2009年5月31日日曜日

国道 152 号線の旅 (19) 「気分は蜀の桟道?」

蛇洞林道の旅

秋葉街道の旅・外伝?の「蛇洞林道の旅」その 2 です。

地図どうぞ

今更ですが、「蛇洞林道って何?」という方向けに地図をどうぞ。
長野県飯田市の、国道 152 号線の断絶部分をフォローする林道です。のっけから未舗装のグラベルロードになってかなり焦ったのですが……

厳密には、地図上の (2) から南半分は「蛇洞林道」では無いみたいです。紛らわしくてすいません。
結論から言えば、ほんの一瞬でした。ご覧の通り、少し霧が出ていますが、非常に良く整備された道路です。さっきのグラベル部分も、破損した舗装を再舗装するために、一時的に舗装を剥がしていただけのようです。

さて何でしょう?

さてここで問題です。これは何でしょう?
そういう私も良くわからなかったりするのですが……。

ちなみに、どんなシチュエーションかと言うと、こんな感じです。
崖にコンクリートをそのまま吹き付けたような感じですね。

気分は蜀の桟道?

少しアングルを変えてもう一枚。
霧の出具合と言い、切り立った斜面の雰囲気と言い、日本離れした幽玄な美を感じる……ような気がしま……せんか?(← ちょっと弱気

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2009年5月30日土曜日

国道 152 号線の旅 (18) 「蛇洞林道」

主張する看板

さて。地蔵峠にやってきました。
看板は、ここがれっきとした国道 152 号であることをアピールしていますが、国道なのもここまで。
ここから先はしばらく「蛇洞林道」のお世話になることになります。

アキバ街道の消失

この写真は、ちょうど国道 152 号線から蛇洞林道に入るあたりでしょうか。
国道 152 号線(秋葉街道)として、けもの道レベルのものがあるかと思っていたのですが、結局未確認に終わりました。国道 152 号としては未開通であっても、秋葉街道としては存在している筈、なんですけどね。

林道は林道であってそれ以外の何者でもない

それにしても、この蛇洞林道、おそろしく快適な道です。
まぁ、「ライフラインの一翼を担っている」なんて表現をされていたくらいなので、それなりには整備されているだろうと期待していたのですが、ご覧の通り、期待以上の整備のされ方でした。これなら離合もなんら問題なく行えそうです。

などと思っていると……。
出ました、グラベルロード(笑)。まーぁ、林道ですもんねー。林道に「どノーマル」(しかも比較的車高の低いクーペボディ)でのこのこやってくる時点で、林道を舐めきってますからね。このくらいの報いは仕方ありません。むくい みちおです。

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2009年5月29日金曜日

国道 152 号線の旅 (17) 「日本のチロルと資本主義経済の行方(←」

国道 152 号線(秋葉街道)は、基本的にはとにかく山の中なのですが、意外なことに、山腹部にも多くの集落が見られます。例えば、国道 152 号線からもほど近い飯田市遠山郷の「下栗の里」なんかは、斜面に民家や耕地が点在する様から「日本のチロル」などとも呼ばれているそうです。決して 10 円や 30 円で買えるからという意味では(ry

そういえば、超ミクロなマクロ経済学を提唱したルディ・ドーンブッシュ先生に敬意を表して、同氏の「マクロ経済学」を読み始めたまま絶賛放置プレイ中なんですが、資本主義経済が健全な成長を続ける中でチロルチョコの単価が変わらないという点は注目に値すると思うのですがいかがでしょうか(誰に聞いている?)。

新緑が目に眩しい

さて。青木川の源流にほど近い大鹿村の深ヶ沢というところにやってきました。
新緑が目に眩しいです。

秋葉街道は、基本的には木立の中を進みますが、「鬱蒼とした」といった感じではなく、晴れていれば木漏れ日どころか直射日光を浴びそうな感じです。中にはこんなところも。
中途半端に、半ば荒れ気味に開けたところに、これまた立派なカーブミラーが。標高が森林限界に達したところで見られそうな風景ですが、ここは決してそんなことに標高があるわけではなく……。海抜 1,100 m くらいでしょうか。
これは、カメラの加減ではなく、実際にこんな色合いの木でした。一体何の木なんでしょう。落葉松でもないような木がしますし。じゃなくて気がしますし。
安康露頭にほど近い、大鹿村安康の風景です。こうやって見るとそんなに狭い道では無いですね。

ちなみに、この「安康」という地名、地図には載ってません。もしかしたら国土地理院の地形図には記載があるのかもしれませんが……。

地蔵峠にやってきましたよ

で、本日三つ目の峠にして、もっとも難易度が高いと予想していた地蔵峠に辿り着きました。
結果からすれば、分杭峠のほうが道幅から言うとハードでした。地蔵峠はヘアピンカーブの連続でツイスティではありましたが、道幅も意外とあり、舗装も悪くなく、あっさりと峠までは辿り着くことができました。

問題は、ここから先の林道区間ですが……。

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2009年5月28日木曜日

国道 152 号線の旅 (16) 「木地師と貴人伝承」

ドラえもんは餡を取ってもどら焼きが好きだったのか

安康露頭」という名前を聞いて、ちょっとした違和感を受けました。昨日の記事でも少し触れましたが、昔、「安康天皇」という諡号を送られた天皇がいたんですよね。

「何やってんの?」「アンコ売ってんの」などと言ってはいけません。

池田貴族伝説

貴人伝承」というものがあったかと思います。ググっても今ひとついいページがヒットしないので、もっと適切なキーワードがあるんだと思いますが、今日は(今日も?)頭が働かないので、またの宿題とさせてください。えーと、人里離れた集落に限って、「昔々、ここは高貴な人(大抵は具体的な名前で語られる)が落ち延びて来られたのだ」といった「伝承」がある、といった話です。

うー、ホントに頭が回らない。風邪かなぁ。ガクガクブルブル……

おおきみきぢそじんじゃー!

例えば、滋賀県東近江市(かつての永源寺町)には「大皇器地祖神社」という神社があります。読めないですが、コレ、「おおきみきぢそじんじゃ」と読むのだそうです。

歴史
寛平 10 年の創祀と伝わる。惟喬親王の伝承がある。明治 5 年まで、正月、五月、九月に国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住まわれていた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。白雲山小野宮大皇器地祖大明神と称したが、明治 15 年に現社名に改められた。また、明治 26 年には内務省から保存資金が下賜された。旧村社。
(Wikipedia 日本語版「大皇器地祖神社」より引用)
惟喬親王は、後醍醐天皇の息子……なんてことは無く、もっと前の時代の親王でした。文徳天皇の長子で、清和天皇(清和源氏の始祖)の兄に当たるみたいです。

滋賀県多賀町には「大君ヶ畑」もあります

大皇器地祖神社のあるところは、永源寺ダムのさらに上流、愛知川(えちがわ)の支流である御池川のかなり上流域にあたる「君ヶ畑」というところです。ぶっちゃけ山の中です。果たしてこんなところに(皇位継承争いには敗れたものの)天皇直系の「貴人」が移り住むものなのか、という疑問が出てきます。実際、

その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任した後出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲。その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平・紀有常らと交流したといわれる。近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。
(Wikipedia 日本語版「惟喬親王」より引用)
とあるように、近江国(滋賀県)に隠棲したことは事実かもしれませんが、君ヶ畑に隠棲したことについては、単なる「伝承」でしかない可能性も高いと考えられます。

結界師、鍼灸師、そして木地師

せっかくなので、「木地師」についても。

木地師(きじし)は、轆轤を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。
(Wikipedia 日本語版「木地師」より引用)
ちなみに、「轆轤」は、ろくろのことです。

概要
近江国蛭谷(現滋賀県東近江市)で隠棲していた惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、全国に広まった。
(Wikipedia 日本語版「木地師」より引用)
あれ。ここでは惟喬親王が蛭谷に隠棲していたことになってますね。蛭谷は君ヶ畑の隣(川下)の集落です。今は「木地師資料館」なるものがあるようですね。面白いことに蛭谷のさらに川下の集落は「政所」という名前です。

明治初期までは、全国各地で朝廷・幕府の許可を受けた木地師達が、定住地を持たずに良質な材木を求めて山中移動していたという。
(Wikipedia 日本語版「木地師」より引用)
どうやら、「定住地を持たずに」というのがミソのようです。仕事柄、特定の土地に定住することなく山中を移動して生計を立てていた木地師たちは、どうしても低く見られがちな社会的な身分の証として「古くは皇族に繋がる高貴な血筋である」ということを主張していたのだとか。

山奥の集落にばかり「貴人伝承」が残るのは、案外こういった山村の民のアイデンティティを確保するためのものだったから、なのかも知れません。

なんてことを、「安康露頭」を見ながら考えたのでした(←

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2009年5月27日水曜日

国道 152 号線の旅 (15) 「地学マニア垂涎の聖地」

国道 152 号線「秋葉街道」の旅のつづきです。

分杭峠から大鹿村

止めどなく怪しい(笑)「分杭峠」を越えましたが、外は篠突く雨のまま。
このあたりでも 1 台の車とすれ違いました。その時も離合困難だと判断したので、少し手前の待避所までリバースした記憶があります。

ほどよい酷道ぶり

分杭峠を越えてからは、結構いい感じに狭い悪路が続きます。
大鹿村の北川というところですが、これでもちゃんと国道です。:)

中央構造線博物館とか

秋葉街道は鹿塩川沿いに伸び、やがて大鹿村の中心部にやってきます。ここで鹿塩川は小渋川に合流し、松川町のあたりで天竜川と合流します。車でも似たようなルートを辿って伊那谷に出ることができるのですが、今回の目的はひたすら中央構造線沿いに南下することなので、わざわざ左折して国道 152 号線をひたすら進みます。

今度は小渋川沿いに、川の流れに遡る形で南に進むと……、小学校(大鹿小学校)などがある集落に辿り着きます。「中央構造線博物館」なるものもあるようです。今回はスルーしちゃいましたが……。

松下さん家

次の写真は、同じく大鹿村の……あれ? なんてとこだろ?(←
撮影時間から類推すると、大鹿村の上青木あたりのようです。そういえばこの辺で「松下家への配達はこの先の交差点を左折」(厳密には間違ってるかも)といった看板を見かけて「なんじゃそりゃ~」と思ったものですが、どうやら「松下家住宅」という旧家が遺されているらしく。

安康天皇と関係あるのか無いのか

そうこうしているうちに見かけた看板がこちら。
字が潰れて見えないと思いますが、「← 中央構造線安康露頭 4.5 km」と書いてあります。中央構造線はご存じの通り?巨大な断層ですが、この「安康露頭」では、その断層がスライスされたような感じで目の前に広がっているという、地学マニア垂涎の聖地だったりします。

詳しくは南アルプス世界遺産登録推進協議会さんのページを見ると良いかもです。

ちなみにこの安康露頭、確か秋葉街道沿いに車からでも見える距離にあったと記憶していますが、こちらも同じく華麗にスルーしてしまいました。いや、天気も悪かったしさ。

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2009年5月26日火曜日

国道 152 号線の旅 (14) 「『気』が発生した気がしたのは、たぶん気のせい」

サミット 48(← 古すぎ)

国道 152 号線の旅、別名「中央構造線の旅」ですが、激しく雨が降る中、二つ目のサミットとなる「分杭峠」にやってきました。かつての秋葉街道にはセンターラインはありませんが、舗装は完璧で、対向車も滅多に来ないので思ったほど走破は苦になりません。
もっとも、乗用車同士でも離合困難なところが増えてきたのも事実ですが。直近の待避所をきちんと押さえておいて、時と場合によってはさっさとリバースギアに入れて戻る(上り・下りを問わず)のが狭隘な道でのマナーだと思うのですが、たまにリバースすることを良しとしない(あるいはそういった発想が出てこない)を見かけるのには閉口します。

つまり、この辺でそういう目にあったワケですね。:)

看板だけはやたら立派

もうすぐ分杭峠……だと思いきや、いきなり峠道では滅多に見かけない看板が現れました。交差点の看板、しかも高速道路の IC への分岐を示す看板です。
これはもちろんネタではなく、実際に駒ヶ根 IC に続く県道との交差点があったのですが、当然のことながら道幅はどっちもどっち、のようです。看板だけやたら立派なのが笑えます。

「気」が発生した気がしたのは、たぶん気のせい

標高 1,424 米、分杭(ぶんくい)峠にやってきました。
この「分杭峠」、地元の人は「ぶんぐい」と発音される場合もあるそうなのですが、それはさておいてですね……。

ゼロ磁場
分杭峠は、一部の人々から、「健康に良い『気』を発生させるゼロ磁場地域である」と称され、マイナスイオンブームの際にマスコミに取り上げられた。中国の気功師・張志祥が来日した際、分杭峠に「気場」を発見したとされる。

日本最大、最長の巨大断層地帯である中央構造線の真上にあり、2 つの地層がぶつかり合っている、という理由から「エネルギーが凝縮しているゼロ磁場であり、世界でも有数のパワースポットである」と称されている。
(Wikipedia 日本語版「分杭峠」より引用)
あからさまに怪しいですね(笑)。「ナントカ還元水」といい勝負でしょうか。

看板だけはやたら立派(またか)

あまりにあからさまに怪しい(← 繰り返し)ので、特に深追いはせず(雨も降ってるしね)、そのまま南下して大鹿村に入ります。
先程と同様、看板だけはやたら立派です。:)

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2009年5月25日月曜日

国道 152 号線の旅 (13) 「センターラインは無くなったけれど」

今日はこれから、録画していたインディ 500 の残り半分を見るので、コメントへのお返事はまた後ほど……すいません。

このご時世、いつどこでネタバレするかわからないので。

別名「晴ヶ峰」

国道 152 号線の旅、まずは茅野から杖突(つえつき)街道を杖突峠へと向かいます。杖突峠のちょいと手前には、諏訪湖を一望できる展望台があったりします。
案の定と言うべきか、景色の良いところはお金を取るようです……。

まぁ、記念写真というか証拠写真と言うか。
薄曇りですが、雨は止んでいます。

高遠は「江島生島事件」で有名だそうで

その後、杖突峠をすんなり越えて、城下町・高遠に向かいます。ここまでは、基本的にはかなり快適なルートです。センターラインもありますし、交通量もそんなにありませんし。

さて、ふつーはここから伊那谷に向かうのがセオリーですが、今日はこのままひたすら国道 152 号線を下りていきます。交通量はさらに少なくなって行きます。

降りしきる雨

右手に、美和ダムのダム湖である「美和湖」が見えてきます。そして……雨が、半端無く降ってきました。orz
この写真は助手席から撮ったものなんですが、なにやら高規格道路の工事のように見えます。一体これは何なんでしょうか。バイパスが必要なほど、現在の国道は悪い道にも思えませんし。

吊り橋の跡なんかもありました。
これは、三峰川に黒川が合流するあたりです。雨はますます激しさを増して行きます……。

センターラインは無くなったけれど

国道 152 号線は、市野瀬の集落で三峰川沿いのルートから外れて、支流の粟沢川沿いのルートに入ってゆきます。ここから、分杭峠にアタックです。
事前に織り込み済みではありますが、ついにセンターラインがなくなりました。ただ、乗用車の離合は楽勝です。「酷道」だなんて言われることもある国道 152 号ですが、何てことはない、ふつーの国道ですね。今のところは。

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2009年5月24日日曜日

国道 152 号線の旅 (12) 「駅の前にあるわけでもないし、何を記念しているのかもよく判らない」

えーと、ホテルブエナビスタの北隣には、こんな公園(のようなもの?)がありました。
上から見ると、どう見ても公園なんですが、少し周りより小高く盛り上がっていますし、この公園?があるおかげで街路も T 字路ばかりという……どうにも不自然に思えます。見たところ、地下にも何かあるようです。

……ぱっと思いつくのが「防空壕」です。いや、我ながら安直すぎるなぁ、とも思うのですけどね。

以前に少しググってみたところ、「駅前区画整理事業の完成を記念して」という説を見かけた……ような気もしたのですが、ホントのところはどうなのか、ちょっとわかりません。FM 長野のパーソナリティさんのブログにも「駅の前にあるわけでもないし、何を記念しているのかも、よく知らないのですが(笑)」と書かれてしまっていますね(笑)。

というわけで Day 2 スタート

さてと。Day 2 のスタートです。
はい。(ちょっと見づらいですが)前日に走行した距離は 453 km、外気温は摂氏約 20 度といったところですね。スタート時間は 9 時きっかりです。

あらこんなところに「近鉄特急」

とりあえずは、長野道の松本 IC を目指します。
国道 19 号で見つけた「近鉄特急」の看板。以前から意外なところで見かける「近鉄特急」の看板ですが、こんなところにもありました。全国での分布を調べてみるのも面白いかもしれません。

あと、すぐに思い浮かぶのが摂津市(大阪府)のものと、確か山口県の旧・徳山市あたりにもあったような……。

まだガソリンはそれなりに残っていましたが、気合いを入れ直す意味でも松本 IC 手前の GS で給油。満タンでスペシャルステージに挑みます。

松本 IC の ETC レーンでは、影でおまわりさんが取締中……。ETC レーンは 20 km/h に徐行しましょう。:)

新緑が眩しい

岡谷 JCT で中央道に合流し、諏訪 IC で流出します。程なく国道 152 号「杖突街道」に入り、杖突峠を目指します。

心配されていた雨も小やみになり、新緑が目にまぶしくなってきました。
ちなみに、同じ場所でもう一枚撮影したのがこちら。
うーん、何とも寂しい気分にさせられますね。

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2009年5月23日土曜日

国道 152 号線の旅 (11) 「君子豹変す(←」

君子危うきに近寄らず

ホテルブエナビスタの一室で、翌日(Day 2)のルートについて頭を悩ませていました。当初の予定では「国道 152 号を浜松まで抜けられたらいいな」だったのですが、何しろかの道は名うての悪路で、雨なんかが降った日には崖や法面が崩れることもしょっちゅうだと言います。ここは「君子危うきに近寄らず」とすべきでしょう。

……でもなー、せーっかく松本まで来たんだしなー。少なくとも杖突峠はそんなに酷い道じゃ無かったよなー。分杭峠も以前と違って舗装されたって言うしなー。地蔵峠やヒョー越は林道とはいえ一種の「生活道路」だって言うし、ちょっと雨が降った位(← 超希望的観測)で通れなくなったりはしないよなー……、などと煩悩は尽きません。

君子豹変す(←

結局、「君子危うきに近寄らず」を排し、「君子豹変」してみました(笑)。君子豹変し、小人は面を革む。ダメだったら伊那谷に逃げだせばいいじゃないですか(←

さて。亀山と草津の間の「第二名神」が開通したことで、名古屋と大阪の間の最短ルートが一宮経由から四日市経由にシフトしたことは皆さんご存じのことと思います。名古屋から大阪の間の主要交通路は、旧・東海道(現・国道 1 号線)が鈴鹿越え(桑名・四日市経由)のルートを取っていますが、国鉄(当時)の東海道本線だとか東海道新幹線は、いずれも険峻な鈴鹿山脈を避けて、北回り、伊吹山の麓を回るルート(関ヶ原経由)になっていました。時は移ろい、土木技術と自動車の性能が向上した結果、第二名神が鈴鹿越えルートで建設されたことは実に感慨深いモノがあるわけですが、そんなことはどーでも良くてですね……。

ボトルネックは音羽蒲郡に

結果として何が起こったか。今まで「一宮から小牧の間」で起こっていた「交通集中による自然渋滞」が、東名の「岡崎と音羽蒲郡の間」にシフトするという現象が起こりました。音羽蒲郡から岡崎の間は、微妙に上り坂が続くこともあって、もともと渋滞の起こりやすいところではあったのですが、「第二名神」ができて名古屋から一宮までのトラフィックが分散した結果、ボトルネックが手前側に来てしまったのですね。

と認識していますが、地元の方は違う見方かも知れません。誤謬があればご指摘くださいませ。

よーするに。「浜松に行くのはいいけど、帰りに音羽蒲郡通りたくねー!」というわけなのです。じゃ、どーすればいいのか。「そうだ、海、渡ろう」というナイスなアイディーアがぱっと浮かんだのでした。

そうだ、海、渡ろう

確か、渥美半島の先端(伊良湖岬)から、三重県は鳥羽までカーフェリーが出ていた筈……。国道 42 号の海上区間でもある筈だから、フェリーがあって当然だよねと思ったわけです。

てなわけで、ちょいと調べてみました。うん、ちゃんとありました。:)

伊勢志摩と三河を結ぶ海のバイパス 伊勢湾フェリー

時刻表を見てみると……、終電……じゃないや、最終便の出発は 17:40 とのこと。うーむ、17:40 までに伊良湖に着かないといけないというのは、ちょっとハードルが高いですねー。まぁ、「間に合えば(以前と同じく)かけこみ乗船」、「間に合わなかったら諦める」という方針で行こうかと考えを決めました。

Day 2 の暫定ルート

というわけで、Day 2 の暫定ルートは次の通り。
スペシャルステージは松本~諏訪と、浜松西~豊川の 2 ヶ所のみ、あとはぜーんぶ楽しいリエゾンです。Day 2 とは言いながら最終日なので、とりあえず何時になってもいいので家に着けば良い、というスケジュールになります。

無事、海上ルートを取ることが出来た場合の予想される走行距離は約 452.7 km。距離自体は全然大したことありませんが、そのうち約 176 km が「酷道」との呼び声も高い国道 152 号線ですから、この区間だけで 5~6 時間かかる可能性も十分考えられます。道中、何も無いことを祈りつつ、床についたのでした。

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2009年5月22日金曜日

豪放磊落にして天真爛漫なネルソン・ピケさんの話

フジテレビなんとかにて絶賛放送予定

冬の間、CS のフジテレビなんとか(最近名前変わったので)でやってる "F1 LEGENDS" を毎年録画してます。録画だけして、殆ど見てな(ry

いや、これではさすがに宝の持ち腐れなので、Sony の NW-A919 にコピって、電車の中でちまちま見ています。基本は WRC を見てから、なんですけどね。

おかげで、今季は第 4 戦のポルトガルまでは、ちゃんと見ることができました。第 5 戦のアルゼンチンは、これから NW-A919 に移すところです。

んでと。WRC を見る合間に F1 LEGENDS を見始めました。とりあえず、1981 年の 第 2 戦・ブラジル GP と、第 6 戦・モナコ GP を見終えたところです。おお、アラン・ジョーンズが、カルロス・ロイテマンが、マリオ・アンドレッティが走ってる……! エリオもいる、ジル・ヴィルヌーヴもケケ・ロズベルグもディディエ・ピローニもいる……!

あ、「エリオ」はカストロネベスさんではなくて、デ・アンジェリスさんですので。デ・チェザリスさんでもありませんから。

ドゥカさんとタルボ・リジェとか

ロイテマン・ジョーンズの逆 1-2 で終わったブラジル GP も、それはそれなりに楽しめましたが、ジル・ヴィルヌーヴがまさかの優勝を飾ったモナコ GP のほうが、やっぱ数倍楽しめましたね……。3 位に入ったのにファイナルラップまで全く映らなかった(たぶん)タルボ・リジェのジャック・ラフィットはホントにお気の毒でした。

当時のリジェが搭載していたマトラ V12 はそのエンジンサウンドが美しいと評されたようですが、後に中嶋悟氏が「デュカさん」と称したジェラール・ドゥカルージュの手によるシャーシもまた、とても美しいものでした。造形も、GITANES のカラーリングも。1980 年代後半の、より深みがかった「青」ではなくて、ちょっと白みがかった「薄い青」の色合いが、これまたおしゃれで……。

豪放磊落にして天真爛漫なピケさんの話

さて。その 1981 年シーズンは、結局ブラバム・フォードのネルソン・ピケが制することになるわけですが、ピケは昔から贔屓にしていたドライバーの一人でして……。ピケと言えば、やはり 1982 年のホッケンハイムでの一件を抜きには語れないですが(確か前にも書いたかと)、その豪放磊落……というよりは天衣無縫……あれ?

てんい むほう【天衣無縫】〔天人の衣服には縫い目が無いように〕詩歌などが、技巧のあとが無く、完全である様子だ。〔俗に天真爛漫の意にも用いられる〕
(新明解国語辞典 第六版「てんい むほう」より引用)
うわ、全然意味が違うぢゃん。そう、むしろ「天真爛漫」が近いですね。確かにピケのドライブは天衣無縫な時もありました。「神がかっている」というのではなくて、そつのないという意味で。「時もありました」というのは、ご存じの通り、ピケさんは浮き沈みの激しい人だったからで……。

イケてる時はとことん凄くて、逆もまた然り

忘れもしない 1989 年のベルギー GP、ピケが予選 27 位、そして中嶋が予選 28 位という、チーム・ロータス創設以来と言われた「2 台とも予選落ち」という憂き目にあったわけですが、なんと過去 3 回のワールドチャンピオンに輝くネルソン・ピケにとって、これが初めての予選落ちでは無かったのだそうで……。気分が乗らない時は車も走らないというところに、何とも人間味を感じてしまいます。

ま、ピケ以後のドライバーが軒並み「優等生」タイプになってしまった(例えばプレス対応とか)のも、ピケのようなドライバーへのノスタルジーをかきたてるのかも知れません。公衆の面前で他のドライバーに殴りかかる F1 レーサーは、もう出てこないでしょうし(笑)。

他の関係者とは違う切り口でモズレーを批判

最後に、そんなピケのエピソードで、笑えたものをいくつかコピペでご紹介します。

  • 1987 年のオーストリア GP は、スタート直後の多重クラッシュにより 2 回もスタートがやり直しとなった。通常このようにスタートを何度も行わなくてはならない状況は、ほとんどのドライバーは嫌がるものだが、3 回目のスタート前にピリピリした他のドライバーを他所に、「鼻をほじってその指をなめる」というお茶目なピケの姿がテレビに捉えられた。
(Wikipedia 日本語版「ネルソン・ピケ」より引用)
豪放磊落でしょ? 間違っても天衣無縫では無さそうですが(笑)。しかも結局、そのシーズンのワールドチャンピオンに輝いているんですからね……さすがです。

  • ブラバム低迷時にマクラーレンからオファーがあった際、ロン・デニスから好待遇で移籍を打診され、ピケもサイン直前にまで至った。しかし、分厚い契約書を見るなり、「この話はなかったことにしてくれ」と言い、「ブラバムは(契約書が)紙切れ 1 枚なんだ」と言い、契約に縛られることを嫌ったため、実現しなかったという。
(Wikipedia 日本語版「ネルソン・ピケ」より引用)
いかにも「自由人」らしいネルソン・ピケの一面が見て取れます。良く言えば「男気」がある、とも言えますね。

最高傑作がこちら。

  • 2008 年、FIA 会長マックス・モズレーのセックス・スキャンダル(秘密クラブでの乱交パーティー)が明らかになった際、「なぜマックスは俺を誘ってくれなかったんだ」と、他の関係者とは違う切り口でモズレーを批判した
(Wikipedia 日本語版「ネルソン・ピケ」より引用)※ 強調は引用者による

ぎゃはははははははは……!!!

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2009年5月21日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルブエナビスタ」編(つづき)

「ホテルブエナビスタ」編の続きです。ちょっと病的な眠気に襲われてきたので手短に……。

シングルですが、窓辺にはソファーとテーブルが用意されています。読書するのに良さそうです。

お風呂とか

では、続いて水回りを。ご覧の通り、ごく普通のユニットバスです。
まぁ、このサイズだったら、ふつーはゆったりできますね。

ホテルごとの色を出しやすいのがシャンプー関連の設置状況ですが……、
ボトル設置型ですね。個人的にはこれはウェルカムです。一回分を細切れにパッケージングしてあるところもありますが、なんか過剰包装に思えてどうかな……と。潔癖な人にはボトル設置型は耐えられないのかもしれませんが、私は大丈夫なので。

備品とか

もちろん、ブラシ、歯ブラシ、かみそりや綿棒などは個別包装です(当たり前ですね)。
ドライヤーも置いてありますね。

そして……、
壁掛けドライヤーも。なんか、こうやって複数用意されているところが最近多いような気がするのですが、何か深い意味があるんでしょうか。どなたか教えてエライ人!

朝食とか

朝食はいつものバイキング方式。ウェイターさんの対応も行き届いていて満足でした。料理の質も問題なしです。強いて言うならイタリアンタイプのコーヒーがあれば尚良し、ですね。

Rating

眠いので簡潔に……(ごめんなさい)。全体的にそつなくまとまっていて好印象のホテルです。感じられる高級感も「無駄な高級感」というよりは「素朴な高級感」(?)といった風で、悪い印象はありません。

とか言いながら評価は ★★・(2 つ星)で。限りなく 2 つ星半に近い 2 つ星ということでお願いします。(個人的には)グランドプリンスホテル新高輪と同じ Rating なので、じゅーぶんだと思いますですよ……。

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2009年5月20日水曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルブエナビスタ」編

というわけで、旧・開智学校を見て、松本城を車の中から眺めてから、本日のお宿にやってきました。ホテルブエナビスタというところです。

このホテル、アルピコグループだったんですね。観光バス事業などを元気に手広くやっている……ように見えたのですが、現在経営再建中なのだとか。頑張ってください。

地下 1 階の駐車場では、左手に柱が来る駐車ブースをわざと選んで駐車します。カバンを持って、まずは 1 階のフロントへ。1 泊 1 万円と言いますから、結構いい値段ですね。

実は、ホントはもう少し端数が出る価格だったのですが、「じゃらん」のポイントで穴埋めをしました。

チェックインを済ませると、ベルボーイのお兄さんが荷物を運んでくれます。値段相応のサービスなのかも知れませんが、やっぱ嬉しいですね。

お部屋

案内された部屋はこちら。
このご時世なので、ツインへのアップグレードを密かに期待していたのですが、さすがに甘かったようです。予約したとおり、上層階(禁煙フロア)のシングルルームです。

モバイラーの宿命

真っ先に気になったのが……
コレ。モバイラーの宿命ってヤツでしょうか。確か今年は「毎日更新」がまだ続いている筈なので、外出先でも記事をポストできる環境は必須です。この日はいいとして、翌日の行程がかなり怪しいので、事前に準備しておかないと記録がストップしかねません。

あ。結局ケーブルのほうを使いました。そのまま DHCP で IP アドレスがちゃーんと取れたので、ますます RJ-45 の口の意味がわからなくなりました。

テレビとか冷蔵庫とかベッドとか

テレビはパナソニック製のブラウン管タイプ。
まぁ、ホテルでテレビを見ることなんてまず無いので、別に液晶だろうがブラウン管だろうがどっちでもいいんですけどね。

ベッドはふつーのセミダブル(だと思う)。
くせの無い、いいベッドでした。寝付きが悪かったのはベッドのせいではなく自分のせい、の筈なので……。

つづく!

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2009年5月19日火曜日

国道 152 号線の旅 (10) 「【解答編】開智小学校の謎」

開智小学校の謎・解答編

開智小学校の謎」ということで、ちょっとした「ヘンなこと」に気づかれた方もいらっしゃるかと思ったのですが、どうやらヘンに思ったのは私だけだったのかも知れません(おろろん)。

てなわけで、答合わせ?です。まず、昨日も引用した「松本市立開智小学校」についての Wikipedia の記事から。

松本市立開智小学校(まつもとしりつかいちしょうがっこう)は長野県松本市開智にある市立小学校。
(Wikipedia 日本語版「松本市立開智小学校」より引用)
ハイ。この記事からは、「松本市開智」という地名のところに存在することがわかります。続けて、「旧開智学校」の記事を見てみます。

現存する部分は移築されたもので、当時は西側に同じく 2 階建ての教室棟が存在した。現存する校舎とつながっていたが、移設の際取り壊された。
(Wikipedia 日本語版「旧開智学校」より引用)
ハイ。この記事からは、「旧開智学校」は、どこか別の場所から移設されたことを思わせます。つまり、「開智」という地名があったから「開智学校」だったのではなく、「開智学校」があったから「開智」という地名ができた、と考えられます。

そして、次の文章が続きます。

資料館として修復される際に塔を中心に左右対称であるかのように復元されたが、その名残もあり実は左右対称にはなっていない(窓の数を数えると明白である)。
(Wikipedia 日本語版「旧開智学校」より引用)
つまり、「旧開智学校」は、現在地に「資料館」として移設された、となります。

結局のところ、かつての「開智学校」は、学校としての役目を終えて移設された先で有名になって、地名にまでなってしまった、ということになります。いや、ただそれだけのことなんですが……何とも妙な話だな、と。

(かつての)開智学校を探せ!

それでは、「日本で最も古い小学校のひとつ」だった開智学校はどこにあったのか。地図を見てみましょう。
(クリック超原寸大系です)(←

えーと、「旧開智学校」の現在の場所(まぎらわしいな)はこちらです。松本城の北隣になりますね。
では、かつて「開智学校」があった場所はどこでしょうか。
現在は「開智橋」という名前だけが残されている、この一角だったそうです(この地図で言うと下のほう)。随分と松本駅に近い、開けたところにあったのですね。

松本市公式ホームページ くるくるねっとまつもとに、より詳しい解説がありますのでご一緒にどうぞ。

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2009年5月18日月曜日

国道 152 号線の旅 (9) 「開智小学校の謎」

March 881 は速かった

ちょいと堅めのネタを挟んで、旧・開智学校の話題に戻ります。

開智学校の隣には、こんな洋館?が建っています。
どことなく、昔の「レイトンハウス・マーチ」を思い出させる色合いですね。:)

ろう人形の館……ではなくて

この建物の正体はこちら。
「旧司祭館」なのだそうです。

気になる木~♪

駐車場の出口には、こんなに立派な樹がそびえています。
さて、一体この樹はなんでしょうか。
「ポプラ」だそうです。:-) 「やなぎ科」だったんですね。

旧・開智学校の隣には

松本市立開智小学校があります。
一応、Wikipedia の解説も。

松本市立開智小学校(まつもとしりつかいちしょうがっこう)は長野県松本市開智にある市立小学校。なお埼玉県さいたま市にある開智小学校とは何ら関係がない。
(Wikipedia 日本語版「松本市立開智小学校」より引用)
さて。何か変だと感じた方はいらっしゃいますか? さぁ、何でも結構ですので、「あれれぇ~、おっかしいぃぞぉ~」と思ったことがあればコメントください。いや、「おかしい」と感じるかどうかはその人の感性……というか常識というか、その辺に左右されるのでアレなんですが……。

ヒントは 5/15 付の記事「シンメトリーになりきれない疑似シンメトリー」にあります。

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