2017年11月30日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (205) 「測量山の三角点」

測量山の山頂広場には、いかにも「測量山」という名前に相応しいスポットがありました。こちらです!
……実に地味な佇まいですが、「大切にしましょう三角点」という標柱の横に、「三角点」がありました。
「測量山の三角点」、もっと大々的に売り込んでもいいのになー……などと思ったりもします。などと言いながら、今のまま大した注目を浴びることなく、さりげない存在のままあり続けるのも悪くないかなぁ、と思ったりもするのですけどね。

たぶん最高峰

標高 199.4 m の測量山は、絵鞆半島の最高峰でもあります(たぶん)。ということで、山頂広場では 360 度(たぶん)のパノラマを楽しむことができます。
こちらは西を向いたパノラマ写真です。リストアップされたスポットは「恵山岬」「駒ケ岳」「有珠山」「昭和新山」「羊蹄山」と言った遠くの山々もあれば、「追直漁港 M ランド」「マスイチ展望台」「ハルカラモイ」「大黒島」「白鳥大橋」「道の駅『みたら室蘭』(白鳥大橋記念館『みたら』」と言った近くのスポットが並び、トリが何故か「JK 日鉱日石エネルギー室蘭製油所」だったりします(笑)。

ちなみに、こちらが北西方向を実際に撮影したものですが、「祝津展望台」が見えているのがおわかりでしょうか?
よーく探してみると、左側に見えてるんですよね。

電波飛びまくり

東を向いたパノラマ写真には、「室蘭岳」「日鐵セメント」「新日本製鐵」「イタンキ浜」「地球岬」「追直漁港」そして「旅客船バース(中央埠頭)」「フェリーターミナル」「日本製鋼所」「入江運動公園」「JR 室蘭駅」がリストアップされています。景勝地から鉄鋼関連までワイドな品揃えが光りますね。
そして、室蘭随一のビュースポットである測量山は、ビュースポットであるが故に電波を飛ばすにも最適な場所です。ということで、
電波塔立ちまくりの電波飛ばしまくり状態だったりします(もう少しマシな表現はできないのか)。ですからもちろん、パノラマ写真にもバッチリと電波塔が映り込んでいたりします。

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2017年11月29日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (204) 「測量山」

ということで「測量山」にやってきました。この奇妙な山名は、明治 5 年に室蘭から札幌までの道路を建設するにあたり、米国人技師が測量を行うためにこの山に登ったことに由来するのだそうです。
モニュメントには日本語と英語の説明文が埋め込まれていました。英語版には「MT. SOKURYO (SURVEY MOUNTAIN)」と記されています。非常に正しい和訳ですね(笑)。
日本語のほうには「緑の風に吹かれて」と題された詩的なエッセイ?が記されています。ふむ、アイヌ語で hoske-sampe と呼ばれていたのですね。確かに「最初に出てくるもの」と読み解けそうです。この呼び名は、沖合いから室蘭に向かって舟を走らせた際に、最初に見えるのがこの山だから、ということのようですね。

山頂広場入口

では、NHK の建物の横にあるこの階段を登って「山頂広場」に向かいましょう。
山頂広場に向かう階段ですが、何故か途中からこのような覆いがついています。
一見すると「屋根なのかな?」と思ってしまいそうですが、良く見ると穴が開いているどころかすき間もあるので、これでは雨を凌ぐには厳しそうです。
では一体何のために……という話なのですが、何のためなんでしょうね(汗)。HTB の建物(とテレビ塔)の近くだけ覆われているようにも見えるので、テレビ塔からの落下物?対策なんでしょうか……?

山頂広場の謎のオブジェ

測量山の「山頂広場」にやってきました。
台の上には、これまた謎なオブジェが……。何でしょうこれは。
台座の文字は有名な方の揮毫だったりするのでしょうか。割と癖のない、読みやすい字ですよね。雨風に曝されているが故の色落ち加減なども、年月の経過が感じられて素敵です。

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2017年11月28日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (203) 「ただ今、通信訓練を行っています」

ハルカラモイから再び道道 844 号「祝津西小路中央線」に戻ってきました。右手奥の山の上にはアンテナが山のように見えていますね。いや最初から山か(何を言っているんだ)。
測量山の麓をクネクネと走ること 3~4 分、測量山の山頂に向かう道との分岐点にやってきました。

測量山山頂→

右折して測量山に向かいます。道がちょっとだけ狭くなったような気もしますが、一応センターラインもあります。
次なる分岐点にやってきました。このまま直進すると「マスイチセ」を経由して「ハルカラモイ」に戻ることができます。ただ「通行止」の立て看板の上に「休工中」のマグネットが貼られていたので、この日は「近寄らないほうが無難……」と判断しました。
測量山の山頂に向かうには、右側に行けばいいのですね。

ただ今、通信訓練を行っています

看板に導かれるままに車を走らせてみたところ……。
なんか、山頂とは思えないところにやってきてしまいました。いや、「山頂広場入口」とあるので山頂に向かうことができるのでしょうけど、
なんか自衛隊の車輌が 3 台も並んでいて……
良く見ると「ただ今、通信訓練を行っています。」という紙まで。移動基地局を運用する訓練とかでしょうか?

おなじみのあのロゴ

そして建物にはおなじみのあのロゴが。測量山に電波塔がたくさん立っているのは麓からでも一目瞭然なのですが、単にアンテナがあるだけじゃないんですね……。そういや函館山もこんな感じだったのを思い出しました。

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2017年11月27日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (202) 「ハルカラモイ」

祝津公園の駐車場に戻ってきました。次のスポットに向かうことにしましょう。
高台にある公園(の駐車場)からの坂を下る途中、真正面に白鳥大橋が見えます。
道道 844 号「祝津西小路中央線」を進みます。道道はこの先の交叉点で右に曲がりますが、曲がった先に「マスイチ浜」と「測量山」があるようですね。

立入禁止!

測量山に向かうには、220 m ほど先を左折して、引き続き道道 844 号を進む必要があるのですが、なんとなく直進して海を見てみようと思い立ちました。
坂を登った先は……
うわぅ! T 字路の先でいきなり「立入禁止」と言われてしまいました。実はこの絶景、ハルカラモイというビュースポットでした。その割には「立入禁止」しか看板が無かったような気もしますが、チキウ岬やトッカリショ岬と言った有名ビュースポットが既に存在する以上、改めてハルカラモイに展望台などを整備する意味はない……のかもしれません。
こんな感じで結構な断崖ですし、整備するとしたら山の上まで遊歩道を建設するなどになるのでしょうが、そこまでして自然に手を加えることもありませんしね。

右か、左か

ハルカラモイのところは T 字路になっていて、右折すると絵鞆岬方面に向かう(戻る)ことができるのですが、1.5 車線程度の(道内にしては)狭い道です。舗装はされているみたいですけどね。
そして、T 字路を左折すれば「マスイチセ」を経由して測量山の南側に向かうことができるのですが、この道も結構狭そうですし、何やら道路工事が行われているっぽい雰囲気もあったので、素直に U ターンすることにしました。

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2017年11月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (489) 「ブイタウシナイ川・シラリカ川・黒岩」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ブイタウシナイ川

puy-ta-us-nay
エゾノリュウキンカの根・掘る・いつもする・沢
(典拠あり、類型多数)
JR 函館本線・鷲ノ巣信号場の少し北で直接噴火湾に注いでいる川の名前です。ほぼ同名の川が道内のあちこちにあったでしょうか。ちらっと調べた限りでは留萌と初山別にあるようですね。

永田地名解には次のように記されていました。

Pui ta ush nai  プイ タ ウㇱュ ナイ  プイ草ヲ取ル川 「プイ」ハ延胡索又流泉花ト云フ土人其根ヲ堀リ食フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.166 より引用)
はい。puy-ta-us-nay で「エゾノリュウキンカの根・掘る・いつもする・沢」と考えて良さそうです。山田秀三さんの「北海道の地名」にも次にように記されていました。

 意味は pui-ta-ush-nai「えぞりゅうきんか(の根)を・掘る・いつもする・沢」であった。このプイ草の根は好んで食料にしたもので,この類の地名が道内各地に多い。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.417 より引用)

シラリカ川

sirar-ika
岩・越える
(典拠あり、類型あり)
八雲町北部で直接海に注ぐ川の名前です。雨竜町の「尾白利加」と音が似ているので、てっきり意味もほぼ同じじゃないかと思っていたのですが……。

「東蝦夷日誌」に次のような記述が見つかりました。

シラリカ(小川、夷家七軒、書所、番やあり)シラリイカの略にて、汐越る義。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.22 より引用)
また、永田地名解にも次のように記されていました。

Shirar-ika,=shirara ika  シラリカ  潮溢ル小川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.167 より引用)※ 原文ママ

なるほど。sirar-ika で「岩・越える」と考えられるのですね。

さて、ここまでご覧になって「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。と言いますのも、「東蝦夷日誌」や「北海道蝦夷語地名解」では sirar を「汐」あるいは「潮」と訳していますが、本項ではしれっと「岩」に改めています。

sirar は古くから「汐」と訳されてきましたが、実はそのような意味は無い……と唱えたのは他ならぬ知里さんでした。例によって孫引きで申し訳ありませんが、山田秀三さんの「北海道の地名」に次のように記されていました。

 上原熊次郎地名考は「シラリイカの略。則ち潮のさすと訳す」と書き,以後松浦武四郎も,永田地名解もこのシラル(シラリ,シララ)を「潮」と訳した。バチラー辞典も「潮」と書いている。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.416 より引用)
はい、そういうことでしたね。ところが……

 ところが知里博士に至って,シラル(shirar)は「岩」で,潮の意はないとされた。満潮のことをシラリカというのはシラル・イカ「岩礁が・溢れる」の意。干潮をシラル・ハというのは「岩礁が・空になる」意だとされた(地名アイヌ語小辞典)。その言葉からシラルを潮と誤られたのだろうとの意見で,どうもそうらしく思われる。従来説の否定であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.416 より引用)
アイヌ語の語根の分析に熱心だった知里さんは、他にも面白い「語根解」をたくさん残していますが、地名解の世界では特にこの sirar の新解釈が斬新なものでした。

ただ、この斬新な解釈から導き出された「岩・越える」という解釈について、山田さんはフィールドワーク面から疑問を呈していました。

 しかし,この川口の辺は一帯の砂浜で岩礁らしいものが見えない。困って近辺の漁家を訪れて聞いて見たら,このあたりには岩はないようだ。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.416 より引用)
そして、山田さんは現地で感じた違和感を次のように締めていました。

 とにかく上原氏から永田方正に至るまでの諸家がシラルを岩としなかったのは,見たところ岩がなかったからだろうか。シラル(岩)という言葉を確認するためにも,もう一度現地を調べ直して見たいと思いながら果たせないで来たのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.416 より引用)
うーん、このシラリカ川にこんな深い問題が眠っていたとは……。

あっ、そうそう。雨竜の「尾白利加」と大体同じじゃないかと思った件ですが、やっぱり大体同じだったみたいです(汗)。

黒岩(くろいわ)

kunne-suma
黒い・岩
(典拠あり、類型あり)
八雲町北部の海沿いの地名で、JR 函館本線に「黒岩駅」という駅があります。ということでまずは「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  黒 岩(くろいわ)
所在地 (胆振国) 山越郡八雲町
開 駅 明治 36 年 11 月 3 日(北海道鉄道)(客)
起 源 アイヌ語の「クンネ・シュマ」(黒い岩) から出たもので、付近の海岸には柱状節理の黒灰色の岩礁が海上に突出している。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.11 より引用)
確かに、地形図を見ると黒岩集落の南側の海岸に「黒岩奇岩」という岩の存在が確認できます。「但シ,コノ岩,崩壊シテ今ハナシ」では無かったのは何よりですね。

「黒岩」という地名が成立したのは随分と古いようで、「東西蝦夷山川地理取調図」でも既に「クロイワ」と記されています。元は kunne-suma で「黒い・岩」だったとされるのですが、確かに「竹四郎廻浦日記」に次のように記されていました。

     クン子シユマ
此所に大なる黒き岩有。依てまた黒岩共云也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.589 より引用)
アイヌ語の意味が正しく理解されていて、それがそのまま和訳された地名だったということになりそうですね。

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2017年11月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (488) 「サックルベツ川・ピラマントウシナイ川・キムンタップコップ岳・トワルタップコップ岳」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

サックルベツ川

sak-ru-pet
夏・路・川
(典拠あり、類型あり)
トワルベツ川の支流の名前です。トワルベツ川と同様、下流部では著しい蛇行が見られるのが特徴的でしょうか。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 サックルベツ川
 トワルベッ川の右支流。サックルは夏通る路の意。夏にこの川を伝って山越えをした川ということ。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.17 より引用)
至極妥当な解が出てきました。sak-ru-pet で「夏・路・川」と解釈すれば良いようです。まぁ、普通はそう考えるしか無いですよね。

ややこしいことに、キムンタップコップ岳の西側、今金町にも「サックルベツ川」があります。なるほど、今金町奥沢に向かうにはサックルベツ川沿いのルートがベストだったと考えられそうですね。「夏の道」と呼んだのは、雪深くなるなどの理由で冬場は利用できないルートだったということでしょうね。

ピラマントウシナイ川

pira-oman-turasi-nay?
崖・行く・それに沿って登る・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
クオペタヌ川の北隣を流れる支流の名前です。

では早速、今回も更科さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょうか。

 ピラマントウシナイ川
 トワルベツ川の左小川。アイヌ語では、崖に行く沼の多い川の意かと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.17 より引用)
思われてしまいました(汗)。今回も至極妥当……とはちょっと思えないんですよねこれが。どのあたりに引っかかりを覚えるかと言うと、まぁ勘のようなものなのですが(汗)。「ん、それは変ではないかい?」と思えるのです。まぁ、端的に言えば「沼なんてどこにも無いじゃん」ということなんですけどね。

で、諸々検討していて気づいたのですが、これって pira-oman-turasi-nay で「崖・行く・それに沿って登る・沢」だったのでは無いでしょうか。「トウシ」が「トラシ」の誤読だったんじゃないか、という説です。

傍証……と言えるかどうかは微妙ですが、明治期の地形図には、トワルベツ川の西支流としてキムンタップコップ岳の東側に「ルトラシナイ」という名前の川が記録されています(「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルヘシヘナイ」という川が記録されていて、もしかしたら同一の川だったかもしれません)。

ru-turas-nay は「道・それに沿って登る・沢」ですね。おなじみ ru-pes-pe-nay は「道・それに沿って下る・もの・沢」と読み解けます。両者の違いは「登る」と「下る」程度です。

キムンタップコップ岳

kim-un-tapkop
山・にある・円山
(典拠あり、類型あり)
八雲町と今金町の境界に存在する、標高 322 m の山の名前です。サックルベツ川(八雲町)の支流とサックルベツ川(今金町)の間に聳えています(ややこしい)。分水嶺を形成する山ですが、頂上部は 50 m ほどの高さの円丘のようになっています。

今回も更科さんの「アイヌ語地名解」を見てみます。

 キムンタッコップ岳
 八雲町と今金町との境をする瘤山。キムンは山奥のということ。タップコップはタンコブということ。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.17 より引用)※ 原文ママ

はい。kim-un-tapkop で「山・にある・円山」と考えて間違い無さそうです。「山」という意味の語彙は nupuri が有名ですが、nupuri が実体としての山であるのに対して、kim は概念としての山を意味します。

kim-un に対抗する概念としては pis-un という言い回しがあります。これは「浜(のほう)・にある」と解されますね。

トワルタップコップ岳

tuwar-tapkop
生ぬるい(川の近くの)・円山
(典拠あり、類型あり)
トワルベツ川の水源にほど近い、キムンタップコップ岳の北東に位置する山の名前です。どう考えてもそのまんまなのですが(汗)、一応、今回も更科さんの「アイヌ語地名解」を見ておきましょう。

 トワルタプコップ岳
 キムンタプコップ岳と並ぶ瘤山。トワルはなまぬるいということ、なまぬるい川(トワㇽ、ぺッ)の水源にあるので。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.17 より引用)※ 原文ママ

はい。逐語訳だと tuwar-tapkop で「生ぬるい・円山」ということになりますが、山が生ぬるかったのではなく「生ぬるい川の(近くの)円山」と解釈すべきでしょうね。わざわざ tapkop の前に tuwar がついているのは、kim-un-tapkop との混同を避けるためだったのでしょう。

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2017年11月24日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (201) 「祝津展望台」

白鳥大橋を渡って、道道 699 号「室蘭港線」をドライブしていたのですが、右折した先に「祝津展望台」なるスポットがあるとのことで、行ってみることにしました。
ということで「祝津展望台」の駐車場に到着しました。平日の中途半端な時間だからか、駐車場には他車の姿は無く……。とりあえず、展望台まで歩いてみました。
展望台からは……おっ、白鳥大橋が良く見えますね。
橋を中心に撮影してみました。白鳥大橋は長さの割には車線も少なく、また鉄道を通すことなども考慮されていないので、割とシンプルな構造です。

室蘭八景……?

橋の説明と、「室蘭八景」なるものの紹介が並んでいます。
「室蘭八景」は「室蘭港の夜景」「測量山の展望」「黒百合咲く大黒島」「絵鞆岬の景観」「金屏風・銀屏風の断崖絶壁」「マスイチ浜の外海展望」「地球岬の絶景」「トッカリショの奇勝」なのだそうです。……白鳥大橋の名前はありませんが、「室蘭港の夜景」に辛うじて含まれるような感じでしょうか。
展望台の中央には謎のオブジェが。シスコシステムズでしょうか(絶対違うと思う)。

絶海の孤島?

白鳥大橋から少し外海のほうに視線を移すと、こんもりした形の島が見えます。あれが有名なアルカトラズ……ではなく「大黒島」でしょうか。先ほどの「室蘭八景」にも「黒百合咲く大黒島」とありましたね。
島をよーく見ると、頂上に灯台と思しき建物があります。絶海の孤島の一軒家と言えばミステリーの定番ですね。そう言えば、映画版「名探偵コナン」で室蘭の崎守埠頭にジャンボジェットを不時着させる回がありましたね。
ちなみに、大黒島よりも手前には、随分と小さくなりますが「恵比須島」もあります。こうやってセットになっているとわかりやすいですね。

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2017年11月23日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (75) 津川(阿賀町) (1878/7/2)

1878/7/2 付けの「第十四信」(初版では「第十七信」)を見ていきます。初版の「完全版」では漆に関する話題に脱線していましたが、ようやく純粋な旅行記に戻るようです。

津川の宿屋

イザベラ一行は津川(阿賀町)に投宿しました。宿屋は混雑していたものの、イザベラには「群衆から離れた庭園の中の静かな二部屋」が与えられたようです。

伊藤は、どんなところに到着しても、常に私を部屋に閉じこめて、翌朝の出発まで重禁錮の囚人のようにしておきたがる。ところがここでは、私は解放された身となって楽しく台所の中に腰を下ろしていることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)
おやおや、これは一体どんな心境の変化があったのでしょう。図らずも自由の身となったイザベラは、宿の主人と会話を交わしたようです。

宿の主人は、もとは武士という、今では消滅した二本差しの階級(士族)である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)
この一文が原文ではどうなっていたのか確認してみました。

The house-master is of the samurai, or two-sworded class, now, as such, extinct.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど……見事な和訳ですね。

下層階級の人たちとくらべて、彼の顔は面長で、唇は薄く、鼻はまっすぐ通り、高く出ている。その態度振舞いには明らかな相違がある。私はこの人物と多くの興味ある会話をかわした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)
「士族」の人たちはどうしても侍気質が抜けなかったのか、商売人としては明らかに横柄な態度を取るものが多かったと言われますが、この宿の主人はどうだったのでしょうか。イザベラは「態度振る舞いには明らかな相違がある」としましたが、切った張ったの世界の中を生きてきた凄みを感じていたのか、あるいは単に横柄な頑固親父に見えたのか、どっちだったのでしょうか。

礼儀正しさ

日光から津川までの十日間ほどで、イザベラは行った先々でともすれば見世物のような扱いを受けることがありました。髪の色も肌の色も違う上に体格が一回り大きい西洋人は、当時の日本人から見ると「同じ人とは思えない」という印象だったのでしょうね。次のエピソードはまさにその感覚を体現したもののように思えます。

宿の奥さんと伊藤は、私のことを人目もかまわず話していた。私は、彼らが何を話しているのかときいてみた。すると彼は、「あなたはたいそう礼儀正しいお方だと彼女が言っています」と答えてから、「外国人にしては」とつけ加えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)
このような余韻をもたせた言い回しに対して、イザベラが黙っている筈がありません。

私は、それはどういうことかと更にたずねた。すると、私が、座敷に上がる前に靴を脱ぎ、また煙草盆を手渡されたときにおじぎをしたからだと分かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)
今でも来日する観光客には色んなタイプの人がいると思いますが、中にはもの凄く勉強して日本の文化に敬意を払ってくれている人もいますよね。この「外国人にしては」という言い回しをイザベラがどう受け止めたかは謎ですが、素直に「名誉なことだ」と受け止めてよかったのではないかな、と思ったりします。

積み出しの港

イザベラ一行は、翌日は阿賀野川を下る予定だったようです。現在、津川の西には「揚川ダム」があるので舟運は不可能ですが、当時は鉄道も開通してなかったので、代わりに舟が川を普通に上下していたのでしょうね。

 私たちは、明日の川の旅行で食べられるものがないかと町の中を探して歩いたが、卵の白身と砂糖で作った薄い軽焼き菓子と、砂糖と麦粉で作った団子、砂糖でくるんだ豆だけやっと手に入れることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)
イザベラは買い出しの成果に若干不満だったようですが、それだけでも手に入ったのは良かったんじゃないでしょうか。ところで「卵の白身と砂糖で作った薄い軽焼き菓子」というのはどんなものだったんでしょう。

津川の街については、イザベラは次のような印象を記しています。

街路は、直角に二度曲がり、上流の岸にある寺院の境内で終わっている。それで、たいていの日本の町々とは違って単調ではない。ここは人口が三千で、多量の産物がここから川を下って新潟へ運ばれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)
地図を良く眺めてみると、今でも県道 14 号「新発田津川線」がクランク状にカーブしている場所があることに気が付きます。イザベラの言う「直角に二度曲がり」がこのことを指しているのであれば、ちょっとした感動を覚えます。

「たいていの日本の町々と違って単調ではない」というのが、具体的にどういった様を表しているのかについては残念ながら読み解けませんでした。平成の大合併で阿賀町になる前の津川町の人口は 5,228 人とのことですから、当時の「人口三千人」というのは結構な規模だったのでしょうね。

「蕃鬼」

イザベラが、旅の途中で地元民から好奇の目で見られていたというのは先にも記した通りです。そしてそれは「人気者」として見られていた訳ではなく、むしろ「異形なるもの」として民衆に恐怖を抱かさせるものだった、というのが本当のところでしょう。

いつの時代でも子供は正直なものです。従って……

日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.181 より引用)
……このような「事件」が起こってしまうのも当然の結末と言えるでしょうか。ちなみに「蕃鬼」には「フアンクエイ」とルビが振られていました(原文では Feng Kwai とのこと)。この悪態をついた子供が実際にはどのような言葉を口走ったのか、ちょっと気になってしまいます。

「第十七信」の最後をこの話題で締めるのはイザベラもさすがに残念だったのか、最後にこんなエピソードが追加されていました。

宿で生鮭の切身が一つ出たが、こんなにおいしいものは今まで味わったことがないと思う。私は陸路による旅行の最初の行程を終えた。明朝には船で新潟に向かって出発する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.182 より引用)
鮭の切り身、美味しいですよね。でも、焼鮭じゃ無かったんでしょうか?(かなりどうでもいい)

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2017年11月22日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (200) 「ランプウェイを右に」

白鳥大橋を渡ります。風速 5 m、気温は 16 ℃ です(ブレた写真で申し訳ありません)。
驚いたのが、白鳥大橋が片側一車線だったことでしょうか。これだけの大きな橋なので、きっと最低でも片側二車線はあるだろう……と思っていたので、ちょっと意外な感じがしました。
ちょうど路面の補修工事が行われていたみたいですね。

現代社会の……

14 年もの年月をかけて建設された 1.3 km の橋も、渡ってしまえば 1~2 分で終点です。現代社会の……いえ何でもないです。
終点の祝津 IC は、構造上は延伸の可能性が残されているようですね。

ランプウェイを右に

祝津 IC のランプウェイを右に曲がります。前方に島が見えますが、「大黒島」でしょうか。
ランプウェイをさらに右に曲がります。風力発電の風車が見えてきました。風車は道の駅の電力需要を賄っていて、余剰分は北海道電力に売っているのだとか。

ランプウェイを更に右に

ランプウェイを右に曲がり続けます。……いつまで回るんでしょうコレ。
あー、とうとう白鳥大橋が正面に見える位置まで来てしまいました。そしてなおも曲がり続けるランプウェイ……(汗)。

ランプウェイをまだまだ右に

このアングルからだと、祝津 IC が延伸の可能性をもたせた構造になっていることが良くわかりますね。そしてランプウェイは未だに曲がり続け……
ようやく下り坂は終わりましたが、道路はなお曲がり続けます。もうすぐ 360 度回ってしまいそうな勢いです。

時代は回る

ふぅ……。ようやく回り終えました(長かったぁ)。
地図で見てみると、とても綺麗に 360 度ターンしたことがわかるかと思います。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

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