2017年6月30日金曜日

江差線日帰りの旅「木古内 17:22」

木古内行き 4177D は、16:16 に江差を出発しました。

上ノ国 16:24

海沿いの国道の横を走り抜けて、7 分後に上ノ国に到着です。

中須田 16:28

上ノ国の次は中須田に停車します。中須田は、上ノ国と桂岡の開駅に遅れること 12 年後に設けられた駅でした。

桂岡 16:32

中須田から 3~4 分で、次の桂岡に到着です。

宮越 16:36

桂岡から宮越までも 3~4 分でした。集落から見て川の向こう側にある駅なので、駅の周りは殆ど何もありません。

湯ノ岱 16:47

上ノ国から宮越までは、ほぼ 3~4 分間隔で次の駅に到着していましたが、宮越から湯ノ岱までは 10~11 分ほどかけて走ります。往路ではそれほど「長いなぁ」と感じなかったのですが、思い返してみると間に「天ノ川駅」があったのでした。

神明 16:52

木古内町から分水嶺を越えて最初に停車した駅が神明でした。今は江差から木古内に向かっているので、この駅が日本海側の最後の駅ということになりますね。

吉堀 17:13

神明から分水嶺を越えて 13.2 km 先の吉堀に向かいます。江差線は道道 5 号「江差木古内線」に近いルートを通っていますが、神明から分水嶺までのルートは道道よりも直線的なルートを通っていたことに今頃気づきました。

渡島鶴岡 17:18

吉堀から 3.1 km で次の渡島鶴岡です。ほぼ平坦か若干下り坂の区間で 4~5 分かけているのは少々不思議な感じもするのですが、途中に減速を強いられる区間でもあったのでしょうか。終点の木古内まではあと少しですね。

木古内 17:22

渡島鶴岡から終点の木古内までは 2.3 km しかありません。江差線で 2 番目に駅間が短い区間だったんですね。
「知られざる江差線の旅」エクストラエンドは、一晩で超高速各駅停車を敢行してみました。「江差線各駅停車の旅」もついに木古内まで戻ってきたので、あとは東京に帰るだけです!

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2017年6月29日木曜日

江差線日帰りの旅「江差 16:16」

江差からは、16:16 発の木古内行き 4177D に乗車します。ということで久しぶりに……

1B 東京 6:32 → 新青森 9:47(東北新幹線「はやぶさ 1 号」)
4011M 新青森 10:16 → 函館 12:22 12:25(特急「スーパー白鳥 11 号」)
132D 函館 13:15 → 木古内 14:29
4174D 木古内 14:44 → 江差 15:51
4177D 江差 16:16 → 木古内 17:22

つまり、江差滞在は約 25 分ということになりますね。ん、終着駅の 25 分折り返し……どこかで聞いたような。

江差駅ホーム 15:58

発車まで少し時間がありますが、早めに車内に戻ることにしましょう。
やはり、早めに戻るとシートも選り取りみどりですね。進行方向左側の一番前のボックスを確保できました。これ以上無い場所……だと思います。
既に何度か記していますが、江差駅は街の商業的な中心地からは少々離れたところにあります。駅の隣の高台は閑静な住宅街®です。
間もなく 16:16 です。「知られざる江差線の旅」はエクストラエンドに突入します。

江差 16:16

木古内行きの 4177D は、定刻通りに江差駅を出発しました。駅を出発してすぐのところに何やら随分と立派な神社が見えますね……
やがて車窓に人工的な建造物が見えなくなり……
椴川を渡ります。次の上ノ国駅が近づいてきました。

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2017年6月28日水曜日

江差線日帰りの旅「江差駅前 15:55」

江差線の終点・江差駅にやってきました。東京駅を 6:32 に出発して、途中函館を経由して江差には 15:51 に到着しました。ここまで 9 時間 19 分が経過したことになりますね。

江差駅前 15:55

江差駅の駅舎を出て、駅前から駅舎を眺めてみます。右側が例の団体改札?ですね。
別アングルからもう一枚。この駅舎、いかにも国鉄らしい質実剛健なデザインに思えるのですが、やはり国鉄時代の 1975 年に改築されたもののようです。
そして駅舎の前には謎のゆるキャラが。城島さんでしょうか(たぶん違うと思う)。

江差駅前 15:56

駅前広場には函館バスさんのバス停もあります。
めちゃくちゃ本数が多いわけでも無いですが、かと言って一日数本と言うほどでもありません。道内基準だと本数が多いほうなのでしょうね。
ちなみにこのバス停ですが、江差駅が廃止されてしまったので、現在は「陣屋団地」という名前に変わったみたいです。そして、昨日の記事でも触れたように求心力の弱そうな場所だなぁ……と思っていたのですが、江差線の廃止後に設定された転換バスはこのバス停を経由していないとのこと。やっぱり……。
折り返しの木古内行きの発車までは 20 分ほどありますが、進行方向左側のボックスシートの数は限られているのでのんびりする訳にもいきません。ということで、帰りのシートを確実なものにすべく、駅に戻ります!

江差駅 15:57

「近距離きっぷ運賃表」がありました。これは 100 km 以内の駅が掲出されているのだったでしょうか。函館までは 86.7 km だからセーフで、渡島大野(現在の「新函館北斗」)は……あれ? 五稜郭乗り換えだと 94.4 km しか無い筈なのに……。
ただ、良く考えてみると「江差線」は「地方交通線」なので、「営業キロ」ではなくて「換算キロ」で距離を計算しないといけなかったのかもしれません。換算キロで計算すると、江差から渡島大野までは 102.4 km となります。なるほど、これだと 100 km を超えるのですね。

そして、江差線の時刻表はと言えば……ああっ!
外からの光が見事に映り込んでいるではありませんか。我ながら酷い写真だなぁ……(汗)。
北海道の有人駅と言えば、列車ごとに改札の開始を告げるシステムが印象的ですが、江差駅では「列車ごとの改札」は行っていないとのこと。駅員さんがいただけで御の字だったと言ったところでしょうか。

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2017年6月27日火曜日

江差線日帰りの旅「江差 15:51」

4174D は江差の市街地に入ります。終点の江差駅が近づいてきました。ちなみに写真の真ん中に見える建物は「五勝手生活館」と言うみたいですね。
海のすぐ側を走っていた江差線は、五勝手川の手前で内陸寄りに向きを変えて高台に向かいます。

古くからある鉄道線はなぜか高台を好む傾向にあるような感じがしてならないのですが、「高台の方が地盤が安定しているから」という説明がなされる場合が多いようですね。なんのことやら……と思ったりもするのですが、海岸すれすれを走る日高本線が波で路盤がやられたのを目の当たりにして、ようやく理解できたような気がします。
この写真だと、随分と高台に上がったことがわかりやすいでしょうか。

江差 15:51

4174D は、定刻通りに終点の江差に到着しました。
前述の通り、江差駅は海からやや離れた高台に設置されています。ただ不思議なのは、町の中心部から随分と南に離れたところに駅が設置されているのですね。ハートランドフェリーの奥尻行きフェリーが発着するフェリーターミナルまででも、1.7 km ほどの距離があります。

町役場は逆にやや北寄りにあるので、駅からの距離は結構なものがあります。もう少し町の中心部に近ければ、もう少し利用も伸びたりしなかったのかな、と思ったりもします。

ちなみに、江差線における上ノ国と江差の関係と、瀬棚線における北檜山と瀬棚の位置関係ってどことなく似てるような気がするのですが、そう言えば瀬棚駅も町の中心部から若干南にズレていたような気がします。建設費を節約したんでしょうかね……?

ホームの先端から上ノ国方面を望みます。もともとは二線に分かれていたのを、一線だけ廃止したような形状をしていますね。
終着駅の駅名標です。
江差は檜山振興局(かつての檜山支庁)が存在する町で、古くから港町として栄えたところです。沖合の陸繋島である「鷗島」の近くには、オランダ製の軍艦「開陽丸」のレプリカも展示されています。そんなこともあって、やはり「名所案内」も充実していますね。
え、これが改札口……? と思ったのですが、さすがにこれは違いますよね(吹きっ晒しで寒そうです)。いや、改札口であることに違いはないのでしょうけど、臨時改札口でしょうか。団体利用があったときなどに使用していたものでしょうか。

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2017年6月26日月曜日

江差線日帰りの旅「上ノ国 15:43」

中須田を出発すると、次は上ノ国町の中心駅・上ノ国です。
またしても「江差線田植えの旅」になってますが、気を取り直して……。

上ノ国 15:43

上ノ国には定刻通りに到着しました。日本の鉄道恐るべしですね……。
駅名標の左に建物が見えますが、これが駅舎です。残念ながら駅舎を写真に収めることには失敗してしまいましたが、今も「上ノ国町商工会館」という名前で健在のようですね。
江差線の中でも「町の代表駅」は実は数えるほどしかありません(上磯・木古内・上ノ国・江差の四駅)。そんな上ノ国駅ですから、「名所案内」もしっかりとしたものが用意されています。「北海道新幹線開業!」のラミネートで「名所案内」を覆ってしまったどこかの駅とは違います(汗)。

上ノ国駅の開業は江差線の湯ノ岱-江差間が開通したのと同時の 1936 年 11 月 10 日のことでした。駅名の由来は「上ノ国町だから」なんでしょうけど……。折角なので国鉄総局が作成した薄い本を見ておきましょうか。

  上ノ国(かみのくに)
所在地 (渡島国)桧山郡上ノ国町
開 駅 昭和11年11月10日
起 源 応永年間(1394~1427年)津軽安東氏の一族が下国・湊の二家に別れ、湊家は上国と称した。その後安東家はこの地に渡り、下国氏は茂辺地に居城をかまえたのに対し、上国氏はこの地に居城をかまえたので、この地を「上ノ国」と称した。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.18 より引用)
うわ、なんか本格的な歴史譚が描かれてますね。応永年間と言えば室町時代で、将軍職は足利義満、義持、義量の三代が世襲していた頃です。
ちなみに、上ノ国駅にも二本目の線路がありました。江差方は本線とつながっていなかったようですが、元々そうだったのか、あるいは一線スルー化のような工事がされたからなのかは良くわかりません。
これは構内踏切の跡でしょうか。だとすると旅客用ホームだったようにも見えますね。

江差近郊 15:47

上ノ国を出発すると、江差線は海に向かって北上します。次は終着駅の江差です。
江差線は、海のすぐ近くまで出た後、海沿いを走る国道 228 号「追分ソーランライン」と並走します。
函館バス 江差営業所の近くを通過したあたりで、江差線はもっとも日本海に近づきます。終点の江差までは、あと僅かです。

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2017年6月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (449) 「見日・人住内川・相沼」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

見日(けんにち)

kene-us-i
ハンノキ・多くある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
八雲と八雲町熊石を結ぶ「雲石峠」という峠があります。雲石峠は国道 277 号が通っているのですが、熊石側は「見市川」沿いのルートを通っています。その「見市川」の河口のあたりが「熊石見日町」です。川の名前は「見市川」(けんいち──)ですが地名は「熊石見日町」(けんにち──)です(色々とややこしい)。

ただ、由来はそれほどややこしくないようで、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ケンニチ
人家十五六軒。村名本はケ子ウシと云。赤楊多き地なれば号し也。其を訛りてケンニチと云し由。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.259 より引用)
なんと、kene-us-i(「ハンノキ・多くある・もの」)が訛って「ケンニチ」になった、という説のようです。

永田地名解にも、ほぼ同じようなことが書いてありました。

Keneni ushi  ケネニ ウシ  赤楊多キ處 和人見日(ケンニチ)ト訛ル
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.147 より引用)
ほう。ただ、この解については山田秀三さんの「北海道の地名」で少々ツッコミが入っていました。

永田地名解は「ケネニ・ウシ。赤楊多き処。和人見日と訛る」と書いたが少し変だ。ふつうケネニと使わない。たぶん,ケネウシ「kene-ush-i はんの木・群生する・者(川)」であったろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.443 より引用)
そういや確かに「ケネニ」という表現は聞かないですね。アイヌ語で「木」を意味するとされる語彙の中には、正確には「樹皮」を意味するものが多く、そう言った語彙の場合は明確に「木」を指すために -ni を付加するものがあります(たとえば sikerpesikerpe-ni など)。ただ、kene の場合はそれ自体が「ハンノキ」を意味するので、kene-ni という表現はおかしいよ、ということなのでしょうね。

人住内川(ひとすまない──)

pito-osmak-nay?
小石・うしろ・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
熊石見日町の南東 2 km ほどのところを流れている川の名前です。その名の通り周りに住居と思しき建物は見当たりません。

手持ちの資料には殆ど記載が見当たらなかったのですが、唯一「竹四郎廻浦日記」に次のような記載が見つかりました。

ヒトシマナイ 稲荷の社有。砂浜
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.259 より引用)
ふむふむ。この「ヒトシマナイ」がアイヌ語由来であることが前提ですが、もしかしたら pito-osmak-nay で「小石・うしろ・沢」あたりでしょうか。

osmak という語彙は比較的珍しいように思えますが、一応知里さんの「──小辞典」にも記載があります。最初は pit-o-suma-nay で「小石・多くある・岩・沢」かと思ったのですが、それだと当初から「ヒトスマナイ」だったことになっちゃいますよね。

相沼(あいぬま)

aynu-oma-nay
アイヌ・そこにいる・沢
(典拠あり、類型あり)
旧・熊石町の南部の地名です(熊石相沼町)。「相沼内川」という川が流れていて、川の北側が「熊石相沼町」、南側が「熊石折戸町」です。

川名を見た時点で答が分かったも同然……と思っていたのですが、「竹四郎廻浦日記」には「え?」と思わせる内容が記されていました。

     相沼内村
村名はアイ(蕁麻)多きよりして号しとかや。人家百六十二軒(前私領の頃百八十軒)、人別七百人、馬三十八疋。海産鯡・鱈・烏賊・飽・海鼠・海草類・雑魚多し。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.258 より引用)
若干余計に引用してみたのは、思った以上に大きな集落だったんだなぁ……と驚いたからで、他意はありません。改めて地図を見てみると、「熊石折戸町」から「熊石相沼町」「熊石館平町」「熊石泊川町」までずーっと建物が続いているんですよね。なるほど、「相沼内村」全体の規模だとしたら、決して誇張でも何でもない数字なのかもしれません。

本題に戻りますと、「相沼内」は ay-oma-nay で「蕁麻・そこにある・沢」ではないかと考えたようです。一方で永田地名解には想定通りの解が記されていました。

Ainu oma nai  アイヌ オマ ナイ  土人居ル澤 相沼内(アイヌマナイ)村ト稱ス「アイノマナイ」ト云フハ急言ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.147 より引用)
普通はこの解釈になりますよね。山田秀三さんの「北海道の地名」にも、この解を踏襲した内容が記されていました。

アイヌ・オマ・ナイ(アイヌがいる・沢)の急言で,アイノマナイと呼んだ。アイヌは「人」と読むのか,アイヌと読むのか分からないが,この相沼内については,上原熊次郎は「蝦夷の住む沢といふ事。此所長夷の子孫私領の節,正月二日松前に罷出,領主え年賀し候事古例なる由」と書いている。それだと和人が相当入り込んで来た後での地名ということになる。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.443 より引用)
ということで、「相沼」こと「相沼内」は aynu-oma-nay で、「アイヌ・そこにいる・沢」と考えるのが自然かなぁと思います。それにしても、「人住内川」からそれほど遠くないところに「相沼内川」があるというのもなんか面白いですよね。

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2017年6月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (448) 「関内・熊石・平田内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

関内(せきない)

supki-nay
茅・沢
(典拠あり、類型あり)
熊石町(今は合併して八雲町熊石ですが)最西端の集落の名前で、同名の川も流れています。「かんない」じゃなくて「せきない」なので気をつけましょう。

この「関内」、東西蝦夷山川地理取調図には「セキナイ」と記されていますが、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

平磯転太石浜壱丁斗にして、
     関 内 村
人家十二軒、熊石村分也。此処北はタン子シタ、南卜ヽメキ岬の間にて一小湾をなし。其間小川有て、其手前に村居す。皆漁者のみ也。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.264 より引用)
うーん、残念ながらヒントは無さそうですね。一方で「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。

セツキナイ(人家十餘軒、小海、船懸りよし)、關内に改む。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.10 より引用)
ふむ。どうやら元々は「セツキナイ」あるいは「セッキナイ」という地名だったのでしょうか。……と思ったのですが、永田地名解には意外な解が記されていました。

Shupki nai  シュㇷ゚キ ナイ  茅澤 關内村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.146 より引用)
ほう。……なるほどねー。「スㇷ゚キ」が「セツキ」に化けたという説ですが、確かにありそうな感じもします。今日のところはこの説に乗っかっておこうとおもいます。supki-nay で「茅・沢」としておきましょう。

熊石(くまいし)

kuma-us-i
魚乾棚・多くある・もの(ところ)
(典拠あり、類型あり)
かつて、久遠郡大成町(現・せたな町)と爾志郡乙部町の間に「爾志郡熊石町」という自治体がありました。「熊石雲石(──うんせき)町」のあたりに「熊石漁港」があるので、元々はこのあたりを指す地名だったと思われます。

八雲町に合併後は、旧・熊石町の地名に軒並み「熊石──」がつけられたので、「八雲町熊石○○町」がわんさかある状態です。

アイヌ語通訳のパイオニアとして知られる上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」には、次のように記されていました。

熊 石        泊所 蚊柱村 江 三里程
  夷語クマウシなり。則、網屋(ナヤ)の生すと譯す。扨、クマとは魚類、又は網等干に杭の上に棹を渡したるをいふ。「是を」松前の方言 ニ ナヤといふ。ウシは生すと中事にて、昔時、此辺漁事多くありて、鯡、鱈、鮊其外、網屋の夥敷ある故、此名ある由。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.88 より引用)※「」内は引用元書籍による。

「鮊」は「さわら」と読むそうです。また「鮊子」だと「いかなご」なのだとか。

扨(さて)、上原熊次郎説について検討する前に、ささっと「西蝦夷日誌」も見ておきましょうか。

其熊石も本名はクマウシにして、魚棚多との訛りし也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.10 より引用)
ありゃ。随分とあっさりと片付きましたが、書いてあることは「蝦夷地名考并里程記」も「西蝦夷日誌」も同じことで、kuma-us-i で「魚乾棚・多くある・もの(ところ)」と考えて良さそうです。

ちなみに、西蝦夷日誌には続きもありまして……

村人は夷言たる事を忘て、雲石とて雲の如き石有故號(なづ)くといへり。信ずるに足らず。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.10 より引用)
この一文から推測するに、現在「雲石町」は「うんせき──」と読んでいますが、もともとは「くもいし──」だった可能性がありそうな気がします。

永田地名解にも似たような話が書いてありました。

Kuma ushi  クマ ウシ  魚乾竿アル處 熊石(クマウシ)村ノ原名ナリ松前人「ウシ」ヲ「イシ」ニ訛ルコト甚ダ多シ或人云村内ニ雲石ト稱スル大岩アリ熊石ハ雲石ノ訛ナリト按スルニ雲石ノ側ニ雲石山門昌庵ト稱スル曹洞宗アリ此庵ハ雲石ノ側ニ在ルヲ以テ雲石山ト稱シタルノミ「クマウシ」ノ地名處々ニアリ怪シムニ足ラズ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.146 より引用)
えーと、「熊石」が「雲石」から来てるという説があるけれど、「雲石」よりも「熊石」のほうがあちこちにあるので、やっぱ「熊石」がオリジナルなんだよ、と言ったところでしょうか。さて、「雲石」は「うんせき」なのか「くもいし」なのか、気になって昼寝もできませんね。

ヤンカ山

2010 年のアルペンスキー総合チャンピオンにカルロ・ヤンカという人がいますが、多分関係ないですよね(絶対関係ない)。

この「ヤンカ山」ですが、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました

此辺は両岸峨々として山聳え、左りの方を ヤンケ岳と云、右の方 ヒヤミツ岳と云。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.261 より引用)
これは「ヒラタナイ」こと「平田内川」を遡った際の記録なのですが、平田内温泉の手前あたりの描写と考えられそうです(左に「ヤンカ山」、右に「冷水岳」が見える)。

「ヤンカ山」あるいは「ヤンケ岳」という音から想像できるのは、やはり yanke(「陸に上げる」)でしょうか。少し気になるのは、東西蝦夷山川地理取調図では「ヒラタナイ」の西側に「ヤスケサキ」という地名が記されていることです。yas-ke であれば「掬われる」と言った意味に取れそうな気も……。あるいは「花畔」のように yas-otke で「網・群在させる?」とも……?

なお、東西蝦夷山川地理取調図には現在の「突符山」にあたる山に「ヤンカ岳」と記されています。

平田内川(ひらたない──)

pira-ta-san-nay
崖・そこにある・山から浜に出る・沢
(典拠あり、類型あり)
熊石平町と熊石鮎川町の間を流れる川の名前です。全く同名の川が久遠郡せたな町大成区平浜にも流れていますが、大成の平田内川が 1 km 程度の短い川だったのに対し、熊石の平田内川はざっくり計測しても 10 km はあります。長さだけで言えば熊石の圧勝です(何の話なんだか)。

大成の「平田内川」は pira-ta-nay で「崖・そこにある・沢」じゃないかという話でしたが、熊石の「平田内川」の地名解は果たしてどうでしょうか。散々盛り上げておいて全く同じだったというオチが一番ありそうなのですが……(汗)。

ということで、永田っちにお伺いを立ててみました。

Pira ta san nai  ピラ タ サン ナイ  崖ノ方ヘ流ル川 此川口ニ白岩アリ屏立ス故ニ名ク
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.146 より引用)
おお。意外や意外、若干ニュアンスを変えてきました。pira-ta-san-nay で「崖・に・山から浜に出る・沢」となるのですが……どうにも据わりの悪い解ですね。「崖・そこにある・山から浜に出る・沢」だったら多少マシでしょうか。

san がどこに消えたのか……というか、永田っちがどこから san を引っ張ってきたのかが謎ですが、他に有力な情報もなさそうなので、今日のところは一旦この解で行こうと思います。

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2017年6月23日金曜日

江差線日帰りの旅「桂岡 15:35、中須田 15:38」

集落からポツンと離れたところにある宮越を後にして、次の桂岡に向かいます。宮越から桂岡までは 2.2 km しかありません。
車窓には幾重にも折り重なった緑が広がります。一言に「緑色」と言っても、自然に広がっているだけでこれだけバリエーションがあるんですね。

桂岡 15:35

好評の「江差線田植えの旅」もほどほどに、次の桂岡にやってきました。進行方向右側にホームがあり、車掌車を改造した「ダルマ駅舎」があります(残念ながら写真に収めることはできず)。「ダルマ駅舎」、初めて見た時は「ひでーな」と思ったものですが、最近は風情があっていいなぁと思えるようになってきました。いやはや勝手なものですね……(汗)。
こちらの駅名標は、サッポロビールの提供でお届けしております。
桂岡駅は一線スルー構造のようなのですが、良く見ると側線の存在を確認できます。ただ、側線の江差側にダルマ駅舎が置かれているので、列車のすれ違いはできなかったようですね。
再び駅名標の写真ですが、ホームの向こうにもう一つのホームが見えます。都市部の終着駅に良くありそうな、行き止まりの線路の両側にホームがある構造のようにも見えますね。これも貨物用……だったのでしょうか?

中須田 15:38

江差行きの 4174D は、次の中須田に向かいます。桂岡から中須田までも 2.1 km しかありません。
中須田駅のホームと駅舎です。かろうじて駅舎も僅かながら見えていますが、この駅も車掌車を改造した「ダルマ駅舎」の駅だったんですね。
桂岡は 1936 年に湯ノ岱-江差間が開通した時に同時に開業した駅でした。一方、桂岡から 2.1 km 先の中須田駅は、1948 年に住民の陳情で仮乗降場として設置され、1955 年に早くも駅に昇格したのだとか。

桂岡と中須田の集落はそれほど規模に差が無さそうですが、中須田は豊田集落からも近かったので、中須田にも駅を設置するという判断は妥当なものだったのかもしれませんね(江差線は道道 5 号よりも豊田集落寄りを通っていました)。

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2017年6月22日木曜日

江差線日帰りの旅「宮越 15:31」

江差行きの 4174D は、「天ノ川駅」の傍を通過して、次の停車駅・宮越に向かいます。
どうしても川と緑のコントラストが美しいもので、つい何枚も撮影してしまいます。
これは……左端が切れているのが実に惜しいのですが、川の流れがほぼ直角に曲がっているところです。ここまで綺麗な直角ターンは珍しいのではないかと……。

宮越 15:31

宮越には定刻通り 15:31 に到着しました。この建物はホームから少し離れているので駅舎ではない……かと思ったのですが、
こちら、駅舎だったようです(駅舎ではなく単なる「待合室」だ、という説もあるようですが)。ちなみに、駅の周りには他に殆ど建物が見当たらないのですが……
駅前に「天ノ川」こと「天野川」を渡る大きな橋がかかっていて、
川向うに「宮越」の集落があったのでした。湯ノ岱ほどでは無いですが、それなりに建物の多そうな集落です。

宮越駅の開業は渡島鶴岡駅と同日の 1964 年 12 月 30 日のことでした。「北海道駅名の起源」には次のように記されています。

  宮 越(みやこし)
所在地 (渡島国) 桧山郡上ノ国町
開 駅 昭和 39 年 12 月 30 日 (客)
起 源 この地の字(あざ)名「宮越」からとったものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.17 より引用)
ふぅーむ。集落の名前は「宮越」のようですが、宮越の西で天野川に合流する支流の名前は「宮越内川」という名前のようですね。アイヌ語に由来する川名からとった地名、でしょうか。

宮越付近 15:32

宮越駅を出発してすぐの地点で宮越内川が天野川と合流しています。そのすぐ下流には頭首工?がありました。川の向こうに「宮越」の集落が見えますね。

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