここまで絶賛するというのも珍しい話です。確かに弟子屈はいいところですけどね。

 弟子屈はテㇱ・カ・カ(tesh-ka-ka)。テㇱは元来は網み連ねたもの,ふつうは魚を捕るための簗であるが,地名に残っているテㇱの多くは,岩磐が川を横断して簗のような姿をしている処である。弟子屈の場合も岩磐がここで釧路川を横切っているので,そのことであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.273 より引用)
ということで、やはり「天塩」も「弟子屈」も同じ tes だったようです。

 次にカ(ka 上,岸)が二つ続いていて,実は読みにくい。知里博士小辞典はそれを「ヤナの・岸の・上」と訳された。カは軽い意味で添えられることがあって,例えばヌㇷ゚カといってもヌㇷ゚(野)と事実上は同じことであった。この場合もテㇱカでそういった岩磐の処を意味するようになっていて,その岸ということをいうために,もう一つカをつけたのでもあったろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.273 より引用)
ふむふむ。「テㇱ」が「テㇱカ」になるのは何となくありそうな気がしますが、「テㇱカ」に更に「カ」をつけるのは、やはり何らかの意味があるのだろうな、と思います。上記引用部の「この場合も──」の文は卓見かなぁ、と思います。

とりあえず、今日のところは知里説を採って tes-ka-ka で「簗・岸・の上」としておきましょう。

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2012年9月28日金曜日

道東の旅 2011/春 (134) 「落石注意!」

根室名物

根室を出発して、次は浜中町の「霧多布岬」を目指します。
まずは「根室名物」三ヶ国語対応の交差点表示をチェックして……。ここが「曙町 1 丁目・駒場町 1 丁目・明治町 1 丁目」の交差点でした。四つ目の名前は「月見町 2 丁目」だったようです。

そして、この交差点はうっかりしていると車線を間違えそうに……。
信号機は対向車線の上にしかありませんが、真ん中にしっかりと左下を示す標識が。左側通行ですから、信号機が無いほうに行かないといけません。

旧ロゴ?

ここからは片側 3 車線の道路となります。ご存じ根室市の目抜き通りで、もう少し先からは国道 44 号に指定されています。
この「ツルハ」の看板、ごくたまに見かけるのですが、これって旧ロゴとかなんでしょうかね?

返せ!

根室市役所の前に差し掛かりました。
「返せ! 北方領土」の文字が躍ります。

初夏の風物詩?

さて。ここから帯広まで、300 km 弱の道のりなのですが、
ガソリンが底をつきかけてきたので、ガソリンスタンドに向かいます。
満タンにしてから 718.8 km ですから……まぁ、こんなものでしょうか。

スタンドの中では、タイヤを換えている車も。
この写真を撮影したのは 5 月のゴールデンウィークですが、ちょうどこの時期が「夏タイヤ」への履き替えのタイミングなんでしょうねぇ。

落石注意!

給油を済ませて、釧路に向かうには右折……ですが、霧多布に向かうには落石経由のほうがいいので、まっすぐ落石(おちいし)に向かいます。
ちなみにこの時点で 11:29 です。いやー、随分と余裕のあるスケジュールですね。後で痛い目に遭わなければ良いのですが……。

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2012年9月27日木曜日

道東の旅 2011/春 (133) 「エゾタンポポ?」

この木何の木?

根室の「明治公園」は、三つのサイロ(昭和製)がそのまま残されていて、なかなかいい雰囲気のところです。
サイロのある「芝生広場」と、駐車場のあるロータリーとの間は「トドマツ林」だと言うのですが、こんな木の姿も。
これ、いったい何の木なんでしょう? この~木何の木ハナマルキ……あ、違うか。

エゾタンポポ?

木の手前の方は青々としているのですが、近寄ってみると……
タンポポ(ですよね?)の花が咲いています。もうちょいと拡大すると……
さらに倍!(古い

バーベキュー?

「芝生広場」からロータリーのほうに戻ると、一面タイル張りの広場がありました。
どうやら、これは「中心広場」というそうです。真ん中には噴水もあります。あと、写真を撮影するのを失念したのですが、ロータリーの北西側にも「芝生広場」があって、そこには野外ステージもあるみたいです。「バーベキュー」という文字も見えますね。

車を探せ!

さぁ、明治公園のサイロもしっかりと見ることができたので、車に戻りましょうか。
この写真、よーく見ると、いつもの車が写っていたりします……。

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2012年9月26日水曜日

道東の旅 2011/春 (132) 「お値段以上の桜の花」

サイロ

根室市の「明治公園」の話題を続けます。南東寄りの「芝生広場」に向けて歩を進めていたところ……何かが見えてきました。
はい、こちらですね。
ご覧の通り、巨大な「サイロ」です。この「明治公園」は、もともとは明治 8 年に「開拓使根室牧畜場」として設立された、国立の牧場だったそうなのです。このサイロ自体は 1932 年から 1936 年にかけて建設されたものなのだそうですが、国内で 2 番目に古いサイロだそうで、また、絵柄が『明治バター』のラベルに使用されたこともあった……らしいです(出典:http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/section/kanko/midokoro/midokoro2/midokoro2.htm )。

昭和も遠くなりにけり

そんな、歴史ある「サイロ」を有するこの公園ですが、
向こうのほうには、「明治」はおろか「昭和」すら歴史上の存在でしかない世代の子どもたちが、三組に分かれて座っていますね。

とんがり具合に違いあり?

明治公園のサイロは 3 つあるのですが、
こうやって見てみると、ドーム状の屋根の形が少々違いますね。ややとんがった形をしているものが、最初に建設されたものかも知れません。

お値段以上の桜の花

芝生の広場にも、積極的に植樹を進めているようですね。
そして、遊歩道も整備されています。
何やら看板がありますが……
なるほど、ここも桜の植樹を進めているようですね。「ニトリ北海道応援基金」というのはいいですね。お値段以上の花を咲かせてくれることが期待できます(笑)。

国境の町・根室

桜の木の向こうには……
また、随分と雰囲気の違うものが見えますね。やや殺風景な感は否めませんが、こればかりは場所柄からも仕方が無いということで。

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2012年9月25日火曜日

道東の旅 2011/春 (131) 「明治公園を歩く」

根室の「明治公園」

少し時間に余裕があるようなので、根室市の「明治公園」に向かいます。

北海道名物?

北海道名物(?)、向きによって名前が違う交差点、です。
ちなみにこの交差点、Google マップで見てみると、「曙町1丁目 駒場町1丁目」と書かれています。このアングルだと「明治町1丁目」でもあるので、多分 4 方向全部で違う名前がついているんでしょうね……。

いや、「交差点の名前じゃないんだ」というロジックはわかるんですけど、一般的には交差点の名前を冠している場合が多いじゃないですか。

目抜き通りのどんつきに

さて……。根室市の目抜き通りをまっすぐ行くと、どんつきに「明治公園」があります。
駐車場の先には……なにやら植樹したばかりのようですね。ん、何かがいるような……?
ふつーにカラスがいたようでした。それにしても、何を咥えているのでしょう?

「明治公園」を歩く

では、ここからは「明治公園」を歩いてみましょう。自家用車で行けるのはここまで、のようです。
ゲートを過ぎたところに、ロータリーがあります。ちょうど真ん中に生えているのは桜の木でしょうかね。
はい。紛うことなく「明治公園」なんですが、
さて、どの辺が「明治」なんでしょうか……?

芝生広場へ

案内板がありました。
ちょっとわかりづらいですが、ここから右のほうに歩いて行けば「芝生広場」があるようです。行ってみましょう!

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2012年9月24日月曜日

道東の旅 2011/春 (130) 「まだ時間に余裕があるようなので(またか)」

晴れ渡る空の下

トーサムポロ沼を後にして、まずは西へ……。根室市街に向かって進みます。
「北方原生花園」というスポットがあるようですね。今回はスルーしちゃいましたが……。
海沿いの道なので、きっと風が強いのでしょうね。防雪柵があるのですが、夏場はこのように折りたたんであります。景観に配慮してのことでしょうか。
途中でこんな地名?も見かけました。
さて、どんな意味なのでしょう……?

ドン・キホーテ

前方に風力発電の風車が見えてきました。
思った以上に道路に近いところにあって、なかなか堂々とした印象を受けます。

明治公園……?

途中、片側交互通行になったりもしましたが、
トーサムポロ沼から十分強で、根室の市街地に入りました。
左に曲がると「明治公園」に行けるみたいですね。
まだ時間に余裕があるようなので、ちょいと寄っていきましょうか(またか)。

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2012年9月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (74) 「屈斜路・和琴・尾札部川」

今日は「屈斜路」の意味と、その意味に隠された?「考え方」についても少々……。

屈斜路(くっしゃろ)

kut-char
喉・口
(典拠あり、類型あり)
言わずと知れた「屈斜路湖」の「屈斜路」です。「クッシャロ」だったり「クッチャロ」だったりしますが、同名の地名は道内各所にあったような気がします。

意味は kut-char で、「喉・口」といった意味となります。知里さんの「──小辞典」を見てみましょう。

kut-char, -o くッチャㇽ 【H 北】沼から水の流れ出る口。沼の水が流れ出て川となる所。to-kutchar(沼の・のどもと)とも云う。kut(咽喉)と char(口)とから成った合成語で,原義は‘のどもと’‘咽喉から胃袋へ入る入口’の義である。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.55 より引用)
知里さんは、「川は生きものだ」という説を唱えていて、これには批判の向きも皆無ではないとは言え、広く世に受け入れられています。知里さんの(色んな意味で)不朽の名作とも言える「アイヌ語入門」から、少しそのエッセンスを抜き出してみましょう。

古い時代のアイヌは,川を人間同様の生物と考えていた。生物だから,それは肉体をもち,たとえば水源を「ぺッ・キタィ」(pét-kitay 川の頭)とよび,川の中流を「ぺッ・ラントム」(pét-rantom 川の胸)とよび,川の曲り角を「しットㇰ」(síttok 肘)とよび,幾重にも屈曲して流れている所を「かンカン」(kánkan 腸)あるいは「よㇱペ」(yóspe 腸),川口を「オ」(o 陰部)とよぶのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.40-41 より引用)
というわけなので、川に「喉元」がある理由も、これでご理解いただけたかと思います。

和琴(わこと)

o-ya-kot
尻・陸地・くっつく
(典拠あり、類型あり)
屈斜路湖に突き出ている「和琴半島」という半島があります。地形図を見た限りでは、これはもともと独立した島だったものが岸とつながった「陸繋島」のようですね。山田秀三さんの「北海道の地名」の解説が秀逸なので、さっそく見てみましょう。

 和琴半島は尾札部川のすぐ西の処。湖面に浮かんだ島のような土地が,くびれた頸部で陸地と繋がっている処で,オヤコッといわれた。オヤコッは道内の処々にあった名で,永田地名解はオヤ・コッ(別・地),つまり「よその・処」と解し,知里博士はオ・ヤ・コッ(o-ya-kot 尻が・陸地に・くっついている)と訳した。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.275 より引用)
実際の地形と照らし合わせるに、知里さんの解釈が妥当に思えます。o-ya-kotuk で「尻・陸地・~にくっつく」という意味になりますね。ただ、「オヤコッ」がなんで「和琴」に化けたのか、という謎が残りますが……。

 なお和琴半島という名は,詩人大町桂月がこの地に遊んだ時に命名したのだという。アイヌ語名に因んで佳字を当てたものらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.275 より引用)
ふむふむ。大町桂月と言えば「層雲峡」の名付け親として有名ですが、なかなかいい仕事をしてくれますね。ぐっじょぶです。

尾札部川(おさつべがわ)

o-sat-pe
川尻・乾く・もの
(典拠あり、類型あり)
少しアイヌ語地名をかじった方だと、この程度の名前はすぐに解釈できるようになるのでしょうね。o-sat-pe で「川尻・乾く・もの」ですね。

山田さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

 丸山の下から街道を西に 3 キロ行った処で,尾札部川が道を横切って流れていて,付近の土地は尾札部である。八重さんはこの川は上流にはいつも水があるが,川尻の処は,夏になると水がなくなるのだと語られた。正にオ・サッ・ペ「川尻・乾く・者(川)」なのである。下流は砂利底で,水が少なくなると下にしみ込んでしまう川なのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.275 より引用)
o-sat という名を持つ川は大抵がこのような伏流河川です。ちなみに引用部に出て来る「八重さん」は、「八重九郎さん」のことだと思われます。

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2012年9月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (73) 「端野・緋牛内・美幌」

今日はちょいとディープかも知れない(当社比)ネタを……。

端野(たんの)

nup-hon-kes?
野・腹・端
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
北見市北東部の地名で、もともとは「端野町」という町だったところです(今は合併して「北見市」)。見たところ tanne というアイヌ語に関係があるか……と思ったのですが、どうやらもっと複雑な歴史があるようで。山田秀三先生の「北海道の地名」を牽いてみましょう。

 端野町は常呂町と上流北見市の間の町である。常呂川の東及び南の広い土地をも含んでいるが,元来は北見平野の東北端から始まった土地であった。端野やそのもとになった野付牛の地名由緒は込み入っているので,まず旧記若干の抜粋を掲げてから書きたい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.199 より引用)
のっけから牛……じゃなくて「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかも知れません。そう、「野付牛」は「北見市」の旧称だった筈なのですね。ここからは孫引きで恐縮ですが……

 大日本地名辞書(明治35年)。野附牛(ヌプ ケウシ)。初め,少牛の南一里,常呂川の左(西)岸開拓せられしが,耕殖の進歩に伴ひて,村の中心は南三里常呂川,ムカ川の会流点の北畔(今の北見市街)に移り,前のヌプケウシは野越と称することとなれり。即今網走,常呂に通ずる分岐点に当る。又野越の南を特に端野(はしの)といふ。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.199 より引用)
ふむふむ。ここで「端野」という地名が出てきましたが、もともとは「はしの」と読ませようとしていた……ようですね。

 永田地名解(明治24年)。北から順に,ヌㇷ゚ケウシ。野端。古へのアイヌはヌプンゲシに住居し,其後此処へ移住し,なほヌプンゲシの名を用てヌㇷ゚ケウシと称すと云ふ。野付牛村と称す。ヌㇷ゚・ウン・ゲシ。野の端。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.199 より引用)
なるほど。確かに nup-un-kes で「野・そこにある・端」となりますね。ただ、地名として何か変な感じもします。

 松浦氏登古呂日誌。北から順に,ヌツケシ。是より又野道になるが故に号るとかや。人家三軒有。行くこと凡十二、三丁、フシコヌツケシ。是より大なる原に出たり。沼有。此沼口をこへてまた原に上り,凡七、八丁過て,ヌホンケシ。此辺四方一面見はらしよし。小笹原。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.199 より引用)
んー、「ヌㇷ゚ケウシ」が「ヌツケシ」に進化したようですね。ところが、「登古呂日誌」のほうが「永田地名解」よりも成立年代が古いので、もともと「ヌツケシ」だったものが「ヌㇷ゚ケウシ」に変化?した、という可能性も出てきます。

 ヌツケシ。これから野道だという。これはヌㇷ゚・ケㇱ(nup-kesh 野の・末端)に違いない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.200 より引用)
ですね。nup-kes で「野・端」です。

 ヌホンケシ。フシコヌツケシから七,八丁(900メートル)南だという。これはヌㇷ゚・ホン・ケㇱ(nup-hon-kesh 野の・腹の末端)の意。アイヌ時代には沼の腹、野の腹のようにいった。これがヌポンケㇱ→ヌプンケシのように呼ばれて行ったのであろう。永田氏はそれを nup-un-kesh と読んだが,なんか元来の地名らしく思えない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.200 より引用)
hon で「」という単語は今まで出てきた記憶が無いのですが、確かに知里さんの「──小辞典」には記載があります。まぁ、「肋」(あばら)があるのであれば「腹」があっても不思議ではないですよね。ここは知里さん流の「地名人体説」を念頭に考えてみるべきなのかも知れません。えーと、そういうことなので、nup-hon-kes で「野・腹・端」、その意味から「端野」になった、ということのようです。「鹿越」と同じような「意訳地名」となりますね。

緋牛内(ひうしない)

susu-usi-nay
柳・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
端野の東隣にある地名(旧・端野町内)。「端野」で思わず盛り上がってしまったので、再び山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょうか。

 端野町内,トペンピラウシナイ川沿いの土地で石北本線緋牛内駅あり。北海道駅名の起源は「シュシュ・ウㇱ・ナイ(柳・群生する・川)の転訛である」と書いた。(ただしその川を知らないので何とも判断できない)
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.200 より引用)
以上です。んー、何ともあっさりしてますね(笑)。では……ということで「角川──」(略──)を見てみたのですが、地名の由来については特に触れられていませんでした。

山田さんの「何とも判断できない」というのが正解のような気がしてきました。「ひ」という音を尊重するならば、たとえば pi-usi-nay で「小石・多くある・川」という解釈も成り立つのですが、何らかの根拠があって susu-usi-nay という伝承?があるのでしょうから、それを無下に否定するわけにもいきません。

susu というアイヌ語(「」という意味)は、その音感からは日本語の「煤」にも通じます。ただ、「煤」という地名は良い印象を持ちにくいので、「煤色」を「緋色」と言い換えた……としたらどうでしょう。ちょっと想像を膨らませすぎでしょうかねー。

えーと、とりあえず「──駅名の起源」に従って、「緋牛内」の語源は susu-usi-nay で、意味は「柳・多くある・川」としておきましょうか。

美幌(びほろ)

pe-poro?
水・多い
pi-poro?
小石・多い
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
ふうっ。今日は(今日も?)なんだか一筋縄でいかない地名ばかりですね。ここらでひとつ、サクっと終わらせたいものです。

というわけで、北見の東、網走・女満別の南に位置する「美幌」です。ここはアイヌのコタンがあったころでも有名ですね。「角川──」()を見てみましょう。

網走地方東部,藻琴山西麓,女満別(めまんべつ)川・美幌川・豊幌川・網走川・栄森川流域。地名の由来は,アイヌ語のピポロによる。また,ペポロ(水多い)から転訛したものともいい(アイヌ語地名解),多くの河川が合流し,水量が豊かなところから名付けられたという。なお,松浦武四郎「戊午日誌」には,「ピポロとは小石多く有る儀」と見える。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1254 より引用)
山田秀三さんは pe-poro で「水・多い」説を紹介していましたが、別解として pi-poro で「小石・多い」説もあるようですね。なんとなーく水が多そうな気もしますが……。

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2012年9月21日金曜日

道東の旅 2011/春 (129) 「トーサムポロ沼で協力を」

温根元(おんねもと)

納沙布岬から帯広まで、ひたすら西へと向かいます。
このあたりは、
温根元、という所のようです。どういう意味なんでしょうね。

トーサムポロ沼

さらに根室市街に向かって西に走っていると……
海が見えてきました。そして、
なにやら沼が見えてきました。どうやらここが「トーサムポロ沼」のようです。

由来が気になる「協力橋」

トーサムポロ沼は、沼とは言っても「汽水沼」のようなもので(たぶん)、沼が海と繋がっている部分に道路橋がかかっています。その橋の名は……
「協力橋」というのだとか。どんな由来があるのでしょうね。

密漁禁止!

この沼は、一見何の変哲も無い沼地に思えますが、
実は、大粒のアサリが獲れる「漁場」だったりします。当然ながら貴重な漁業財産なので、無許可で採捕してはいけません(密漁禁止)。

「チャシ」=「砦」

このあたりは、地図を見ると「根室半島チャシ跡群」と書いてあります。「チャシ」はアイヌ語で「砦」という意味なのですが、誰と戦うためのチャシだったのでしょう(沿岸警備隊でしょうか)。

「協力橋」からの景色

「協力橋」からオホーツク海のほうを望むと、
漁船が係留されています。温根元に立派な漁港があるので、ここに留めてある船は近場専用の小舟……といったところでしょうか。アサリを浚うのは身ひとつで沼に入っていたような記憶があるので(以前に TV で見たのです)。

というわけで、トーサムポロ沼を後にして、根室市街に戻りましょう。

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