2015年4月30日木曜日

道東の旅 2013/春 (166) 「さようなら羅臼町、こんにちは標津町」

春刈古丹

羅臼町の「春日町」に戻ってきました。この辺りはかつて「春刈古丹」と呼ばれていたところで、川の名前は今でも「春刈古丹川」です。
あ、これは「春刈古丹川」の北隣を流れている「ポン春刈古丹川」に架かる「ポン春刈古丹橋」ですね。ponporo(大きい、広い)の対義語ですから、意訳して「小──」などとする場合が多いのですが、ここでは「ポン」がそのまま残っているのですね。

「ポン」があるということは、もちろん本家「春刈古丹橋」もあります。

幌萌へ

「春刈古丹橋」を渡ると、羅臼峠への上り坂が続きます。海抜 5 m から一気に 60 m 地点まで駆け上がってゆきます。峠の手前のスノーシェルターが見えてきました。

茶志別から陸志別へ

地すべりで海岸線が静かに隆起したことで話題になった「幌萌」を通り過ぎ、茶志別川に架かる「茶志別橋」が見えてきました。
春日町(春刈古丹)から陸志別までは台地の上を通りますが、陸志別……あ、今は「峯浜」でしたね……の集落に向かって坂を下ります。海が見えますね。
坂を下りて、海沿いを走ると峯浜の集落です。

さようなら羅臼町、こんにちは標津町

植別川にかかる「植別橋」を渡ると、ここからは標津町です。
標津町域に入りましたが、まだ町の中心部までは 26 km ほどあります。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月29日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (43) 日光東照宮(日光市) (1878/6/21)

約四ヶ月ほどのご無沙汰でした。では早速ですが、1878/6/21 付けの「第八信」(本来は「第十一信」となる)を見ていきましょう。

日光の美しさ

第八信は、なんとも懐かしい格言から始まります。

私はすでに日光に九日も滞在したのだから、「結構! 」という言葉を使う資格がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.100 より引用)
「懐かしい」と言いながら、実は私自身もこの成句の存在を知らなかったのですが、「日光見ずして結構と言うなかれ」という格言があるのですね。ちなみに、イザベラの原文には I have been at Nikko for nine days, and am therefore entitled to use the word "Kek’ko!" とあります(笑)。

さて、日本奥地紀行の「普及版」では、続けて「日光は『日の当たる光輝』を意味する」と続けていますが、実は「完全版」には次のような文章が続いていました(つまり「普及版」ではカットされたということですね)。

日光には際立った特質があります。しかしそれは素晴らしい美しさと変化があるということよりもむしろ、その厳粛な壮麗さ、深遠な物悲しさ、そのゆっくりとした確実な衰退、そしてそのどちらからも人が完全に逃れることの出来ない歴史的かつ宗教的な雰囲気に存するものです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.45 より引用)
文章の調子が違うのは訳者が違うからですね。それはさておき、イザベラは、長きに亘った徳川の治世が終わってから 11 年が経った日光東照宮に「もののあはれ」に通じる哀愁を感じていたことが見て取れます。これはかなり重要な発見だと思うのですが、イザベラは帰国後に幾許かの誤謬があったと感じたのか、この重要な発見を削ってしまったようですね。このことは、個人的には割と残念に感じます。もったいないなぁ、と。

それはまた同時に埋葬所でもあり、降り続く雨と不思議な静けさの中にあって、その栄光が過去の中に横たわっています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.45 より引用)
東照宮は荘厳な墓所であり、しかしながら、この上なく華美な装飾によって過剰なまでに彩られた宗教施設でもありました。後者としての機能は時の権力者が欲したものであり、もはや必要とされなくなったものであることもイザベラは理解していたと考えられます。そのあたりの感傷が筆を狂わせた……と後に感じたのかもしれませんね。

では、「普及版」に戻りましょう。「日光」とはどのような土地であるのか、イザベラの筆が進みます。

日光は「日の当たる光輝」を意味する。その美しさは全日本の詩歌や芸術に有名である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.100 より引用)
ん、そこまで有名だったかな? と思わないでも無いのですが……。しかし、ここからイザベラの怒涛の激賞が始まります。

すばらしい樹木の森林。人がほとんど足を踏み入れない峡谷や山道。永遠の静寂の中に眠る暗緑色の湖水。二五〇フィートの高さから中禅寺湖の水が落ちる華厳の滝の深い滝つぼ。霧降の滝の明るい美しさ。大日堂の庭園の魅力。大谷川が上流から奔り流れ出てくるうす暗い山間の壮大さ。つつじ、木蓮の華麗な花。おそらく日本に並ぶものがない豪華な草木も、二人の偉大な将軍の社をとりまく魅力の数々のほんの一部分にすぎない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.100 より引用)
周りの「舞台装置」を余すこと無く褒めあげていますね。少々皮相的なことを言うと、見たところ「侘び」や「寂び」といった概念に根ざしたものは少なそうで、どれも非常に「わかりやすい」ものであるような気がします。そして、それは「東照宮」という場所を参詣する際の心構えとしても、間違ってはいないように感じられます。

家康の埋葬

御存知の通り、日光東照宮は徳川家康の墓所であり、後に三代将軍だった家光も埋葬されています。そのあたりの事情もイザベラは詳らかに記しています。

家康は、勅命によって神として祀られ、「東方の光、仏陀の偉大なる権現」を意味する東照大権現の名を賜った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.101 より引用)
このように、家康が神として祀られた一方で、

家康ほど重要でない徳川家の他の将軍たちは、江戸の上野と芝に葬られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.101 より引用)
ありゃりゃ。確かにその通りなのですが、「家康ほど重要でない」というのは結構な直球ですよね(笑)。「他の将軍たち」はどう思っていることでしょうか。

さて、「他の将軍」が上野や芝に葬られているのに対して、唯一の例外として日光に眠っているのが三代将軍だった家光ですが、そのことについては「完全版」でのみ触れられています。

ここに埋葬されているもう一人の将軍は家光です。彼は家康の有能な孫で日光の神社仏閣群と江戸の上野の東叡山[寛永寺]を完成したのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.46 より引用)
「普及版」ではバッサリとカットされてしまったあたり、家光も結局は「家康ほど重要ではない」というオチだったということでしょうか。

大神社の入口

イザベラは、東照宮の仁王門について、「大神社の入口」というサブタイトルでその姿を詳らかに記しています。個々の描写については省略しますが、まとめの一文を引用します。

建物の全様式、配置、あらゆる種類の芸術、全体に浸透している思想は、日本独自のものであり、仁王門から一目のぞいただけで、今まで夢にも見ない美しい形と色彩を見せてくれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.102 より引用)
イザベラは「今まで夢にも見ない美しい形と色彩」と評していますが、東照宮の華美な造形を素直に愉しんでいるようですね。

陽明門

続いて「陽明門」に向かいます。

この庭から別の階段を上ると陽明門に出る。毎日そのすばらしさを考えるたびに驚きが増してくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.102-104 より引用)
荘厳な建築物が畳み掛けるように姿を見せることに、さすがのイザベラも打ちのめされ気味になってきたのでしょうか。

中庭から中庭へ進んでゆくと、次々とすばらしい眺めに入るように感ぜられる。これが最後の中庭だと思うとほっとして嬉しくなるほどである。これ以上心を張りつめて嘆賞する能力が尽きはてようとしているから。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.104 より引用)
イザベラも、俗に言う「お腹いっぱい」状態になったのでしょうね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月28日火曜日

道東の旅 2013/春 (165) 「いつか見た人たち」

らうすほんちょう

マッカウス洞窟を出発して、羅臼の中心地に戻ってきました。この下り坂はロードヒーティング停止中らしいですが、よく見ると道路脇に分電盤がありますね。
セイコーマートが見えてきました。道内ではセイコマがあるところは無条件で都会と認定されます(本当か?
羅臼川を渡ると「羅臼本町」です。ちなみに「──ほんまち」ではなくて「──ほんちょう」ですね。
そして程なく「礼文」に入ります。礼文町は思ったよりも広いのですね。

あれっ? この人たちは……

羅臼町礼文を過ぎ、松法町に向かっていたところで……あれ? 歩道を歩いている人たちがいたのですが……
もしかして、1 時間 40 分ほど前に、春日町で見かけた方々では……(その時の写真です)。
このアングルだと人数がわかりづらいですが、黒っぽい服の男性(おそらく)が 3 名と、水色の服の女性が 1 名ですから、どちらも同じですよね。距離は 8 km ほどありますから、全力で歩いたように見受けられます。お疲れ様です!

「麻布」は「あさぶ」

さて。野生動物の飛び出しに注意しつつ、標津に向かいましょう。
立刈臼川に架かる「立刈臼橋」を渡ると「於尋麻布」改め「麻布」です。今頃気づいたのですが、ここの「麻布」は「あさぶ」と読むのですね(「さ」は濁らない)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月27日月曜日

道東の旅 2013/春 (164) 「光らないひかりごけ」

前略、檻の中より

「ひかりごけ自生地」として知られる羅臼町の「マッカウス洞窟」の話題を続けます。落氷防止のために檻の中から見学するというシュールな話になっているのですが……
これだとさすがにあんまりなので、ちょっと頑張って接写してみました。
おお、これだと良い感じですね。ちなみに説明文の最後には次のようにあります。

なお、ひかりごけが輝いて見えるのは六月から十月までで、十二月から四月までは厚い氷の下に閉ざされています。
(マッカウス洞窟内の案内板から引用)
えーと、訪問したのは 5 月だったんですが、これはつまり……。決して「厚い氷の下」では無いけれど、輝いているわけでも無いという、つまり、この時期は単なるコケということですか(汗)。

単なるコケ見物

別の案内板もありました。「北海道指定 天然記念物 羅臼のひかりごけ」とありますね。
では、特に輝いているわけでもない単なるコケ(←ひどい)を見てみましょうか。
落下した水滴が凍ってしまって、見事な氷柱になっていますね。「逆つらら」といった感じでしょうか。

コケっぽいもの

おっ、これがもしかして……!
ぼーっと光っているような感じもしますが、多分気のせいでしょうね。まぁ、コケっぽいものが群生していたのは確かなようです。

檻の向こうには池や階段などが整備されているのですが、残念ながら近づくことはできず……。
氷の下にも緑色の何かが見えますね。これもコケかもしれません。

撤収!

この時は、まさかこの洞窟が後に立入禁止になるとは想像もしていなかったので、ささっと見物を済ませて車に戻ったのでした。今から考えれば実に惜しいことをしたものです。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (246) 「マッカウス・知徒来川・ハシコイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

マッカウス

makayo-us(-i)
フキノトウ・多くある(・ところ)
(典拠あり、類型あり)
「ひかりごけ自生地」として知られる「マッカウス洞窟」のあるところの地名です。改めて考えてみると「あれ?」と思ったのですが、どうやら永田地名解にある「マカヨ ウシ」が原型だったようです。

原音をそのまま記録するのではなく、かなり細かいレベルで単語単位?に分割して記録する永田地名解の癖が出ていますね。この癖についても知里さんが激しく批判していたのですが、永田地名解のこの癖のおかげで原意を遡るのが容易になっていたりするので、一概に批判ばかりはできないのですけどね。

というわけでマッカウスですが、makayo-us(-i) で「フキノトウ・多くある(・ところ)」だったと考えられそうです。o-u は母音の重出となるために o が外されて「マカユㇱ」となり、「東西蝦夷山川地理取調図」に「マカウシ」と記録された……となりそうですね。

知徒来川(ちとらい──)

chi-turaynu-nay???
我ら・見当たらない・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
音からはいかにもアイヌ語由来っぽいのですが、なんとも良くわからない川名が出てきました。羅臼川の北側を流れる、この辺りでは割と長い川の名前です。

永田方正の「北海道蝦夷語地名解」には、「マカヨ ウシ」の次に「チ ト゚ライ」という項目があり、「案内處」という良くわからない解が記されています。曰く「岩ノ間ヲクヾル處ニテ案内ナケレバ行クコトカタシ」とあります。

さて、「チ ト゚ライ」とはどういう意味か……という話になるのですが、そこが良くわかりません(ぉ)。試案ではあるのですが、chi-turaynu-nay であれば「我ら・見当たらない・川」となります。まず nu が落ちて、そして -nay が下略されたと考えると「チ トゥライ」にならなくも無い……といったところですね。

なお、現在の知徒来川の河口部の両側には、それぞれ岩(崖)がせり出しているため、陸路から知徒来川の姿を確認することは容易ではありません。このことを指して「我ら・見当たらない(あるいは見失う)・川」と称していたのかも知れませんね。

ハシコイ川

as-koy?
立つ・波
(? = 典拠あるが疑わしい、類型多数)
羅臼燈台のある「ざいもく岩トンネル」の少し北側を流れる小河川(2 km ほど)の名前です。この川も幸いな事に永田地名解に記載がありました。

Ash koi  アシュ コイ  立浪「ハシコイ」ト云フハ非ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.385 より引用)
ふぅーむ。どうやら元々は「ハシコイ」という名前で伝わっていて、それを永田方正が「ハシコイじゃないアシュコイだ!」と修正を行い、明治期の地形図にも「アシュコイ川」と記されていたものが、いつの間にか「ハシコイ川」に先祖返りしていたというケースのようです。

確かに as-koy であれば「立つ・波」と解釈できますね。一方で has-koy だと「灌木・波」という、ちょっと良くわからない話になってきます。波間を灌木が漂っているという想像もできなくは無いのですが、はてさて……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (245) 「飛仁臼川・立仁臼川・羅臼」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

飛仁臼川(とびにうす──)

topeni-us(-i)
イタヤカエデ・多くある(・ところ)
(典拠あり、類型あり)
羅臼町の礼文町(紛らわしいな)のあたりを流れている、全長 1.5 km ほどの小河川の名前です。地理院地図では「トビニウス川」とカタカナで表記されているのですが、OpenStreetMap には漢字で表記されていたので、それに従ってみました。

では、早速ですが山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょうか。

羅臼町内。小川であるが,当て字が面白いので記載することにした。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.229 より引用)
んっ、畏れ入ります(笑)。

トペニ・ウㇲ「topeni-us(-i) いたや楓の木・群生する(・もの,川)」。永田地名解は,小楓のみ多しと書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.229 より引用)
tope で「乳」という意味なのですが、tope-ni だと「乳液・木」で、そこから「イタヤカエデ」を指すようになったのだそうです。topeni-us(-i) で「イタヤカエデ・多くある(・ところ)」と考えて良さそうです。

立仁臼川(たちにうす──)

tat-ni-us(-i)
樺皮・木・多くある(・ところ)
(典拠あり、類型あり)
トビニウス川の 600 m ほど北を流れている川の名前です。この川も地理院地図では「タチニウス川」ですが、OpenStreetMap の情報をもとに漢字表記にしてみました。

タチニウス川ですが、東西蝦夷山川地理取調図には「タッニウシ」とありますので、おそらく tat-ni-us(-i) あたりなのでしょうね。tat は「樺皮」という意味なので、「樺の木」を指す場合は tat-ni(樺皮・木)となります。この辺の使い分けは意外としっかりしているようで、知里さんも著書の中で良く強調されていたような記憶があります。

一応おさらいしておきますと、tat-ni-us(-i) で「樺皮・木・多くある(・ところ)」ということになりますね。ちなみに、樺の木の皮は燃料として使われていたようです。

羅臼(らうす)

ra-us-i??
深いところ・多くある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
知床半島の大地名ですが、意外や意外、今まで取り上げていませんでした。ここも大地名の例に漏れず、古くから解釈がいろいろと揺れているようです。

では、まずは「角川──」(略──)から見てみましょう。

地名の由来に関しては,アイヌ語のラウシ(腸が生じるの意)により,沖で猟したアザラシ・トドや山で猟したクマ・キツネ・タヌキを当地で屠殺した,あるいは川で獲れたマス・サケを解体したことに由来する説(蝦夷地名考井里程記・戊午日誌)と, ラウシ(低い所の意)による説(北海道蝦夷語地名解)とがある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1603 より引用)
ふーむ……。「ラ」なんですが、萱野さんの辞書には「白子」という意味で記されていますね。一方で中川先生の辞書には「魚の腸の中の脂」とあります。また、知里さんの「小辞典」には「魚の肝臓」とあり、解釈にびみょうな揺れがありますが、魚の腸、あるいは腹の中の臓物であるとは言えそうな感じです。ra-us(-i) で「魚の臓物・多くある・ところ」という説ですね。

どちらかと言えば永田地名解の説のほうが「地名っぽい」感じがしますね。というのも、地名では「ラ」は「低いところ」を意味することが多いためです(対義語は rik)。これだと ra-us-i で「低いところ・多くある・ところ」となりますね。少々意味が循環気味にも思えますが、その辺は和訳の問題と考えていただければと。

ちなみに、山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のようにあります。

古い上原熊次郎地名考は「ラウシ。腸の生ずと訳す。ラーとは腸の事。此川の源水沼なれば,鱒鮭多産にして魚の腸川一面になるゆへ此名ある由」と書き,松浦氏知床日誌は「ラウシ。昔し鹿熊等取り,必ずここにて屠りし故に其臓腑骨等有しとの義也」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.228 より引用)
なるほど、前半部分の答え合わせが終わったような感じですね。もちろん続きもありまして……

永田地名解は後志国古宇郡のラウㇱ・ナイの処で「当地のアイヌはラウシはラウネナイ(注:低い処を流れる川)に同じ」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.228 より引用)
ふむふむ。ちなみに rawne-nay は「深い川」という意味なのですが、「深い川」にも実は二種類あるらしく、rawne-nay は「深くえぐれた谷の底を流れている川」なのだそうです。

 この 2 種の「深川」のうち,Ooho-nay〔オおホナィ〕は「水の深い川」の意味であり,Rawne-nay〔らゥネナィ〕の方は「底の深い川」の意味で深くえぐれた谷の底を流れている川をさすのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.92-93 より引用)
この解をもとに地形図を見てみると、確かに羅臼川はこの辺りでは目をみはるほどの深くえぐれた谷を流れています。なるほど、ra-us-i で「深いところ・多くある・もの(川)」と考えられそうですね。

ただ、更科源蔵さんはこんな風に記していました。

 羅臼(らうす)
 羅臼町役場の所在地。アイヌ語ラ・ウㇱは「低い処」とか「内臓のあるところ」などと云われていたが、この地方では葛の蔓などをラといい、それの多いところの意であるという。ここの山地には葛が自生している。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.282 より引用)
えっ……? 確かに知里さんの「小辞典」にも ra の意味として「③地下部を食用とする草の葉」とありますし、服部四郎さんの「アイヌ語方言辞典」にも、(食用にする)茎として ra という単語が記録されています(旭川方言として)。否定はできないものの、既存の説を葬り去るほどの蓋然性にも乏しい感じがします。さて、どうしたものでしょうね……

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月24日金曜日

道東の旅 2013/春 (163) 「羅臼のひかりごけ」

知床らうす八景

では、今度こそ「マッカウス洞窟」に向かいましょう。何やら案内板のようなものが見えますが……
「案内板のようなもの」ではなくて、普通に「案内板」でした。「マッカウス洞窟 羅臼のひかりごけ」は「知床らうす八景」の一つなのだそうです。
それはそうと、奥の方に見えたこれは……
岩の間から漏出した水が見事に凍っています。まるで氷瀑のようですね。

落氷注意

このマッカウス洞窟は海蝕洞なのか、洞穴と言うよりは上部に岩がせり出している崖のような形状をしています。つまり、岩に染み込んだ水が氷柱になって、やがて落ちてくる可能性が高いわけで……
「落氷注意」の警告の横には……
金属ネットに覆われた歩道が作られていました。「ヒカリゴケ 入口 頭上注意」の文字が光ります。

網の中の懲りない面々

では、中に入ってみましょう……。どことなく、小学校のうさぎ小屋に入ったような感じがありますね(笑)。
洞窟には案内板がいくつか設置されているのですが、
なんともシュールな感じですね。もちろん寄ればちゃんと読めるんですけどね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月23日木曜日

道東の旅 2013/春 (162) 「松浦武四郎 野宿地」

マッカウス洞窟

前方に、工事中(当時)の「マッカウストンネル」が見えてきました。
もちろん工事中のトンネルに入るわけには行かないので、知徒来川にかかる仮橋を渡って海沿いの現道(当時)に向かいます。
「ひかりごけ自生地」として有名なマッカウス洞窟にやってきました。

ちなみにこのマッカウス洞窟、現在は崩落の虞れがあるとのことで閉鎖中とのことです。
洞窟の近くに歌碑がありました。森本峰雪さんという方のもののようです。

松浦武四郎について

洞窟に向かって歩いて行くと……今度は案内板がありました。
松浦武四郎について」と題された案内板のようです。

松浦武四郎 野宿地の碑

案内板の横には、なんとも変わった形をした石碑があります。
こちらは武四郎の歌碑のようですが、「松浦武四郎 野宿地」とありますね。それにしても、野宿しただけで石碑ができる武四郎さんの人気は半端じゃないですね(笑)。確か「面白内川」の近くにも似たような石碑があったような……。

???

そして、その石碑の隣には、これまた謎のポストのようなものが……。この辺でロケでもやったんでしょうか。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2015年4月22日水曜日

道東の旅 2013/春 (161) 「春めく海岸町」

近くて遠いs(ry

オッカバケ川にかかる「朔北橋」まで戻ってきました。左手の海の向こうに見える島影は国後島ですね。
道路脇で除雪スコップを持った少年と遭遇しました。お手伝い中だったのでしょうか。

尋ね水鳥

国後水道で水鳥ご一行様が寛いでいました。
お食事中だったんでしょうかね。
ところでこの鳥なんですが、なんという種類なんでしょうね。頭の部分だけ真っ黒なのが特徴的ですが……。

春めく海岸町

羅臼町の「海岸町」まで戻ってきました。すっかり春の景色ですね。ついさっきまで雪の中を走っていたとは俄に信じがたいです。
おっ、バス停がありますね。

飛仁帯

古い地名が昭和 36 年の字名改正で失われた羅臼町ですが、川や橋の名前として残っているのは嬉しいですね。これは「飛仁帯」と書いて「トビニタイ」でしょうか。
海沿いの道の快適なドライブが続きます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International