2015年9月30日水曜日

道東の旅 2013/春 (258) 「マクドナルドで夕食を」

苫小牧東フェリーターミナルへ

平取町岩知志の某農家さんのお宅を出たのは 18 時を少し回った頃でした。あ、ここにも平取仕様のバス停が見えますね。
十勝とは違って、日高では殆ど雪を見ることは無かったのですが、それでも「なだれ注意報」が発表されていました。山間には残雪があるのでしょうね。

「冬期通行止め」

あとはこのまま、いつもの苫小牧東フェリーターミナルを目指すだけなのですが、いつも同じ道で帰るのもつまらんなぁーということで、ちょいと穂別のほうに車を向けてみました。
道道 131 号線「平取穂別線」には、割と新しそうな道路情報表示板があったのですが、そこに表示されていた文字はなんと……
もう 5 月ですからね。そろそろ「冬期」も終わりにしてもいいんじゃないかなぁ、などと。ちなみに道道 131 号の規制情報では無かったので、このまま穂別を目指します。

ちょいと穂別へ

「むかわ町」に入ります。……なんか違和感がありますねー。旧・穂別町の「むかわ町」です。
鵡川沿いに車を走らせているうちに、すっかり日も暮れてしまいました。穂別で道道 74 号線と合流して、今度は穂別仁和で道道 59 号と合流します。このまま鵡川に行っても良かったのですが、なんとなく道道 59 号を走り続けて、平取町に戻ってきてしまいました。
もはや何がなんだか良くわからない絵になってきてますね(汗)。

例のアレ

国道 237 号に戻ってきました。T 字路を右折して門別本町に向かいます。
富川(旧・門別町)で国道 235 号に入り、そのまま苫小牧を目指します。日高自動車道を通っても良かったのですが、この時は夕食を食べたかったので、あえて「下道」を選んだのでした。

この写真は……分かる人にはわかるかもしれません。そう、例の「アレ」の写真です。

気がつけば、何故か苫小牧

というわけで、国道 235 号をずーっと走って夕食処を探していた筈だったのですが、気がつけば何故か苫小牧……というオチでして。久しぶりにジャンキーな食べ物もいいよね、ということで……
マクドで夕食、となったのでした(汗)。

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2015年9月29日火曜日

道東の旅 2013/春 (257) 「二度目の振内鉄道記念館」

仁世宇駅の近くでした

道道 638 号「宿志別振内停車場線」で平取町振内に向かいます。豊糠と振内の間の「桂峠」は、平取町内の中でもワイルドな雰囲気が色濃く残る峠で、過去にはキタキツネとご対面したこともありました。
峠を越えると、沙流川南岸の平野部です。基本的には農地として使われているのですが、中にはこんな一角が……
これですが、もしかしたら国鉄富内線の跡かもしれません。

振内にも線路跡が

国道 237 号線に合流して、振内を目指します。目の前には国道 237 号線最大の難所(ではないかと思われる)、振内橋が見えてきました。道路幅が明らかに狭いので、大型車は離合困難という代物です。下流部(写真だと左側)に新橋を建設中とのことですが、いつ完成するのやら……。
振内橋で沙流川を渡ると、程なく振内に到着です。この土手も国鉄富内線の跡なんでしょうね。
線路跡をわかりやすくするためにマーキングしてみました。

振内鉄道記念館へ

旧・振内駅跡の「振内鉄道記念館」にやってきました。ここに来るのは二度目なので、今回はあまり多くを語らないことにしましょう。詳しくは第184回「振内鉄道記念館へ」の記事をどうぞ!
「振内駅」の他に、両隣の「幌毛志駅」「仁世宇駅」の駅名標も見えます。
そして、サハリン帰り(樺太帰りではなくて)の D51-23 の姿もあります。そう言えば振内の D51-23 は再塗装がなされたようですが、良く見ると今回は色艶がいいですね。2013 年 5 月の時点で既に再塗装が済んでいたということでしょうか。

ついでに給油も

燃料がややギリギリだったので、振内のガソリンスタンドで満タンにしてもらいました。前日に釧路の春採で満タンにしてから 757.3 km 走っていたので、そろそろいい時期ですよね。
いや、ちょうど給油中にポスターが見えたものですから、つい……(汗)。

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2015年9月28日月曜日

道東の旅 2013/春 (256) 「右往左往する道道 71 号」

まだ新冠町でした

新冠町新和というところにやってきました。……写真を整理していて、「あれっ、もう貫気別?」と思ったのですが、いえいえここは新冠町です。
厚別川の支流である里平川に架かる「里平橋」を渡ると、日高町に入ります。「……あれ?」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、旧・門別町の日高町です。

どっちもゴールは平取町ですが

ずーっと道道 71 号を走っていたつもりだったのですが、いつの間にか道道 71 号と道道 80 号の重複区間になっていたようです。道道 80 号はこの先を左折して平取に向かいます。道道 71 号の行き先も平取なのですが、同じ平取でも「平取本町」に向かうのが道道 80 号線で、「平取町荷負」に向かうのが道道 71 号線です。
直進して、平取町貫気別(ぬきべつ)に向かいます。
厚別川沿いに北東に走ること十数分で、峠を越えて、ようやく平取町に入りました。ここからは、貫気別川沿いに西北西に向かうことになります。

右往左往する道道 71 号

静内から、ずーっと道道 71 号線を走っているのですが、実はこの道道 71 号線、酷く蛇行しているのです。こんな風に……

平取町と言えば

そんなこんなで、ようやく平取町に入ったわけですが、平取町と言えばコレ! ですよね。
そう、バス停です。平取町内には同じような形のバス停が、結構あちこちにあるのです。

宿志別振内停車場線

貫気別からは、道道 845 号で芽生のすずらん群生地に向かいます。
道道 845 号は「芽生貫気別線」という名前の通り、芽生のすずらん群生地が終点で、そこから先は道道 638 号線となります。道道 638 号も豊糠までは絶賛改良工事中なのですが、果たしていつ供用開始となるのでしょうか。
ちなみに、この道道 638 号は「宿志別振内停車場線」と言います。振内に駅があったのは旧国鉄・富内線ですから、もう廃止されて随分経つのですが、道路の名前には未だに痕跡が残っているのですね。

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2015年9月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (286) 「津別・達媚・活汲」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

津別(つべつ)

tu-pet?
峰・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
久々の大地名ですね。ソースが豊富なのはありがたい話です。ということで、まずはいつもの「北海道の地名」から。

網走市史地名解(知里博士筆)は「トゥ・ペッ tu-pet(二つの・川)。津別川と網走川とがここで並んでいるのを言う」と書いた。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.212 より引用)
のっけから孫引きで申し訳ありません。確かに「網走郡内アイヌ語地名解」には次のようにありますね。

(335) ツ゚ペツ(Tu-pet) ツ゚(二つの),ペッ(川),「二つの川のあるところ」
の意で,津別川と網走川とがここで並んでいるのを云う。
知里真志保知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.305 より引用)
ただ、大地名の例に漏れず異説もあるようで、

 北海道駅名の起源昭和25年版(この版から知里博士参加)は上記二川説を書いたが,昭和29年版では「トゥ・ペッ(山の走り根・〔の下の〕・川)から出たものである」と変えた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.212 より引用)
ふーむ。tu には「二つの」という意味もあれば「峰」という意味もあるので、取りようによってはどちらでも解釈できてしまうわけですよね。

ということで、セカンドオピニオン行ってみましょう。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。

 津別(つべつ)
 網走郡津別町。市街の近くで網走川に合する津別川の名からでたもので、アイヌ語のト゚・ペッで山の走り根(の下の)川であるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.266 より引用)
知里さんが「ツ゚」で更科さんは「ト゚」ですが、これはどちらも tu という音を意味する表記なので、要するに同じことを言っていることになりますね。「北海道駅名の起源」には更科さんも参加していたので、この解は更科説だったりするのでしょうか。……ただ、まだ続きがありまして。

たしかに砦址のある高台のつき出た下にある川であるが、釧路弟子屈のト゚・ペッのように、川水の倍になりやすい川ともとれる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.266 より引用)
あれっ? 確かに弟子屈の「鐺別」には「更に倍!川」説がありましたが……(古い)。津別川は確かに長い川ですが、特に流域が広いというわけでも無いような気がするので、tu-pet で「峰・川」かなぁ、と思います。まぁ、どう解釈するかはさておき、tu-pet なのは間違いなさそうなんですけどね(汗)。

達媚(たっこぶ)

tapkop
離れてぽつんと立っている円山
(典拠あり、類型多数)
面白いのは、「津別」という地名は意外と新しい地名らしく、明治期の地形図には「津別」の代わりに「達媚」と記されています。これも失われた地名の一つとも言えるのですが、辛うじて川の名前(タッコブ川)と橋の名前(達媚橋)に残っているので、取り上げてみました。ちょっと反則かもしれませんがご容赦を。

永田地名解には次のようにあります。

Tapkop   タㇷ゚コㇷ゚   小山 達媚村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.482 より引用)
はい。ということで「達媚」は tapkop で「離れてぽつんと立っている円山」と考えて良さそうです。

tapkop は道内では割と良くある地名なのですが、ひとつわからないのが、津別のあたりには tapkop と呼ぶに相応しい山が見当たらないんですよね……。どのあたりを指して tapkop と呼んでいたのでしょうね。

ちなみに、現在では「達媚」の名前は橋の名前(と川の名前?)くらいにしか残っていないのですが、その代わりと言っては何ですが「達美」という地名があるようです。

 達美(たつみ)
 網走川右岸、もとタㇷ゚コㇷ゚(瘤)に達媚と当字をし達美に改めたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.266 より引用)
ふむふむ。更科さんは tapkop を「瘤」としましたね。確かにその理解でも正しいような気がします。さて、津別の「コブ」はどこにあったのでしょう……?

活汲(かっくみ)

kakkum?
ひしゃく
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
津別町北部の地名です。かつて国鉄相生線に同名の駅もありました。道南には「川汲」と書いて「かっくみ」と読ませる地名がありますが、こちらは「活汲」です。

では、今回は「北海道駅名の起源」から見ていきましょうか。

  活 汲(かっくみ)
所在地 (北見国)網走郡津別町
開 駅 大正13年11月17日
起 源 アイヌ語の「カックム」(ひしゃく)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.217 より引用)
ほう……。確かに kakkum には「ひしゃく」という意味があるのですが、なんで「ひしゃく」が地名になるのか、良くわからないんですよね。

ちょっと時代を遡って、戊午日誌を見てみましょうか。

西岸また十八九丁も下り、樹立原凡三四丁にて
     カツクミ
相応の川有る也。其岸の樹立原の中に人家二軒、また弐丁計も隔りて弐軒有。カツクミは杓子の事(を)云りと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.335 より引用)
ふーむ。松浦武四郎の時代から kakkum 説なんですね。意味が気になるところですが、

其起り如何なる儀にて号しものかしらず。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.335 より引用)
残念ながら「よーわからん」ということのようです。

永田地名解には、次のように記されています。

Kakkum   カㇰクㇺ   カクコ鳥多ク啼クニヨリ名ク 新冠郡ニモ同名同義ノ地名アリ○活汲村ト稱ス
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.481 より引用)
おや、新冠にも「活汲」があったとは知りませんでした。それはさておき、今度は「カクコ鳥多く啼くにより名づく」と来ましたね。「カクコ鳥」は「カッコウ」のことだと思われますが、確かにアイヌ語でも kakkok と言うのだとか。

これまた良くわからない解が出てきたなー……という感じですが、続けて知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」を見てみましょうか。

(175)カックム(Kakkum) カックム或はカックミは白樺の皮で作った柄杓。この辺白樺多く,昔のアイヌはここから柄杓の材を得ることが多かったので,そう名づけたのであろう。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.291 より引用)
なるほど。もしかしたら kakkum-kar-us-i みたいな名前だったんでしょうかね。これは有り得そうな感じのする解釈です。

「カツコ鳥多ク啼クニヨリ名ク」とする説もあるが,それだとカッコクハウ(kakkok-hau カツコ鳥の・声)でなければならない。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.291 より引用)
ふむふむなるほど。このように明快な根拠を例示して批判してあるのは有難いですね。これを見た限りでは kakkum で「ひしゃく」だったと考えるのが良さそうな感じです。

ちなみに、川の向こうの山の更に向うの美幌町域に「栄森」というところがあるのですが、栄森の旧地名が「ポンカックミ」だったそうです。ここも白樺の林があるようなところだったのでしょうか。

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2015年9月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (285) 「ケミチャップ川・木樋・本岐」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ケミチャップ川

kene-cha-p??
ハンノキ・刈る・ところ
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
津別町西部の道道 51 号線沿いを流れる川の名前です。なお、チミケップ湖から流れる「チミケップ川」とは別の川ですのでご注意を。

まずは山田秀三さんの「北海道の地名」から。

ケミチャップ川
 チミケップ川の川口から僅か上った処で網走川に注ぐ西支流。相当長い川。永田地名解は「ケミチャㇰㇷ゚。舐る物無き処。昔し童此処に来り食物なく餓死せし処なりと云ふ」と書いた。kem-i-sak-pe(なめる・もの・無い・処)とでもこじつけたらしいが,何だか説話解くさい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.212 より引用)
ほほう……と思って永田地名解を見てみたところ、確かにこんな風に書いてありました。

Kemi chakp   ケミ チャッㇰㇷ゚   舐ル物無キ處 昔シ夷童此處ニ來リ食物ナク餓死セシ處ナリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.482 より引用)
解の妥当性よりも、「ャッㇰㇷ゚」という文字の並びに驚いてしまいますね。

網走市史地名解は「kemichap。原義未詳」とだけである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.212 より引用)
「網走市史地名解」は、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」のことだと思うのですが、確かに次のようにあります。

(205) ケミチャプ(Kemichap) 原義未詳。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.294 より引用)
これではさすがに手も足も出ないので、もう少し他のソースを当たってみましょう。戊午日誌には次のような記載がありました。

南岸を川まゝ赤楊の多き処下ること
     ケ子チヤブ
相応の川有。川巾凡十間転太石也。此両岸槲柏原なり。魚類多きよしに聞。本名ケミチヤプなるよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.309 より引用)
「本名ケミチヤプなるよし」とあるものの、「ケ子チヤブ」と記録されています。確かに kene であれば「ハンノキ」なので、意味も解しやすくなるのですが……。

其訳は昔し合戦の有りし時、老人壱人何処よりか逃来りしを追来りしが、爰まで来りしや、空より血が多くこぼれ居たりと。依て号。ケミは血の事、チヤブはこぼれると云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.309 より引用)
……。確かに kem あるいは kemi には「血」という意味があるようですね。また chari には「撒き散らす」という意味があるようなので、意味は理解できなくもないのですが、地名として妥当であるかどうかは……?

東西蝦夷山川地理取調図を見てみると、チミケップ川とケミチャップ川の間の網走川寄りに「チヤフフト」という文字が見つかりました。「フト」は多くの場合 putu なので、「チヤフ」という川の河口部の地名としてはありそうな形です。

戊午日誌の「ケ子チヤプ」をそのまま読み解くと、kene-cha-p で「ハンノキ・刈る・ところ」となりそうなのですが、いかがでしょうか……?

木樋(きとい)

ki-toy
茅・原
(典拠あり、類型あり)
ケミチャップ川中流部の地名です。意外なことに、これもアイヌ語由来のようでして……。今回は久しぶりに「角川──」(略──)から。

 きとい 木樋 <津別町>
〔近代〕昭和12年~ 現在の行政字名。はじめ津別村,昭和21年からは津別町の行政字名。もとは津別村大字翻木禽(ぽんききん)村の一部, ケミチャップ・ケミチャップ原野・ケミチャプ・ケミチャプ原野・トーコチ・ポンキキンなど。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.467 より引用)
はい。ここまでは良いですよね。

地名はアイヌ語キトイに由来し,キは茅,トイは原の意といい,アイヌがここで矢柄を採取したという(アイヌ語地名解)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.467 より引用)
「アイヌ語地名解」と書いてあったので、更科さんの「アイヌ語地名解」の中に原典を探していたのですが、これも知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」が原典だったのですね。確かに次のようにありました。

(211) キトイ(Ki-toi)(右方) キ(茅),トイ(原)。前項の沢を少し上る
と一畝歩位のオニガヤばかり生えた所があり, 昔はそこで矢柄を取った。ここに小さな沼がある。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.294 より引用)
あれっ、toy に「原」なんて意味があったかな……と思ったのですが、知里さんの「──小辞典」を見ると、確かに書いてありました。

toy, -e 【H】/ -he 【K】 とィ ① 土。 ② 食土。(→chi-e-toy)。③ 畑。④ 墓。⑤ 原。uras-toy, -e (笹原)。ki-toy, -e(萱原)。kene-toy, -e(榛原)。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.133 より引用)
ということで、ki-toy で「茅・原」と考えて良さそうな感じですね。

本岐(ほんき)

pon-{kikin}
小さな・木禽川
(典拠あり、類型あり)
網走川とケミチャップ川が合流するところにある集落の名前です。少し上流でポンキキン川と網走川も合流していますね。

もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この「本岐」、かつては「翻木禽」と呼ばれていた場所でした。ということで山田秀三さんの「北海道の地名」を見ておきましょうか。

同じ東支流であるオンネ・キキンと対のような川で,この方が少し小さい川である処から,ポン・キキン「小さい(方の)・キキン川」と呼ばれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.213 より引用)
はい。オンネキキン川は「メナシュキキン川」と名前の取り違えがあったんじゃないか疑惑の川でしたね。そしてポンキキン川は現在の「ヌッパオマナイ川」が合流する川でした。

たぶんキキン(ウワミズザクラ)があった川であろうが,このような地形の場合は,それがなくても大きい方の川名が使われた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.213 より引用)
kikin-ni は「ナナカマド」あるいは「エゾノウワミズザクラ」という意味ですが、木禽川の場合は「ナナカマド」だったかもしれません。……まぁ、これは細かい話ですね。

 川筋の地名もポンキキンで呼ばれ,前のころは飜木禽,翻木禽のような字でポンキキンと呼ばれたが,今は下略されたりして本岐となった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.213 より引用)
明治期の地図には「翻木禽」とあったのですが、さすがに字画が多いのが忌避されたか、いつしか「本岐」になってしまったみたいですね。ということで、pon-{kikin} で「小さな・木禽川」だった、としておきましょう。

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2015年9月25日金曜日

道東の旅 2013/春 (255) 「太陽開拓の歩み」

なぜ先行車が?

右折して、道道 71 号を平取に向かいます。こんな言い方をしてしまってはいけないのかも知れませんが、あまり車が通らない雰囲気があるこの道で、なぜか 2 台も先行車があるのはなんか変な感じですね……。
平取までは、まだ 59 km もあります。まぁ、同じ町内でも 2~30 km あるのが普通なので、この程度で「遠いなぁー」と思ってはいけないのですけどね。
先行車が次々と左折してゆきます。どうやらこの辺りに競走馬の牧場があるようで、その関係者、あるいは見学者だったみたいですね。

沈黙の交通情報

ということで、予想通りの単独走行となりました。そして目の前には「道路情報」と交通遮断機が。現在は開放中なので問題は無いのですが、やっぱりちょっと気合が入りますね。
交通情報表示板は真っ黒で何も表示されていません。気温は 5 ℃ ですが路温は 8 ℃ あるので、凍結などの心配は無さそうです。

新冠町太陽へ

新冠川にかかる「御影橋」を渡ります。静内ですれ違ったバスはこのあたりまで走っていたみたいですね(残念ながら 2015 年 3 月いっぱいで廃止されたとのこと)。地図で見ると、そこそこの数の家が立ち並ぶ集落があるようです。
道道 71 号を北上し、また西進し、平取を目指します。新冠町太陽というところにやってきました。
随分と凝った造形のバス停ですね。てっぺんのとんがり屋根がチャーミングですが、雪下ろしの必要性を少なくする効果もあるのでしょうか。

「太陽橋」という橋がありました。
このあたりは戦後、満州からの引揚者が中心となって開拓が進められたそうです。かつては中学校や小学校があったそうですが、現在はどちらも統廃合されてしまい、小学校跡が「太陽の森ディマシオ美術館」として再利用されています。

また T 字路

新冠町太陽から比宇川沿いに西に向かうと……
またしても T 字路にぶつかりました。ずーっと道道 71 号を進んでいるだけなのですが、やたらと T 字路にぶつかりますね。ここも右折して平取を目指します。

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2015年9月24日木曜日

道東の旅 2013/春 (254) 「『ケバウ橋』再び」

道道 71 号で平取へ

道道 71 号を静内川に沿って北東へと向かいます。やや逆方向なのですがこればかりは仕方がありません。
道道 71 号はこの先の十字路を左ですね。というわけで左折すると……
平取まで、あと 64 km です。んー、こうやって見ると結構な距離ですね。

桜並木

途中で町道(だと思う)との交叉点で信号待ちをしていると、こんな案内を目にしました。
なるほど、ここが「桜並木」で有名なところなのですね。ゴールデンウィークだと、まだ早すぎたのでしょうか。

「ケバウ橋」再び

道道 71 号を北西に進んでいると……あれっ?
目の前には、またしても「ケバウ橋」が。浦河では「変な名前だなー」と思って撮影していたのですが、まさかこんなところで再度目にするとは思ってもいませんでした。どういう意味なんでしょうねぇ。

一説によると pipakeba に訛ったのだ、と言うのですが……。うーむ。

浦河の「ケバウ橋」の写真も、念のためもう一度。

新冠町へ

道道 71 号線は、再び 90 度向きを変えて、今度は南西(あるいは西南西)に向かいます。坂を登り切ったところで新冠町に入ります。
新冠町のカントリーサインがこちらです。新冠と言えば「レコードの町」というイメージが強いのですが、カントリーサインには源義経らしき武将が描かれています。
ヘアピンカーブで丘を降りてゆくと、今度は T 字路が見えてきました。道道 71 号線はこの先を右折ですね。

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2015年9月23日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (49) 日光 (1878/6/23)

引き続き、1878/6/23 付けの「第十信」(本来は「第十三信」となる)を見ていきましょう。

針仕事

イザベラが図らずも参加することになった「子どものパーティ」の主催者(?)の女の子の名前が「ハル」で、ハルの母親が「ユキ」と言う名前です。「パーティ」での子どもたちの落ち着いた立ち居振る舞いに感心していたイザベラですが、今度はその視線が母親であるユキに注がれます。

日本の女子はすべて自分の着物を縫ったり作ったりする方法を覚える。しかし私たち英国婦人にとって、縫い物の勉強はむずかしくて分からぬことがあって恐怖の種とされているのだが、日本の場合にはそれがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.123-124 より引用)
ふーむ、そんなものなのですね。縫い物はどちらかと言えば庶民的な仕事だったりするのでしょうか? 何となく、アガサ・クリスティの作品に出てくる「ミス・マープル」のことを想像したりもしたのですが、ミス・マープルは中流の家の出だという設定だったようですね。

イザベラは、日本女性がみな縫い物ができることについて、その理由を考察しますが、導き出した答えは実に単純なものでした。

着物、羽織、帯、あるいは長い袖でさえも、平行する縫い目があるだけである。これらは仮縫いにしてあるだけで、衣服は、洗うときには、ばらばらにほどいて、ほんの少し糊で固くしてから板の上に伸ばして乾かすのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
要するに、縫い物のスキルが無いと日々の着るものにも事欠くことになる、ということですね。必要は発明の母……とはちょっと違いますが、当時の日本では「縫い物」のスキルが無条件に必要とされた、ということのようです。

秋の夜長……にはちょっと遠い時期(むしろ夜が一番短い時期)ではありましたが、テレビなどの娯楽が無かった時代のことですから、晩はもっぱら読書の時間だったようです。

たいていの村の場合と同様に、ここにも貸出し図書館がある。晩になると、ユキもハルも、恋愛小説や昔の英雄女傑の物語を読む。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
これを見た限りでは、当時はどんな村にも図書館(に類するもの)があったのですね。想像以上に文化レベルが高かったんだな……と感心してしまいます(武雄市の例なんかを見聞きしてしまうと、尚更ですね)。

これらは大衆の趣向に合うように書かれてあり、最も読みやすい文体で綴られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
改めて考えてみると、テレビが無かったどころか漫画も無かったということですよね。「読みやすい文体」というのはどういった類のものだったのでしょう。普通の仮名交じり文でしょうかねぇ……?

伊藤は十冊ほど小説を自分の部屋にもっていて、それらを読みながら夜の大半を過ごす。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
ちゃっかり者の伊藤少年、流石ですね(笑)。

書道

「書物」の話題から「書道」の話になりました。イザベラは、「書」においても男女で差があることを発見します。

ユキとハルは共にすらすら書くが、しかし女性の書き文字[女手(おんなで)ないし女文字]は男性のそれ[男手(おとこで)、ないし男文字] とは異なっていて、私たちの国でも普通であるように、より行書的で、形式は古典的ではない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.54 より引用)
イザベラは「女性的な優雅さが文字を曲がりくねらせます」とも記していました。これは、「男文字」が楷書寄りで、「女文字」が草書寄りだ、といったことでしょうか。なかなか面白い発見だと思うのですが、なぜか普及版ではカットされてしまっています。

ここからは普及版の内容に戻ります。「ユキ」の息子ですから、「ハル」の兄ということになりますね。イザベラの見立てでは、十三歳にしてなかなかの書家であるようですが……

ユキの息子は十三歳の少年で、しばしば私の部屋に来て、漢字を書く腕前を見せる。彼はたいへん頭のよい子で、筆でかく能力は相当なものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
このように、少年の書の能力を高く評価した上で、イザベラはまたしてもある真理に到達します。

実際のところ、書くことと描くことは差異がわずかである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
そうなんですよねぇ。でも、良く考えてみると、西洋には毛筆で揮毫するという文化が無かったですよね。イザベラは「書」が「文字」であるとともに「アート」であると言う、我々にとっては至極当然の命題を「発見」したとも言えそうです。

文字はペンではなくて、らくだ毛の筆を用い、墨にひたしてから書かれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124 より引用)
「え、らくだ毛の筆?」と思って原文を確かめてみたのですが、確かに camel’s-hair とあるんですよね。確かに毛筆用の筆には動物の毛が使われることが多いのですが、さすがに「ラクダ」は珍しいような気がします。

「書」の話の次は「教養」の話になりました。

ユキは三味線を弾く。これは日本女性の国民的楽器と見なされている。ハルはそれを習いに毎日先生のところに通っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.124-125 より引用)
ふーむ。昭和の頃は「お琴」を習う女性も多かったと思いますが、この頃は「三味線」が国民的楽器と見なされていたのですね。

生け花

そして「習い事」の話題から、「生け花」の話題に移ります。

生け花の技術は、手引き書によって教えられる。生け花の勉強は女子教育の一部分となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
これも「古き良き時代の教養」のような感じですね。イザベラは続けて、この「女子教育の一部分」の実例をあげてゆきます。

私の部屋が新しい花で飾られない日はないほどである。それは私にとって一つの教育となった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
ここまでは良いですよね。客室に新しい花が飾られるのは、古今東西どのようなものであっても嬉しいものです。ただ、イザベラはここでもある発見をします。

飾られている花の孤独の美しさが、私に分かりかけている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
ここからは具体例が続くのですが、要約すると、日本の「生け花」に「侘び・寂び」の美しさを見出していたと考えられます。改めて考えてみると、これも日本ならではの美意識なんですよねぇ。どういった背景から「侘び・寂び」のような美意識が醸しだされて来たのか、ちょっと考えてみると面白そうな感じもします。

イザベラは、「生け花」の対照として「花屋さんの花束」を例にあげます。

(それに較べれば)私たちの花屋さんの花束ほど奇怪で野蛮なものがあるだろうか。あれは種々の色の花を一束の花輪にまとめたもので、羊歯(しだ)類でかこみ、レース紙でつつんである。中の花は、茎も葉も花びらさえも、ひどくつぶされている。それぞれの花の優美さも個性も、故意に破壊されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.125 より引用)
なるほど、確かにそういう見方もできますね。一言でまとめてしまえば「美意識の違い」で済む話なのですが、価値観を根底から覆されるような発見の連続に、イザベラもかなり驚いていたのでは無いでしょうか。

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2015年9月22日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (48) 日光 (1878/6/23)

引き続き、1878/6/23 付けの「第十信」(本来は「第十三信」となる)を見ていきましょう。

イザベラは奥地紀行に旅立つ前に、日光は入町村の学校見学に出かけます。日本の子どもの従順さの影に日本人の国民性を見出すとともに、本来は自由奔放であるはずの子どもたちを一体どのように躾けているのか、そのシステムにも興味を抱いたようでした。

悪い行ないをすれば処罰として鞭で膝を数回殴られるか、あるいは人差指にモクサ(もぐさ)をつけて軽くお灸をすえられる。これは今も行なわれる家庭内の懲罰である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
ふむふむ。現代でも慣用表現として「お灸をすえる」というものがありますが、当時は本当に罰としてお灸をすえることがあったのですね。見た目は近代的な学校においてもこのような旧時代的な処罰が行われていたのかと思うと少々残念な気もしますが、当の教師からは次のような説明を受けていたようです。

しかし教師の説明によると、学校に居残りをさせることだけが現在用いられている処罰であるという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
この矛盾は、これも日本人お得意の「本音と建前」という奴なんでしょうか。

彼は、私たち英国人が余分の仕事を課すというやり方に大いに不賛成である、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
これはちょっと二通りの読み方ができてしまうので、念のため原文も見ておきましょうか。

he expressed great disapprobation of our plan of imposing an added task.
ふむ。彼(教師)は私たち(英国人)の考えに対して落胆を表明した、ということですね。「罰として宿題を増やす」というスタイルが英国風なんでしょうか。どういう意図から「大いに不賛成」だったのか、ちょっと興味が湧いてきます。

朝の 7 時に太鼓の音で学校に集合した子どもたちは、やはり正午には解散するという時間割だったようです。昼からは、子ども本来の持ち場に戻ったのでしょうね。

十二時になると子どもたちは、男子と女子がそれぞれ一団となって整然と行進して校庭を出て、静かに解散した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120-121 より引用)
日本奥地紀行「普及版」では、ここから先の少々生々しい内容がカットされています。カットされた内容は、たとえばこんなものでした。

政府はすでにすべての階級に教育が行き渡るように多くのことを実施したが、しかし、まだ義務的な取り扱い(義務教育)の効果は表れていず、学齢児童は500万人と見積もられているが実際に学校に行っているのはわずか200万人強にすぎないのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.53 より引用)
日本における義務教育は、1872 年の「学制公布」がその始まりだった……のですね(ちゃんと知らなかった)。イザベラは義務教育 7 年目の学校を見学したことになりますが、推計 40% だったら制度の出だしとしてはこんなもの……のような気もしますね。

授業料は親の資力により月に半ペニーから3.5ペンスであるが、これにはインク、紙、石板あるいは教科書は含まれない。彼は私に教師には13段階あり、自分は8段階目で月に1ポンド受け取っていると言いました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.53 より引用)
これもまた生々しい……。ちなみに 1 ポンドが 186 円くらいですから、0.5 ペニーであれば約 0.93 円、3.5 ペンスであれば約 6.51 円になりますね。もっとも、こんな換算は全く意味がありません。ただ、もっとも資力のある家の子でも、教師の月給の 3.5 % 程度の負担で済んだというのはちょっと考えさせられますね。

子どものパーティ

日光では入町の「金谷家」に逗留していたイザベラですが、こんなイベントを目にする機会があったようです。現代の日本では、子どものパーティにわざわざ招待状を出すようなことは滅多にないと思うのですが、当時は割と当たり前だったのでしょうか。金谷家は当時としてはかなりハイソ(死語?)な一家だったような気もしますが……。

公式の子どものパーティが、この家で開かれた。そのため、十二歳の少女である子どもの名前で、正式な招待状が出された。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.121 より引用)
招待状を出したからには、招待したお客様をきちんとお迎えしないといけません。

ハル(春)という名のこの子は、石段の上でお客を迎える。そしてお客を接待室へ案内する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.121 より引用)
ふむふむ。なかなかやりますね。

子どもの芝居

イザベラの言う「子どものパーティ」は、随分と礼儀正しい雰囲気の中で始まりました。

お客が全部集まると、彼女と非常に優雅な母は、一人ひとりの前に坐りながら、漆器のお盆にのせたお茶と菓子を出した。子どもたちは、暗くなるまで、非常に静かで礼儀正しい遊戯をして遊んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.122 より引用)
その会の中で、イザベラは一つの発見をします。

オクサマは英語の「マイ・レイディ」に相当し、結婚した婦人に対して用いられる。女性には姓はない。だから「佐口夫人」とは言わずに「佐口さんの奥さん」という。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.121 より引用)
なるほど。日本人の感覚では「佐口夫人」でも「佐口さんの奥さん」でも、大した違いがないように思えてしまうのですが、この両者に明確な違いを認めることもできるのですね。「女性には姓はない」というのは正しいと言えば正しいのでしょうね。少なくとも江戸時代は女性が姓を名乗ることはほぼ無かったでしょうし、そういった慣習が一朝一夕に廃れたとも考えづらいですからね。

さてさて、随分とお上品な「子どものパーティ」ですが、中にはこんな傑作な「遊戯」もあったのだそうです。

子どもの遊戯の一つは非常におもしろいもので、元気よく、しかも非常にもったいぶって行なわれる。それは一人の子どもが病気の真似をし、他の子どもが医者の真似をするのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.122-123 より引用)
これは……「お医者様ごっこ」ですよね! ただ、イザベラの見た「お医者様ごっこ」は随分と本格的なロールプレイングだったようで、

不幸にも、医者は患者を死なしてしまう。患者は、青白い顔をして、うまく死んだように眠ったふりをする。それから嘆き悲しみ葬式となる。こんなふうにして結婚式や宴会、その他多くの行事を芝居にする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.123 より引用)
……という、何ともリアルでシュール® なものだったのでした。

この子どもたちの威厳と沈着ぶりは、驚くべきものである。事実は、やっとしゃべり始めるころから日本礼法の手ほどきを受けるのである。だから、十歳になるときまでには、あらゆる場合に応じて、何をしたらよいか、何をしてはいけないのか、正確に知っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.123 より引用)
考えてみれば、「学校」はあくまで学問を修めるところであって、冠婚葬祭や礼儀作法といったものは「学問」とは本来別物なんですよね。学問を身につけるための「学校」という制度は発展途上だったのでしょうが、一方で礼儀作法などの「教育」は、就学前からしっかりと行われていたことが見て取れます。イザベラも、子どもたちの立ち居振る舞いには素直に驚いていたようですね。

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2015年9月21日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (47) 日光 (1878/6/23)

今日からは、1878/6/23 付けの「第十信」(本来は「第十三信」となる)を見ていきます。

静かな単調さ

イザベラは、これからの奥地紀行の準備を整えるために日光の入町村に十日ほど逗留しましたが、イザベラが入町村を気に入るのには、十日間の逗留は十分過ぎるほどだったようでした。

当地における私の静かで単調な生活も、終わりになろうとしている。人々はたいそう静かで優しい。ほとんど動きがなさすぎるほどである。私は村の生活の外面を少しばかり知ることができるようになった。私はこの土地が全く好きになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)
しかしイザベラはその一方で、当地の気候については壮大に愚痴っていました。ちょっと愚痴が過ぎたと思ったのか、普及版では見事にカットされているのが面白いですね。

しかし気候は失望させるものである。雨でない時は、空気はまるで蒸し風呂のようであり、雨が降る時はそれが一般的だがまるで激流です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.52 より引用)
本州は温暖湿潤気候ですから、まぁ仕方がないと言えばそれまでですが、内陸部の夕立はまさしくこんな感じですよね。イザベラが日光に逗留したのは 6 月だったようですから(旧暦は 1872 年に廃されているので、これは新暦ですよね)、ちょうど梅雨時まっただ中だったことになります。ちょっと時期が悪すぎましたね。

イザベラさんの愚痴は更に続きます。

気温は華氏72°から86°[約22℃~30℃]もあり、湿気もうもうとして縫い針も錆び、本も靴も白カビに覆われてしまい、道路も壁も菌 Protococcus viridis で日々ますます緑色になっています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.52-53 より引用)
当時はエアコンなどと言った文明の利器は無かったでしょうし、日光の入町はただでさえ急流が多い上に日当たりも良くはないところだったでしょうから、そのジメジメ度は相当なことだったでしょうね。ただ、優秀な地誌著述者だったイザベラさんにしては、本州の六月が長雨(梅雨)の時期である、という事実を書き漏らしているのがちょっと意外な感じがします。

日本の学校

とどまるところを知らないイザベラの観察眼は、今度は入町の子どもに注がれました。

道路には、四段や三段の階段がところどころに設けてある。その各々の真ん中の下に、速い流れが石の水路を通って走っている。これが子どもたち、特に男の子たちに限りない楽しみを与えている。彼らは多くの巧妙な模型や機械玩具を案出して、水車でそれらを走らせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)
石段の真ん中がくぼんでいて、そこを雨水が流れるという構造でしょうか。これは意図的な構造ではなく、偶々そうなったという類のものかもしれません。男の子が案出したという「機械玩具」はどのようなものだったのでしょう。さすがに木工はそう簡単では無いですから、竹細工あたりだったのでしょうか。

さて、ここからは明治初頭の「学校」の描写が始まります。

しかし午前七時に太鼓が鳴って子どもたちを学校に呼び出す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)
「太鼓」というのがとても日本的ですね。午前 7 時というのはちょっと早いような気もしますが、当時は夜更かしする子どももいなかったでしょうから、これくらいでちょうど良かったのかもしれません(あるいは午後からは労働力として期待されていたところもあったのかも)。

明治初頭の学校は、イザベラの想像に反して高度に西洋様式を取り入れたものだったようです。

学校の建物は、故国(英国)の教育委員会を辱しめないほどのものである。これは、あまりに洋式化していると私には思われた。子どもたちは日本式に坐らないで、机の前の高い腰掛けに腰を下ろしているので、とても居心地が悪そうであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.118 より引用)
家には「机」や「椅子」なんてものは無かったでしょうから、確かに慣れないうちはぎこちなく感じていたのでしょうね。

従順は日本の社会秩序の基礎である。子どもたちは家庭において黙って従うことに慣れているから、教師は苦労をしないで、生徒を、静かに、よく聞く、おとなしい子にしておくことができる。教科書をじっと見つめている生徒たちの古風な顔には、痛々しいほどの熱心さがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119 より引用)
明治初頭の学校には、昔の日本で見られた光景がありました。それにしても「従順は日本の社会秩序の基礎である」という一文は慧眼ですね。日本人の本質をあっさりと見透かされたような感じすらします。

外国人が入ってくるという稀な出来事があっても、これらあどけない生徒たちの注意をそらすことはなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119 より引用)
これについては、事前に十分なインフォームド・コンセントがあったのでしょうね。さすがに「欧米人は赤鬼だ」といった吹き込みは無かったでしょうが、たとえば今でも「授業参観」だの、エライ人の「視察」だのがあったりすると、「借りてきた猫」状態になることがありますよね。その辺が徹底されていたんじゃないかな、などと思ったりもします。

憂鬱な小歌曲

これまた意味深な題名ですが、実はですね……

子どもたちは、ある歌の文句を暗誦したが、それは五十音のすべてを入れたものであることが分かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119 より引用)
はい。「ある歌」の内容がこちらです。

それは次のように訳される。
  色や香りは消え去ってしまう。
  この世で永く続くものは何があろうか。
  今日という日は無の深い淵の中に消える。
  それはつかの間の夢の姿にすぎない。
  そしてほんの少しの悩みをつくるだけだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.119-120 より引用)
確かに、何とも陰鬱な、あるいは厭世的な歌のように思えます。……もうお気づきだと思いますが、これは「いろは歌」を英訳したものを再度和訳したものなんですね。ちなみに英訳はこちら。

“Colour and perfume vanish away.
What can be lasting in this world?
To-day disappears in the abyss of nothingness;
It is but the passing image of a dream, and causes only a slight trouble.”
「いろは歌」を翻訳したイザベラは、その内容を「憂鬱な歌である」と結論づけて、その本質を「東洋独自の人生嫌悪を示す」としました。

これはあの疲れた好色家の「空の空なるかな、すべて空なり」(「伝道の書」)という叫び声と同趣旨のものであり、東洋独自の人生嫌悪を示す。しかし幼い子どもたちに覚えこませるのには、憂鬱な歌である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
ちなみに、西洋でも似たような目的で使用される "Lorem ipsum" で始まるテキストがあります。広く使われるようになったのは 1960 年代以降らしいので、イザベラがそれを知るよしも無いのですが、こちらも元々は古代ローマの哲学者キケロの著作がベースなのだそうです。

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同様に、悲しみそのものを、それが悲しみであるという理由で愛する者や、それゆえ得ようとする者は、どこにもいない。
(Wikipedia 日本語版「Lorem ipsum」より引用)
んまぁ、確かに違うと言えば違うんですが、これも決して「快活な文章」とは言えないような気もするような……。まぁ、「いろは歌」は子どもに五十音を教えるための教材であって、その内容に思想を見出すのはちょっと穿ちすぎなんじゃないかなー、と思ったりもします。

中国の古典は、昔の日本教育の基本であったが、今では主として漢字の知識を伝達する手段として教えられている。それを適度に覚えこむために、子どもたちは多くの無駄な労力を費やすのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.120 より引用)
これまた厳しい見方ですね。イザベラが「表意文字」というものの概念をどの程度理解していたかを、ちょっと疑問に思えてきました。まぁ、過度に礼賛されてもその内容の信頼性が損なわれてしまうので、「アングロサクソン的な視点」が素直に綴られているほうが、こちらも見ていて面白いのですけどね。

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