2009年7月30日木曜日

えきえき♪

京都線? それとも琵琶湖線?

JR 東海道本線の京都から大阪の間は、最近では「JR 京都線」という愛称も随分と板についてきました。もともとは、滋賀県の米原から大阪までの愛称を「JR 京都線」にしようとしたところ、滋賀方面から「滋賀県を走るのになんで京都線なんだ」というクレーム?が多くあったのか、米原から京都までは「琵琶湖線」という名前に差し替えられた、なんて話もありました。

そうすると、今度は琵琶湖の西岸を走る路線が「湖西線」という名前なのに、それを差し置いて「琵琶湖線」を名乗るとは何事だ、「湖東線」あるいは「湖南線」にすべきじゃないかとか、そんな話もあったようななかったような(どっちだ)。

JR 京都線の新駅ふたつ

さて。先日、その JR 京都線に乗ったのですが、ここ数年で二駅ほど新しい駅が開業していることに改めて気づかされました。具体的には「桂川駅」と「島本駅」です。

「桂川駅」

まず「桂川駅」についてですが、これは立地を誤りましたね(笑)。こちらも数年前に新設された、阪急の「洛西口駅」を意識した立地なんだと思いますが、向日町駅からの距離が短すぎます。向日町駅から 1.1 km、西大路駅からは 2.8 km というのは、あまりにバランスが悪いですし、桂川駅の西側は一面自衛隊の駐屯地が広がります。もう 800 m ほど北側の、牛ヶ瀬のあたりに駅を設置すべきだったと思うのですが、どうしてなんでしょう。

「島本駅」

このように、立地が理解に苦しむ桂川駅とは違って、「島本駅」は、かの「桜井駅跡」に隣接する立地ですから文句のつけようがありません。
山崎駅(サントリーの蒸留所がありますね)から島本駅までは 2.2 km、島本駅から高槻駅までは 5.3 km もあるので、ちょっと山崎寄りではありますが、何と言っても「かつて駅があった場所」ですから、文句のつけようが無いです(← また言ったよ)。

「万世橋駅跡」

このように(← またか)、沿線住民の利便性を高めるために、新駅を設置することは時折ありますが、逆に路線は存置しつつ駅だけ廃止するケースはそれほどありません。まず思いつくあたりでは、中央快速線の御茶ノ水駅と神田駅の間にあった「万世橋駅」でしょうか。交通博物館があったところで、電車からもホームの跡が見て取れた筈です。

「平沼駅跡」「隅田公園駅跡」

それから、京浜急行線の横浜駅と戸部駅の間にあった「平沼駅」もそこそこ有名かと思います。平沼駅は戦時中に休止され、その後、横浜大空襲で壊滅的に破壊され、終戦後も焼けただれた無残な姿を晒していた(意図的に撤去しなかったとか)のですが、10 年ほど前に一部撤去されたようですね。

東武伊勢崎線の「隅田公園駅」(かつて浅草駅と業平橋駅の間に存在していた)も、ほぼ同じような経過を辿っていた筈です。

「博物館動物園駅跡」

戦時中の「不要不急駅」以外でも、例えば京成本線の「博物館動物園駅」のように、1997 年に営業休止(2004 年に廃止)という例もあります。京成上野駅と日暮里駅の間という都心部にありながら、近年になった廃止されたという珍しい例かと思います。まぁ、

主な乗降客は土日の観光客を除き、周辺の博物館や上野動物園の勤務者で、平日の 1 日の平均乗降客数が 500 人未満と少なかった。
(Wikipedia 日本語版「博物館動物園駅」より引用)
ということらしいので、雨の日はしょうがない~♪(©別役実/小室等)といったところでしょうか。

そして「桜井駅跡」

さて。ようやく本題の「桜井駅跡」ですが、これはいつ廃止されたのでしょうか。最近になって復活したくらいですから、近年になって廃止されたなんてことは無い筈です。となると、やはり戦時中の「不要不急駅」扱いだったのでしょうか。

桜井駅跡(さくらいえきあと)は大阪府三島郡島本町桜井(旧 摂津国嶋上郡桜井村)にある古代律令制度下の宿駅の跡。
(Wikipedia 日本語版「桜井駅跡」より引用)
あれ……? 古代……律令制度……宿駅?

えきえき♪

うむむ、これって鉄道の駅じゃなかったのですね(・・;) そういえば「桜井の別れ」なんて話もありましたが、ここで語り始めると長くなるので、また追々に。まぁ、そんな「桜井の駅」でしたから、こんな変な話にも。

1876 年に開通した東海道本線(JR 京都線)は長らくこの地に駅を設けなかったが、2008 年、島本駅がすぐ傍に開業した。ちなみに、同線と併走する阪急京都線の水無瀬駅と上牧駅は、それぞれ、「桜井ノ駅駅」(さくらいのえきえき)、「上牧桜井ノ駅駅」(かんまきさくらいのえきえき)の名で開業している。
(Wikipedia 日本語版「桜井駅跡」より引用)
「桜井ノ駅駅」(えきえき)ですよ(笑)。えきえき♪

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2009年7月29日水曜日

Bojan のホテル探訪~「東京ガーデンパレス」編(完結篇!)

すいません。まだやってました(←

部屋の様子とかは、7/25 の記事に記した通りです……が! と。前回の記事で写真を一枚飛ばしていましたので、その写真から。
いやはや。失礼しました。

シャワートイレの罠

で、あとはバス・トイレが残ってますね。
ふつーにシャワートイレなんですが、ちょっと妙な出来事が。シャワートイレというものは、ボタンを押すとノズルが「にょきっ」と出てきて、ちょーどいい具合に温水が出てくる仕組みになっているのですが、なんせ場所が場所ですから、こまめにノズルの洗浄をする仕組みになっています。ボタンを押してから最初の数秒間、ノズルから水を(便器に向けて)排出する仕組みを良く見かけます。

この辺の仕組みは、大抵数秒(2~3 秒)なんですが、この部屋のシャワートイレはこの「ノズル洗浄」がやたら長くてですね……。1 分以上、おそらくは 2 分近く、あるいはそれ以上やっていたと思うのですね。「いつになったら温水が出てくるんだ」という憤りは皆無だったのですが、それよりも、「このまま永久にノズル洗浄を続けて、水が溢れたらどうしよう」という不安に苛まれたのでした(・・;

いやさ、2 年ほど前にグアムに行ったときにもトイレが溢れて大変だったんですよ。その時の悪夢が走馬燈のように……

まぁ、幸いにしてノズル洗浄は数分(←)で止まり、溢れることもなく、無事にかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなかったのでした。あれ?

そんなこんなで、シャワートイレの功罪と衆院選の行方をひたすら語った(語ってない)わけですが、続きに行きましょう、ハイ。

お風呂の水栓はサーモスタット型混合水栓でした。
いつものことですが、こいつには大変助かります。今後、シャワートイレと同じくらい普及して欲しいところです。あ、そういえば、海外のホテルってシャワートイレが無いですよね。日本に観光に来た外国の人は、やっぱびっくりするんでしょうかね。日本が世界に誇るテクノロジー……になるのでしょうか。

Rating ……の前に

えと、今回は朝食はホテルで取らなかったので、その辺の評価は不明です。で、Rating に行く前に、どーしても気になっていた件について。なぁんとなくふつーのホテルとは違う雰囲気が漂っていたその理由(と書いて「ワケ」と読む)について。

実は、「ガーデンパレス」と名のつくホテル?は全国に 8 ヶ所あるのですが、これ、実は私学共済事業が経営している「福祉施設」なのだそうです。

(加入者)
第十二条 私立学校法(昭和二十四年法律第二百七十号)第三条に定める学校法人(共済法附則第十項の規定により学校法人とみなされるものを含む。)、同法第六十四条第四項の法人又は事業団(以下「学校法人等」という。)に使用される者で学校法人等から給与を受けるもの(次に掲げる者を除く。以下「教職員等」という。)は、私立学校教職員共済制度の加入者とする。
一 船員保険の被保険者
二 専任でない者
三 臨時に使用される者
四 前三号に掲げる者のほか、常時勤務に服しない者
(「私学共済事業 共済規程」 http://www.shigakukyosai.jp/disc/kitei/ki_03.html より引用)
というわけで、私立学校の教職員の方々のための《「の」の連続》共済組合が、組合員の福利厚生の一環として営業している宿泊施設、だったのでした。そっかー、そーゆーことだったのね……。

あ、これだとなんか「保養所」に毛の生えたような施設だと勘違いされそうですが、いえいえとても立派なホテルです。もちろん宿泊客を選ぶようなことも無い筈なので、ご安心ください。

今度こそ Rating

そうそう、Rating ですね。ちょっとレストランを使う機会も無かったりで少々評価が難しいところもありますが、今回も ★★・ (2 つ星)でお願いします。伝統や格式のようなものとはちょっと違った、「老舗」とでも言えばいいんでしょうか、そんな落ち着いた雰囲気が感じられます。車で言うとイギリス車のような感じです(どんな喩えだ)。

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2009年7月25日土曜日

Bojan のホテル探訪~「東京ガーデンパレス」編(つづき)

というわけで、ようやく「東京ガーデンパレス」に辿り着いてからの話です。ロビーに入ってみた感じでは、結構歴史がありそうな雰囲気がします。なぁんとなくふつーのホテルとは違うなぁ、と違和感を感じつつ(この「違和感」の詳細は後ほど)、チェックインを済ませて部屋に向かいます。あ、ベルボーイさんはいませんでした。:)

「合わせ鏡」ですね

珍しく廊下の写真から……ですが、
視点の位置からも、天井が意外と高くないことが判ると思います。で、まぁこの辺は、まだ普通なんですが、この先に進むとですね、
うわわわわ……。ホテル・ニュージャパンのフラクタル構造ほどではないとは言え、エッシャーの騙し絵のような感じで何とも言えない雰囲気が……。あの、えーと、鏡を組み合わせて奥行きを無限大に見せる方法があるじゃないですか(何て言うんでしたっけ)、アレを思わせる雰囲気でしょうか。中には気分が悪くなる人もいるかも知れません。

とってもユニーク

ドアの取っ手はこのような、極めてユニークな形です。
ちなみに裏側はこんな形。

全体に質実剛健な感じ

中に入ってみるとこのような感じ。ふつーのツインです(またツインかよ)。
ビジネスデスクと読書椅子?が。全体に質実剛健感が漂います。

おそらく建物自体は結構昔からあるんだと思いますが、室内はご覧の通り今風で、特に古くささは感じません。照明スイッチもこんな感じですし。

ちょっとびみょうな長さになってきたので、ここで一旦切りますね。続きはまた明日にでも。

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2009年7月24日金曜日

Bojan のホテル探訪~「東京ガーデンパレス」編

またしても、半年前のストックから放出です。今日は、東京都は文京区の「東京ガーデンパレス」編です。

メンタルマップの落とし穴

まず、最初に焦ったのが「場所がわかんねー!!」ということ。ちょいと地図を用意しました。
さて。この地図をどう解釈したか、という話ですが、「御茶ノ水駅からちょいと北に歩いたらすぐ」としたのですね。なので、正直に言うと、あまりちゃんとチェックしませんでした。最近はだいたいこんな調子でホテルに辿り着けていたので、あまり気にとめなかったのですね。

ところが……。東京駅から中央線の快速に乗って、御茶ノ水駅のホームに降り立ったまでは良かったのですが、「御茶ノ水橋口」から出るべきか、それとも「聖橋口」から出るべきか、ここに大きな分かれ道があったわけです。

聳え立つ東京医科歯科大

東京ガーデンパレスは、位置的にはお茶の水橋からまっすぐ北上したところにあります。ところが、地図で見ると判るとおり、目の前には東京医科歯科大と付属病院がソビエトロシア……じゃなくて聳え立っていて、とてもではないですが構内をすり抜けられる雰囲気ではありません。

というわけで、結論から行けば「聖橋口」からテクテク歩くのが正解だったわけです。空間認知能力については人並みに悪くないと思っていたのですが、今回ばかりは惨敗でした。そう、「御茶ノ水橋口」から出てしまったのですね。

サッカー通り

で、「お茶の水橋」を渡ったはいいものの、目の前は明らかに T 字路。どう考えても北上するルートはありません(敷地に不法侵入するしかない?)。となると行き先は、右か、はたまた左か。左側に行くと「サッカー通り」という謎の小径があるようなので、これに賭けてみました。まぁ、結論から言えばどっちでも似たような距離を歩くことになったんですけどね。

小雨の降る中、行き先への道筋が見えぬまま、キャリーバッグをコロコロと転がしながら「サッカー通り」をテクテク歩くのは、得も言われぬ不安感が漂っていたことをここに告白します。んま、そんな大げさなものじゃ無いですけどね。

気になる(?)サッカー通りの由来について。

金花商店会のメインストリートが「サッカー通り」と命名されました。  

 (財)日本サッカー協会(JFA)や日本サッカーミュージアム、Jリーグなどサッカー関連団体が入居しているビル、通称「JFAハウス」が当商店会のメインストリートにあることをご存知ですか?

 そういうご縁で、 「JFA」とそのお膝元である地元商店振興団体「金花商店会」が、この通りの名前を平成 16 年 12 月 2 日から「サッカー通り」とすることに合意しました。

 平成 16 年 12 月 2 日にはJFAの川淵キャプテンやサッカー日本代表のジーコ監督(当時)も出席しての「サッカー通り命名記念式典」が華々しく開催されました。

 当商店会地元の湯島・本郷の新たな名所として、この「サッカー通り」が注目を浴びてゆくことでしょう。今年ドイツで開催されたサッカーワールドカップでも、金花商店会は地元の支援団体として、JFAと一丸となって、日本代表チームの活躍を応援しました。

■金花商店会 http://www.kinhana.org
うん、ぶっちゃけ「全文引用」になっちゃってますが、内容が内容なので……大丈夫ですよね? どなたかの権利を侵害しているようであればご連絡ください。対処いたしますので。

ホテル探訪は続く

で、この「サッカー通り」と「本郷通り」の交差点で周りを見渡してみたところ、なんかそれっぽい建物が見えてきました。「あ、多分アレだよな」と思いながら、小雨が降る中、キャリーバッグをコロコロと転がしていったのでした。

うわ、「ホテル探訪」と言いながら、ホテルに到着してないとわ。^^;

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2009年7月22日水曜日

ソビエトロシアでは、ロケットがコロリョフを飛ばす!

死が二人を分かつまで

さぁて。船や飛行機といった大量輸送機関が遭難した場合、決まって出てくるのが「運良く難を逃れた人たち」の話題です。例えば、1983 年 9 月 1 日の「大韓航空機撃墜事件」では、ジェシー・ヘルムズ上院議員(当時)が何の因果か 007 便に乗ることができず、結果として難を逃れた、なんて話がありました。一方、ヘルムズと行程を共にする予定だったラリー・マクドナルド下院議員は、007 便に乗り合わせ、サハリン沖で海の藻屑と消えてしまいました。

超大物・登場!

とまぁ、こういった話がどうしても出てくるわけですね。何もかもが秘密のヴェールに包まれたインディギルカ号でも、何と、超大物が難を逃れていたのでした。その男の名はセルゲイ・コロリョフです!!

……あれ? 有名……じゃないですか? ソ連の有名人トップ 100 をカウントダウンすれば、87 位くらいには来るかと思っているのですが……。

セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ(ウクライナ語:Сергій Павлович Корольов;ロシア語:Сергей Павлович Королёв;1907 年 1 月 12 日[o.s. 1906 年 12 月 30 日] - 1966 年 1 月 14 日)は、ソビエト連邦の最初期のロケット開発指導者。
(Wikipedia 日本語版「セルゲイ・コロリョフ」より引用)
そう、あのコロリョフです。

第一設計局 (OKB-1) の主任設計者として世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) である R-7 を開発した。R-7 は核弾頭をペイロードや宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957 年に世界最初の人工衛星スプートニク 1 号を打ち上げ、1961 年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運んだ。アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと並ぶ米ソ宇宙開発競争の双璧だった人物である。
(Wikipedia 日本語版「セルゲイ・コロリョフ」より引用)
そう、スプートニク 1 号やボストーク 1 号の成功は、彼の存在を抜きにして語れない……と思う……エライ人です。

シベリア流刑
1933 年には最初の液体燃料を用いるロケットエンジン開発に成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になった。1938 年 7 月 22 日、新ロケットの開発に難航する中、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部 (NKVD) に逮捕された。先に逮捕されていたヴァレンティン・グルシュコの告発による冤罪である。

容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費であった。尋問の際には顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要された。10 年の刑を受けてシベリアのコルィマ鉱山にある強制収容所に送られた。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだ。
(Wikipedia 日本語版「セルゲイ・コロリョフ」より引用)
出ましたね、「コルィマ鉱山」(「コリマ鉱山」のことです)。コリマ鉱山とは、マガダンから山を越えた北極海側に位置する金鉱のことです。極北の地で良質の労働力を確保することは容易ではなく、囚人による強制労働で生産性を高めようと考えていたソビエト政府の思惑のもと、コロリョフも讒言によってマガダン送りにされたのでした。

コロリョフはその後 8 年へ減刑され、モスクワにある強制収容所内の特別研究所に移され、かつての同僚でシベリア流刑のきっかけとなったグルシュコと共に再び戦闘機・爆撃機開発に従事した。コロリョフの罪が免除されたのは 1944 年だった。
(Wikipedia 日本語版「セルゲイ・コロリョフ」より引用)
コロリョフの罪が免除されたのが 1944 年で、インディギルカ号が遭難したのは 1939 年ですから、少々年次が合わないようにも思えますが、「モスクワにある強制収容所内の特別研究所に移され」とありますから、そのためにインディギルカ号に乗ってウラジオストクに戻るつもりだったのでしょう(ウラジオストクからモスクワまでは、シベリア鉄道で移動できます)。

一方通行の愛(← 違うだろ

ナチスドイツにて V2 ロケットなどの開発に従事し、ドイツの敗戦後はアメリカに渡ってアメリカの宇宙開発をリードしたヴェルナー・フォン・ブラウンの名前は広く世に知られていますが、米ソの「宇宙開発競争」にて何度もフォン・ブラウンを出し抜いたコロリョフの名前は、生前は全く知られることが無かったと言います。

ですから、フォン・ブラウンはコロリョフというライバルの存在をついぞ知ることが無かったと言われますが、一方のコロリョフは、アメリカ宇宙開発の父として名高く、メディアなどに取り上げられることの多かったフォン・ブラウンの存在を良く知っていたのだそうです。何と言っても本物のコンコルドよりも先にデッドコピーを作り上げることができるお国柄ですから、さもありなんと言った感じでしょうか。:)

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2009年7月21日火曜日

インディギルカ号で何があったのか

日本とソ連の間に何があったのか

1939 年 12 月 12 日未明に、北海道は猿払村、浜鬼志別沖のトド岩に座礁し転覆したソ連船「インディギルカ号」についての話題(のつづき)です。

当時、日本(大日本帝国)とソ連は「張鼓峰事件」や「ノモンハン事件」などの小競り合い(事実上「紛争」とも取れる)を繰り返していて、両国間の関係は冷え切っていました。しかしながら、沖合で座礁した「敵国」の民間船に多くの人が取り残されているのを知ると、地元の人たちは、自らも波に呑まれる危険性を知りながらも、大荒れの冬の海に船を繰り出していった……という「エエ話」です。

ちなみに、猿払村には、その 44 年後、ちょいと北側のサハリンに迷い込んだ大韓航空のボーイング(もちろん民間機)がソ連防空軍のスホーイに打ち落とされ、機体の破片や遺品などが流れ着いたこともあります。おそらくは、日ソ友好記念館の前の浜辺にも漂着物があったかも知れません。

ニコライ・ラプシンとは誰か

インディギルカ号の船長はニコライ・ラプシンという男でした。ラプシンは、最後まで転覆した船に留まり、名残惜しそうに救助されていったと言います。ラプシンは救助される際に「自分が最後だ。もう誰も残っていない」と言ったとされます。しかし、あろうことかラプシンが救助された数日後、船上に人影が発見されます。

何人乗っていたのか

また、ラプシンら乗組員に「何人乗船していたのか」を聞いても、なぜか明確な答えは出てきませんでした。救助された人は 400 人余り。どこからか「1100 人くらい乗っていた」という話があったため、犠牲者の数は 700 人余りと推定され、これが公式な犠牲者数となりました。しかし、ソビエト崩壊の前後になって、「実際には 1500 人余り乗船していた」という情報があらわれ、現在はこの数字が真実味を持って語られています。不幸中の幸いは、インディギルカ号が、ウラジオストクとマガダンを結ぶ船の中では比較的小型だったことでしょうか。他にも 2000 人以上を運ぶことができた船もあったとされます。

なぜ座礁したのか

インディギルカ号が座礁したのは、宗谷海峡の中間に存在する孤島「二丈岩」の灯台の光と、宗谷岬の灯台の光を取り違えるという単純な航法上のミスだったとされます。二丈岩の南側を航行しようとして左に舵を切ったところ、実際には宗谷岬の南側(すなわち北海道の陸地)に向かって進んでしまった、という話です。

誰が乗っていたのか

インディギルカ号はウラジオストク(沿海州有数の港湾都市で、シベリア鉄道の事実上の終点)からマガダン(オホーツク海の北岸に位置する都市。囚人労働によって開発が進められた)を往復する船で、主要な目的は囚人の護送でした。刑期を終えた囚人をウラジオストクに回送する途中で座礁したことになります。但し、全ての乗客が囚人だったわけではなく、水産加工業などに従事する労働者とその家族も数百人程度乗船していたとされます。

座礁の後、何が起こったのか

座礁した後、脱出を試みた囚人に対して警備兵が発砲し、次々と射殺された、との証言も出てきました。

救助された後、どう処遇されたのか

運良く救助された囚人は、いずれも「水産加工業に従事する労働者」ということにされました。帰国のために小樽に移送される途中で、商店に雑貨が豊富に並ぶのを見た時も、「あれはわざわざ東京から用意してきたものだ」(日本は良い生活をしているかのように見せかけている)と信じ込まされたと言います。

ニコライ・ラプシンはどうなったのか

お粗末な操船でインディギルカ号を転覆させたラプシン船長は、その後裁判にかけられ、銃殺刑に処されたと言います。もちろんそういった事実は日本には伝えられることなく、猿払村助役だった前田保仁氏はラプシン船長との再会を心待ちにしていたと言います。

なぜコロっと欺されてしまったのか

インディギルカ号が転覆した猿払村には、以前の記事で紹介した通り、村民の皆さんの浄財などにより慰霊碑が建立されました。結果的にはかなりのウソが含まれてしまっている(もちろん、猿払村の皆さんには全く非はありません)ことは、ここで明らかにした通りです。

では、なぜ日本人はこんなウソにコロっと欺されてしまっていたのか。「根本的にお人好しだ」というのも説得力をもって語られますが、こういった「国際的な事件」について掘り下げる姿勢が欠如していた、というのも残念ながら否定できません。

以前に紹介した前田保仁氏の著書にて、インディギルカ号の出港地がカムチャツカではなくマガダンになっていた、という話があったと思います。日本側で「マガダン」と「カムチャツカ」を混同していたという可能性もありますが、当初「カムチャツカ」とされていたのが、実は「マガダン」から来ていた、ということが後になってわかってきた、とも考えられます。

実際、スターリン時代の「囚人労働」に明るい欧米の研究者の間では、1960 年代あたりから、インディギルカ号の正体について、ある程度の確信を持って語られていたとも言います。惜しむらくは、日本ではそういった研究がなされていなかった、ということでしょうか。

なぜ真実を語れなかったのか

原 暉之氏は「インディギルカ号の悲劇」にて、スターリン時代の極東における強制労働の実態を、専門用語をふんだんにちりばめながら明らかにしました。一方、数年前に出版された猿払村助役(当時)の前田保仁氏による「冬の海に消えた七〇〇人」では、思い出話と日ソ友好が話題の中心に据えられていました。

猿払村は、ソ連が実効支配するサハリンとは目と鼻の先です。そして、漁師の仕事場は日ソ国境の海です。ですから、隣人と仲良くする必要性があったとも言えます。非常にデリケートな問題なので詳しくは語りませんが、まぁ、そういうことなのでしょう。

なぜ恐ろしくまとまりが無いのか

いや、語らないのは時間の問題もあるんですけどね。んー、恐ろしくまとまりが無くてごめんなさい!

あ、しまった。まだもう一つエピソードが残っていたんだった……。orz

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2009年7月20日月曜日

今度こそ「インディギルカ号の悲劇」

原 暉之さんの「インディギルカ号の悲劇」をようやく読み終えました。

私の場合、活字については子供の頃から慣れ親しんでいるので、ものに依っては「速読」とは言えないかもしれないけれど、結構速く読むことができるのですね。東野 圭吾「名探偵の掟」なんかは 3~4 時間ほどで(腹を抱えて笑いながら)読了してしまいましたし、前田 保仁さんの「冬の海に消えた七〇〇人」とかも、ものの数時間で読了した記憶があります。

ダリストロイの発足とクラーク絶滅政策の産物であるラムクラーチェンヌイエがラーゲリに齎したもの

しかぁし。原 暉之さんの「インディギルカ号の悲劇」は、読むのにかなり時間がかかってしまいました。まぁ、ここんとこ、かなり体調がすぐれなかったというのもあって、読み始めるとすぐ頭がくらくらする、なんてのも理由のひとつではあったんですが……。最大の理由は、知らない単語(主にロシア語の固有名詞)が、かなーり多かったってことでしょうか。

まぁ、例えばこんな感じです。

 ダリストロイが発足した頃、ソ連各地のラーゲリと特殊流刑囚入植地は「ラムクラーチェンヌイエ」と呼ばれた人びと、すなわち全面的農業集団化の過程でクラーク絶滅政策の対象とされた農民たちであふれていた。
(原 暉之 「インディギルカ号の悲劇」 P.71 より引用)
この一文を読解するのに「あれ? ダリストロイって何だっけ? クラークってなぁに?」てなことを毎回牽かないといけなくなるので、そりゃあ時間もかかりますし疲れるわけです。ちなみにラーゲリは……いわゆる「強制収容所」のことですね。

食べ物は無いが銃弾はある

あと、この本は囚人船「インディギルカ号」の謎解きよりも、スターリン時代のソ連の極東政策(開発)全般に視野が向けられているため、いきおい登場人物の数も膨大になってしまっています。しかも、その大半が銃殺刑に処されているというのですから恐ろしいのですが。

これ、ネタではなくてホントにそうなんです。むしろ「自然死」が特記される始末ですから、おぞましい限りです。

おわびと訂正

そろそろ本論に戻らないといけませんね。えーと、まず、2008/11/16 の記事には致命的な間違いがありますので、その訂正から。

つまり、カムチャツカからシベリアのラーゲリ(強制収容所)に人々を送り込む途中で座礁した、という説です。
(Bojan International 「インディギルカ号の真実 ─バック・トゥ・ザ・猿払村─」 2008/11/16 より引用)
これ、大間違いです。実際には、マガダン(都市の名前)からさらに北に位置する「コリマ鉱山」にて強制労働を課せられていた政治囚の人々(多くは冤罪か、取るに足らない不品行を咎められて「有罪」とされていた)のうち、幸運にも刑期を全うした人々をウラジオストックに送還する途中、だったようです。「行き」ではなくて「帰り」の船だった、ということですね。

あと、さらに正確を期すならば、インディギルカ号に乗せられていたのは全員が囚人だったわけではなく、実際にマガダン近辺で水産加工業に従事していた労働者(およびその家族)も数百人ほど乗船していたそうです。ですから、

つまり、「秋の漁場」なのであれば、漁場を離脱するのは毎年恒例の行事であると考えられます。「毎年恒例の行事」だとすると、それは「漁」の一環であると考えることもできます。だとすると、カムチャツカでの「漁」は、日本で言う「出稼ぎ」に相当するのではないかと。「出稼ぎ」に家族や子供を帯同するというのが、日本的な感覚ではあり得ないよな、と。
(Bojan International 「インディギルカ号の真実 ─バック・トゥ・ザ・猿払村─」 2008/11/16 より引用)
という疑念も、的外れといえば的外れでした。まぁ、「漁」ではなく「水産品加工」であったり、少なくとも地上で仕事に従事していたようですから、「漁に家族を帯同するのはおかしいだろう」という見方も、間違いでは無かったのかもしれませんが。

つづく?

この「インディギルカ号の悲劇」については、もう少しネタがあるので、明日(以降?)に続きますね。

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2009年7月19日日曜日

大阪名物「二段階右折する路線バス」

御堂筋南行は片側 6 車線

えーと、スペイン内戦の次は超ローカルネタです。

大阪市を代表する大通りと言えば「御堂筋」ですが、この御堂筋は、大阪万博のあった年(1970 年)以来、南行き一方通行になっています。ですので、場所によっては結構な車線数になっています。
これは大江橋のバス停で撮った写真ですが、6 車線ありますね。

大江橋南詰

さて、大阪市営バスの中には、大阪駅(梅田)から市役所のある中之島までを南下して、右折して中之島通を西に向かう系統があります。上から見てみるとこんな感じです。
真ん中に見えている橋は「大江橋」と言うのですが、ここでは中之島通への右折車線が 2 車線用意されています。即ち、大江橋の上は 8 車線ある、ということですね。

左端から右端へは 6 車線越え

そして、その名の通り「大江橋」というバス停が、実はこんなところ(黄色い丸印の部分)にあります。
ですから、ここから中之島通に右折しようと思うと、矢印で示したとおり、最低でも 6 車線を移動しないといけないことになってしまいます。

6 車線越えがどれだけ困難であるかがよりわかるように、写真を撮ってきました。
ちょうど日銀の大阪支店(薄いエメラルドグリーン色の屋根の建物)に向かっていかないといけないわけですが、いかに困難であるかがお判り頂けるでしょうか。

大阪名物「二段階右折する路線バス」

ですので、実際にはどうやっていたかと言うと……。
いきなりフリーハンドですいません(笑)。仕方が無いので、一番左側の車線をずーっと走って、交差点の真ん中左端にハザードランプを点灯して停車します。そして……
御堂筋側の信号が赤に変わり、中之島通の信号が青に変わったタイミングで、グイっと右折をしていたのでした。そう、これって……「二段階右折」なんですね。

二段階右折(にだんかいうせつ)とは、道路の交差点で右折する場合に、交差点の側端(交差点の輪郭)に沿って曲がる事を言う。フックターン(かぎ曲がり)とも言う。

主に世界各国の自転車について、二段階右折(右側通行の国では当然左折になる)が義務づけられている(ただし、自転車の二段階右折を禁止する標識("NO HOOK TURN BY BICYCLE")も、日本国外にはある)。

例えば左側通行の場合で十字路交差点の場合においては、交差点の左手前隅から左奥隅まで直進し、左奥隅に於いて直角に右に曲がり、さらに左奥隅から右奥隅に直進することとなる。
(Wikipedia 日本語版「二段階右折」より引用)
てな感じで、基本的には自転車であったり二輪車あたりで実施されている右折の作法ですが、大阪市ではなんとバリッバリの大型車(路線バス)で実施されていたのでした。

残念なことに……

ただ、大変残念なことに、京阪中之島線に大江橋駅ができたおかげで、中之島方面に向かうバスのみ「大江橋」バス停が移設されてしまったので、今はもう見ることができません。路線バスがいきなりハザードを出して道路を塞ぐ形で止まるのは、事情を知らない人間にとってはかなりびっくりする光景だったのですが……。

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2009年7月18日土曜日

「崩れ落ちる兵士」は、実は「どアタマですべる!」だったか

1000 本記念の記事

記念すべき? 1000 本目の記事ですが、特に凝ったことをするのは止めました。なんか「どアタマですべる!」ような気がするので……。

えーと、「『崩れ落ちる兵士』はやらせ?=キャパの戦争報道写真-スペイン紙」なんて記事が時事ドットコムに流れていました。

「崩れ落ちる兵士」

車輪の再発明をするのもアレなので、例によって例のごとく、サクッと引用します。

崩れ落ちる兵士(くずれおちるへいし、英語名:Falling Soldier)は 1936 年 9 月 5 日、報道写真家ロバート・キャパがスペイン内戦のセロ・ムリアーノの戦いに従軍した際に撮影した写真のタイトル。写真はフランスの「VU」誌の表紙を飾り、キャパの名声を一躍有名なものにした。正式なタイトルは「人民戦線兵士の死Loyalist Militiaman at the Moment of Death, Cerro Muriano, September 5, 1936)」。
(Wikipedia 日本語版「崩れ落ちる兵士」より引用)
はい。つまり、この写真は、1936/9/5 にセロ・ムリアーノにて撮影された、とされているようですね。

人民戦線の兵士が頭を撃たれて倒れる瞬間を兵士の前方至近距離から撮影した極めて珍しい写真であり、「報道写真の最高傑作」といわれている。
(Wikipedia 日本語版「崩れ落ちる兵士」より引用)

フェアユースの考え方に基づき「崩れ落ちる兵士」を見てみる

というわけで、実際にどんな写真か見てみましょう。
(アメリカ合衆国著作権法におけるフェアユースの考え方に基づき引用。なお、日本国内における著作権侵害の有無については、日本国著作権法第 32 条(引用)に該当するものと考えますがダメだったらすいません(←←))
確かに、兵士が頭部を打ち抜かれて、まさに倒れようとするその瞬間を鋭く切り取ったように見えます。衝撃的な写真です。しかしながら

そのあまりの完成度から真贋論争が 60 年にわたり続けられ、また頭部の負傷がはっきりと確認できないことからすべってこけた場面ではないかとも言われてきた。
(Wikipedia 日本語版「崩れ落ちる兵士」より引用)
つまり、「どアタマですべる!」だった可能性もあるわけなのだとか(←

あ、「どアタマですべる!」ですが、これは Rammstein の Spieluhr という楽曲において、so hat man es für が「どアタマですべる!」に聞こえる!という空耳アワーのネタです。

セロ・ムリアーノからエスペホまでは 54.2 km

なんかネタがスリップしまくっているようなので、本題に戻りましょうか。

新たな論争
2009 年 7 月 17 日、スペイン紙ペリオディコ(電子版)が、実際に撮影が行われたのはセロ・ムリアーノから約 50 キロ離れた町であるエスペホ付近で撮影されたと主張する記事を掲載。エスペホ付近での交戦は 1936 年 9 月 22 日~25 日のみであったため、この写真は前線から離れた場所で撮られたものと断定した。
(Wikipedia 日本語版「崩れ落ちる兵士」より引用)
ちなみに、元ネタはこちらです。「ここがホントの撮影場所だ!」って写真もあるので、スペイン語に堪能な方はぜひどうぞ。
La solución de la foto del miliciano de Capa deslumbra a los expertos

まぁ、ペリオディコ紙が何を以て「崩れ落ちる兵士」が Espejo で撮影されたと断定したのかは良くわからないですし、事の真贋すら(私には)さっぱりわかりませんが、こういった話題には興味をそそられます。何らかのイデオロギーやらドグマやらに毒された内容なのであれば、ちょっと嫌な気分になりますけどね。

「崩れ落ちる兵士」は、実は「どアタマですべる!」だったか

せっかくなので、ロバート・キャパの略歴を見てみましょうか。

生涯
1913 年 10 月 22 日 - 父フリードマン・デジェーと母ベルコヴィッチ・ユリアンナ・ヘンリエッタの次男としてオーストリア・ハンガリー帝国(現ハンガリー共和国)のブダペストに生まれる。両親は洋服店を営んでいた。
(Wikipedia 日本語版「ロバート・キャパ」から引用)
ふむふむ。ちなみにロバート・キャパの本名はフリードマン・エンドレ・エルネーなのだそうです。ハンガリー人なので姓が先です。

1931 年 - 共産党活動容疑で逮捕される。釈放後はドイツのベルリンで写真通信社「デフォト」の暗室係となる。
1933 年 - ユダヤ人排斥が激しくなり、ベルリンを脱出。ブダペストでヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。翌年にフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる。
1936 年 7 月 - ライカを使用しスペイン内戦勃発とともに従軍し、9 月にコルドバで頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮った「崩れ落ちる兵士」を撮影、フランスのグラフ雑誌「VU」に発表される。自身の本名では英語表記にした際読みにくいことなどから名前をロバート・キャパに変えたのもこの時期とされる。
(Wikipedia 日本語版「ロバート・キャパ」から引用)
つまり、「崩れ落ちる兵士」はキャパ 22 歳の出世作だったことになります。……功を焦ってやっちゃいましたかね? その後のキャパの活躍についてはご存じの方も多いと思いますし、だからと言ってロバート・キャパの功績が全て損なわれることは無いとは思いますが……。

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2009年7月17日金曜日

ソビエトロシアでは、音速がツポレフを超える!

コンコルド効果について

さて。昨日はソニックブームの話だったかと思います。コンコルドが 2003 年に営業飛行を終了してから、旅客営業する超音速機が無くなって寂しい限りだったりしますが……。

んで、と。

コンコルド効果(コンコルドこうか、Concorde fallacy , Concorde effect , sunk cost effect)は、心理現象の一つ。超音速旅客機コンコルドの商業的失敗を由来とする。コンコルドの誤りコンコルド錯誤(コンコルドさくご)ともいう。
(Wikipedia 日本語版「コンコルド効果」より引用)
なぁんて言葉もあるのだそうです。日本における「トマソン」と相通ずるものがありますね。

この項目では、芸術に関する用語について説明しています。
巨人に在籍したプロ野球選手については「ゲーリー・トマソン」をご覧ください。
デンマークのサッカー選手については「ヨン・ダール・トマソン」をご覧ください。
(Wikipedia 日本語版「トマソン」より引用)
ヨン・ダール・トマソンが気の毒になりますね。

ポール・ストッダートはコンコルド効果の体現者か

さて。「コンコルド効果」に戻りましょうか。

ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資をやめられない状態を指す。埋没費用の別名。世界的には "Concorde fallacy" の名称で研究がなされているが、日本では "fallacy" の訳語が一定しないため "Concorde effect" の訳語が用いられることが多い。
(Wikipedia 日本語版「コンコルド効果」より引用)
そういえば、コンコルド協定ってありましたよね(←←←

ソビエトロシアでは、音速がツポレフを超える!

はい。今度こそ超音速旅客機のコンコルドに戻りましょう(←

いやいや、懐かしいものを見つけてしまいましたよ。皆さんは「ツポレフ 144」という飛行機をご存じでしょうか。超音速旅客機のパイオニアとして名高いコンコルドですが、実は「世界初」の栄冠はコンコルドではなくて、なんとソ連で開発されたツポレフ 144 だったのですよ。

せっかくなので、ツポレフ 144 の写真を見てみましょう。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である Ralf Roletschek 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
このページ付属の画像はフリーソフトウェア財団が発行した GNU Free Documentation License に示されるバージョン 1.2 またはそれ以降のライセンスの下で提供されています

はい、皆さん。ここ(↑この写真)笑うトコですからね~!(笑)。

Tu-144(ツポレフ144; ロシア語:Ту-144 (トゥー・ソーラク・チトィーリェ))は、ソ連のツポレフ設計局で設計・製造された超音速輸送機 (SST) である。

NATO コードネームでは「チャージャー (Charger)」と名付けられた。しかし Tu-144 はその外観がコンコルドに非常に似たものであったことから、登場当初から「ソ連のスパイ活動によるコピー説」が西側では広く普及しており、そのためこの機は一般に「コンコルドスキー(Concordski または Konkordski)」と呼ばれていた。
(Wikipedia 日本語版「Tu-144 (航空機)」より引用)
今や、パクリ大国と言えば共産党の一党独裁が続く「あの国」が思い浮かびますが、さすがはコミンテルンの宗家たるソビエト連邦さんです。ワールドワイドなコピーぶりには目を見張るものがありますね(笑)。

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2009年7月16日木曜日

宇宙ブームとソニックブーム

そんなやつぁおらへんやろぉ~

たまーに出張とかで新幹線に乗るのですが、「のぞみ」の止まらない駅に行く時なんかは、少々時間に余裕を持たせて「こだま」に乗ることがあります。もし、仮に「ひかり」が止まるのだとしても、「ひかり」って混むんで、あんまり乗りたくないんですよねぇ。

その点「こだま」だったら、滅多に満席になることは無いので(朝・夕のラッシュ時は別ですが)、二人掛けシートの通路側に荷物を置いて、窓側に腰掛けることもできます。もちろん指定席を取ったりはしません(むしろ指定席のほうが混んでいるので)。

ただし三島駅を除く

まぁ、もちろん「こだま」は各駅停車なので、相当な確率で「のぞみ」や「ひかり」の通過待ちをすることになります。通過して追い越していく側の「のぞみ」や「ひかり」は、270 km かそれに近い速度でぶち抜いていくわけですが、その際に、追い抜かれる側の車体にも結構な衝撃と揺れが走ることをご存じの方も多いかと思います。

「こだま」に乗車している場合、追い越す側の「のぞみ」や「ひかり」は、大抵進行方向右側を走り抜けていきます(三島駅を除く)。その時、「こだま」の車体は、まず右からの風圧をマトモに受けて、一瞬左に傾き加減になります。「のぞみ」や「ひかり」は、いかに先頭形状を流線型にして空気抵抗を減らしているとは言え、約 1 気圧の空気を切り裂きながら疾走しているので、ある程度の風圧を発生させてしまうのは仕方が無いことでしょう。

Bernoulli's principle

しかし、「こだま」の車体が左向きの力を受けるのは一瞬で、すぐに右側に傾くようになります。これは「吸い寄せられる」という表現が正しいのでしょうね。こうやって考えると「ベルヌーイの定理」って間違って無いんだなぁ、なんて思ったりもします。

ベルヌーイの定理(-ていり)は、流れに沿って成り立つエネルギー保存の法則で、流体の挙動を平易に表した式である。ダニエル・ベルヌーイ (Bernoulli 1700 - 1782) によって 1738 年に発表された。
(Wikipedia 日本語版「ベルヌーイの定理」より引用)
これって、よーするに、2 個のリンゴを高い所から吊して、リンゴの間を吹き付けたらリンゴ同士が引き寄せられるっていうアレのことですよね? ん、もしかして致命的な勘違いしてます?

Sonic The Boom(違)

で、新幹線はしょせん 270~320 km 程度で走行するものなので、ひたすら空気抵抗を低減する方向で考えれば何とかなるのですが、厄介なのが「ソニックブーム」かな、と。あ、もちろんセガサターンとか宮沢和史さんとかは関係無いですからね。

ソニックブーム (Sonic Boom) とは、飛行機が音速を超えて飛行する際に、機首および翼後縁付近で発生した衝撃波のエネルギーが地上に伝播し、断続的な音波として観測される現象のことを指す。その大きなエネルギーを持つ音波は、しばしば地上に窓ガラスが割れるなどの被害を与える場合がある。
(Wikipedia 日本語版「ソニックブーム」より引用)
そーなんですよね。ちなみに、なんでこーなるのかは私も良く知りません。「音速付近で飛行する」という話であれば、音波とその発生源(飛行機)の速度が釣り合うことで共鳴するからかな、なんて想像もできるのですが。

ソニックブーム vs ボーイング社の圧力

もちろん、このソニックブームの問題は超音速旅客機「コンコルド」も例外では無く、

「ソニックブームを発生させるため」、との理由で、アメリカをはじめとするいくつかの国では超音速飛行を海上でしか認めなかった。
(Wikipedia 日本語版「コンコルド」より引用)
なんて話もあったのだとか。

宇宙ブームとソニックブーム

ソニックブームの話に戻りますが、

ソニックブームは、超音速で飛行する物体が上空を通過した際に、何かが爆発したような 2 つの不連続な音として観測される。スペースシャトルが大気圏に再突入して上空を通過する際にしばしばソニックブームの音が聞かれた。
(Wikipedia 日本語版「ソニックブーム」より引用)
なんて話もあるそうなのだとか。ここで疑問に思ったのが、スペースシャトルだったり、宇宙船や人工衛星を宇宙空間に打ち上げる際にロケットを打ち上げるじゃないですか。あれってソニックブームを起こさないのかなぁ、って。

三河安城名物

そんなことを、「のぞみ」の通過待ちをしていた三河安城駅で思ったのでした。無くしてわかる ありがたさ、親と健康とセロテープ(←

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2009年7月15日水曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルメッツ川崎」編(つづき)

ん、ニュージーランドでマグニチュード 7.8 ですか。TSUNAMI には注意しないといけませんね。ツバルが島ごと流されていないことを祈るばかりです。

Bojan のホテル探訪~「ホテルメッツ川崎」編(つづき)

さて。川崎駅西口の「ホテルメッツ川崎」についての都筑です。じゃなくて続きです(都筑は横浜市)。駅とバスターミナルの間の空き地?にある JR グループのホテルです。以前は留置線とかがあったのかもしれません。

うちの ATOK では「電留線」(「車を置する路」という意味かな?)という単語は出てきませんでした。一般名詞じゃ無いんでしょうかね。さらに言うと、昔は「引き込み線」ってのもあったような。連れ込み……あ、いや、何でもないです(コホン

デパ地下・駅チカ・ロマンチカ(意味不明)

ですから、部屋からは川崎駅前の喧噪が丸見えです。
こいつは、2008/3/20 の記事でも出てきた「ラゾーナ川崎」ですね。確か東芝の工場跡地だとか聞いたことがあります。あの辺多いですからね。

眼下には客待ちのタクシーが。
ただ、そんなにうるさいとは感じなかったですね。ある程度の騒音対策は織り込み済みなのかも知れません。

電話も遠くになりにけり

おそらくは、シングル 2 部屋分なんじゃないかと思われるこのツイン。広さ(長細さ)を実感させるものがいろいろとありました。例えば
電話のコードレス子機。多くの場合、電話機は枕元にあるので、入口の近くに設置されているソファーからは相当遠い位置にあることになります。バスルームに(有線の)子機があるホテルはかなりあるのですが、ワイヤレスの子機があるホテルはそんなに無いですよね。

ちなみに、枕元からコードレス子機を望んだ写真がこちらです。
(固定)電話も遠くになりにけり、ということでしょうか(そうなのか)。

アースあります

それから
一体何に使えば……と思わせる、充実の電源環境(笑)。ちゃんとアースまであります。まさかマンションとして設計されたなんてことは……。

サーモスタット付き混合水栓普及委員会

風呂場周りはふつーのサイズ。ビジネスホテルとしては上出来の部類の入りますね。
サーモスタット付き混合水栓。やっぱこれですねー……!

Ratings

こちらの「ホテルメッツ川崎」、朝食は 1 階のレストラン「つばめグリル」で食べることができるのですが、疲労と睡魔に負けちゃいました……(ごめんなさい)。なので、その辺が評価に加味されていないのですが……。

えー、やっぱ JR 東日本グループのホテルだけあって、基本的にコンサバな印象があります。必要十分な点はきちんと押さえているな、といったところですね。立地は最高ですし、きちんとしているけれど肩も凝らないし、といったところでしょうか。Rating は文句なしの ★★・(2 つ星)です!

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2009年7月14日火曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルメッツ川崎」編

この書庫を更新するのも久しぶりのような気がしますが、まだストックはいくつかあるので……。今日は、神奈川県は JR 川崎駅前の「ホテルメッツ川崎」編です。

気がつきゃ泊まったの半年前じゃん……。

「鰻の寝床」の反対です

こちらのホテルは、川崎駅西口から徒歩 45 秒くらいのところで、駅と駅前のバスターミナルの間にあります。なので、どちらかと言えば細長い形をした建物です。横に長くて奥行きがそれほど無い、といった感じでしょうか。

1 階のフロントでチェックインを済ませて、エレベーターで部屋に向かいます(ベルボーイさんはいなかったと記憶しています)。

案内された部屋がこちら。
まずはソファーとテーブルが迎えます。窓の向こうは駅前のバスターミナルですね。後ろを振り返って入口のドアをパチリと。
部屋に奥行きが無いのが良くわかると思います。

コートとかをかける押し入れのようなアレ

少しソファーの先に進んでみましょう。
テレビと机が見えますね。そして窓と窓の間にはコートとかをかける押し入れのようなもの……あれ? 何て言うんでしたっけ、あれ。で、その奥にベッドが見えます。

少しアングルを変えてもう一枚。
レイアウトを考える上で、液晶テレビが薄くて良かったですね、と思わせます。

懐の深い部屋にはベッドが二つ

で、ベッドを見てみると……
そう、ツインなんですね。これだけ奥行きが無くて横に長いツインも久しぶりです。

はい。時間も無いので、明日に続きますね。

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2009年7月13日月曜日

国道 152 号線の旅 (32) 「これがホントの『兄弟船』」

そういえば、「国道 152 号線の旅」がおそろしく「ちゅーとはんぱ」なままですので、ちゃんと締めておかないといけません。えーと、「伊勢湾フェリー」に乗って「船多いね」というところで止まっていた筈なので……(←

テレホンサービスで聞いてみませんか?

んで、客室にはこんなチラシがありました。
伊勢湾海上交通センター」とあります。なかなか秀逸なコピーが並びます。

★ フェリーの船上で受ける強い風に「今の風速は?」と疑問に思った
とき、テレホンサービスで聞いてみませんか?
★ フェリーの前を横切る船の名前や船の大きさをテレホンサービス
で聞いてみませんか?
★ 携帯電話サイトを使うと、更に多くの情報を得ることができます。
結局、テレホンサービスを勧めているのか携帯電話サイトを勧めているのか今ひとつわからなかったりしますが(←)、なんか楽しそうではあります。

ちなみに、今回乗船したのは「鳥羽丸」だったようです。
この写真を撮ってなかったら、名前がわからなかったかもです。

服部克久「夕陽」(←

やがて、西の空に日が暮れゆくとともに、答志島の島影が見えてきます。
タイムスタンプによれば、18:11 頃みたいですね。

これがホントの「兄弟船」

18:30 過ぎに、伊勢湾フェリー「鳥羽丸」は、その名の通り鳥羽港に到着しました。港では同じ伊勢湾フェリーの「伊勢丸」が出迎えます。
これがホントの「兄弟船」というヤツですね(←

Average 50.8 km/h

さて。鳥羽から自宅までも、ひたすら中央構造線の近所を走り続けます。
伊勢自動車道の「伊勢 IC」までは、「伊勢二見鳥羽ライン」という有料道路があるのですが、ここがまた……魔の「ETC 無し」「機械収受」という料金所でした。後続車に迷惑をかけるわけには行かないので、手前でストップして、皇族を、じゃなくて後続を全てやりすごしてから、停車&徒歩にて料金を投入します(笑)。

さすが皇學館大学のお膝元だけあって「皇族を」と来ましたね(違う)。

勢和多気 IC で流出後は、ずーっと一般道をひたすら Go West~♪ 状態に。約 127 km を約 150 分で走破して、無事帰ってきましたとさ。

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2009年7月12日日曜日

「インディギルカ号の悲劇」

ピトー管と三保飛行場の組み合わせの真実はソ連とブチ切れたことから始まった&越川橋梁(←

アクセス解析をやっていると、どんな記事が読まれているかがわかって楽しいものです。意外と人気があるのが

ピトー管侮るべからず
モノレール Suica と PiTaPa の組み合わせ
三保飛行場 「甲飛予科練之像」
インディギルカ号の真実 ─バック・トゥ・ザ・猿払村─
列車の止まる道の駅&越川橋梁
全てはベレンコの奥さんがブチ切れたことから始まった
「アラル海」の運命は「ソ連」と共に

といったあたりでして、この中でも、特に「アラル海」の記事の人気が高いようです。この記事は自分でもそれなりに気に入っているので、会心の一本だったかと思っています。

ちなみに、上記のリストは新着順で、人気順ではありませんので念のため。

続編はやっぱ三部作まで

さて、「人気があるので続編を」というさもしい考え方……ではないつもり……かどうかは甚だ怪しかったりしますが(←)、インディギルカ号の遭難について、もう少し掘り下げてみようかな、とふと思い立ち、参考書籍を Amazon.co.jp でゲットしてみました。「インディギルカ」で検索して、引っかかったものを二つほど……。

「冬の海に消えた七〇〇人」

まず最初がこの一冊。
前田 保仁「冬の海に消えた七〇〇人」北海道新聞社(1987)

こちらはささっと読了しました。そういや「Bojan の本棚」もしばらくメンテできていませんね……。がむばらないと。

「インディギルカ号の悲劇」

もう一冊がこちら。
原 暉之「インディギルカ号の悲劇」筑摩書房(1993)ISBN4-480-85634-X

こちらは昨晩から読み始めたところですが、世評通りなかなか読ませる本です。

この二冊は、どちらも「インディギルカ号」を題材にしたものですが、もっとも大きな違いとして「出版年次」があります。見かけ上はたった 6 年でしかありませんが、ちょうど「ソ連崩壊」の「前」と「後」なんですね。「インディギルカ号」=「ソ連の政治犯輸送船」説は、(日本では)ソ連崩壊後の「新事実」とされているので、1987 年の書物と 1993 年の書物でどういった違いがあるのか、読み解くのが楽しみです。

詳しくは、「インディギルカ号の悲劇」を読み終えた後で記事にしますね。

マガダンはカムチャツカに非ず

最後に、面白いネタをひとつ。「冬の海に消えた七〇〇人」の表紙を見て頂きたいのですが、出発地が「マガダン」になっています。

ところが、猿払村の「インディギルカ号遭難者慰霊碑」には、次のようにあります。

 昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ号」とそれ
に乗合せていた人々に最後の時がやってきた
 「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族106
4名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海
中 折からの暴風雪に押し流され 乗務員たちの必死の努力も空
しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メート
ルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有
の惨事となった
(以下省略:全文は https://www.bojan.net/2008/11/16.html でどうぞ)
「カムチャッカから」(原文ママ)とあるのですね。もちろん、この慰霊碑が建立されたのは 1971 年ですから、当時は「カムチャツカから」だと信じられていたのかもしれません。しかし、1987 年の時点では「マガダンから」という話になっています。おそらく、それが正しかったのでしょう。

「マガダン」は、ちょいとばかしソ連事情に詳しい方ならよーくご存じの地名です。そう、流刑地として有名なところだったのですね。カンのいい人なら、この時点で「インディギルカ号」の隠された目的にも察しがついていた……のかもしれません。

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2009年7月10日金曜日

クラウス・ノミのピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 《悲愴》

「ハリー・ポッターと腎臓結石」というネタでややウケた Bojan さんですこーんばんは♪

ピアノ・ソナタ 第 8 番 ハ短調 作品13 《悲愴》

さて。今日は久々に、忘れた頃にやってくる音楽ネタです。前回の「音楽の話」は 6/12 ですから……忘れるほどでも無いですか。そうですか。

さて(← 二度目)。先日、帰りの電車の中でいつも通り音楽を聴いていたのですが、ベートーベンの「ピアノ・ソナタ 第 8 番 ハ短調 作品13 《悲愴》」の第 2 楽章が流れてきたのですね。んで、聴いていて「あれ? これ、どっかで聴いたことがあるんだけど……」という気持ちになったのでした。いわゆるひとつの「デジャブ」ってヤツでしょうか。「デジャブってヤツじゃね?」てな感じでしょうか。イントネーションを変えて繰り返しているだけのような気もしますが、まぁ細かいことは気にせずに。

いわゆるひとつのデジャブ

で、「エンドレスエイト」のキョンの如く(←)「いわゆるひとつのデジャブ」が気になっていたのですが、あっさりと片がつきました。エルヴィス・プレスリーの "Can’t Help Falling In Love"、邦題だと「好きにならずにいられない」という題がついたアレとそっくりだったわけです。

好きにならずにいられない(Can't Help Falling In Love)とは、エルヴィス・プレスリーが 1961 年に制作・発表したシングル。全米 1 位は獲得できなかったが、プレスリーの代表的なバラードの一つとして知られ、後年、コリー・ハートや UB40 等のアーティストによるカヴァーでもヒットしたスタンダード・ナンバー。
(Wikipedia 日本語版「好きにならずにいられない」より引用)
コリー・ハート……、懐かしすぎです。昔に一曲くらいは聴いたと思うのですが、曲名すら思い出せないです。それはさておき。

18 世紀のフランスで生み出された楽曲「愛の喜び (Plaisir d'Amour)」のメロディを元に作曲された。
(Wikipedia 日本語版「好きにならずにいられない」より引用)
あれ……? ベートーベンの「ベ」の字も出てきませんね。この場合の「ベ」の字が最初の字か 5 文字目かは意見の分かれるところかも知れませんが、この際はっきり言ってどうでもいいのも確かです。

気にならずにいられない

"Can't Help Falling In Love" はプレスリーの曲ですが、私もさすがにプレスリーは聴かないので、誰かがカバーしたものを聴いた、ということになります。思い当たるのが Andrea BocelliKlaus Nomi、そして UB40 あたりです。Klaus Nomi 以外は Wikipedia の記事にも名前がありますね。

ボチェッリ版を聴いて、クラウス・ノミ版を聴いて、そして UB40 版を聴いて。ん、あれ? これって《悲愴》とはまったく違うような……と思って、慌てて聞き直してみました。なるほど、クラウス・ノミ版の "Cant Help Falling In Love" だけ、最初の 8 小節がベートーベンの《悲愴》に置き換えられていたのでした。いやー、全然気づかないほど自然に置き換えられていました。お見事です。

世紀の(ちまちました)大発見?

この、クラウス・ノミ版による《悲愴》との合わせ技、ググってみても意外とヒットしないので、これはもしかしてちょっとした発見なのかな? なんて思ったりもしたのですが、もちろんそんなことは無くて、例えば英語のサイトだったら http://en.allexperts.com/e/p/pa/pathétique_sonata_in_popular_culture.htm あたりに、ちゃーんと

*Klaus Nomi's song I Can't Help Falling in Love is based on the main theme of the second movement.
(Quoted from http://en.allexperts.com/e/p/pa/pathétique_sonata_in_popular_culture.htm)

なんて書いてあったりもします。

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2009年7月9日木曜日

国道 152 号線の旅 (31) 「ベンチシートに秘められた大いなる矛盾 ~伊勢湾フェリー~」

珍しく遅くまで仕事してたので、今日は簡単に……。

伊勢湾フェリーってこんなのだよ

えーと、自動船舶識別装置のおかげで安全に航行できている伊勢湾フェリーの乗船記みたいなものを。

車輌甲板

まずは甲板(ちなみに「こうはん」とアナウンスされますね。もはや「かんぱん」とは言わないのかな?)の風景から。
うむ。どうやら搭載したのは乗用車 5 台だけっぽいですね。きちんと左右のバランスを取っておいてあるのはさすがです。

船室

車輌甲板の 1 フロア上が船室です。
続いては船室へ。
船舶も航空機と同じく軽量化は重要ですから、椅子も割と簡単な構造のものが使用されています。まぁ、乗心地はそれなりなので問題ないですが、リクライニングはできなかったような。

ちなみに、この船も駿河湾フェリーと同じく、船内でいくらか支払えば、上階の「特別室」に入ることができたのですが、この客の数だとさすがにその気にもなれず……結局見ずじまいでした。

ベンチシートに秘められた大いなる矛盾

あまりに客が少ないからか、少々居心地の悪さを感じたので、船尾に行ってみました。
船尾には、ベンチシートのスペースが設けられていました。屋根はありますが窓はありません。開放感に浸れますが……それより風がもの凄いです。;)

定員表記はちょいと謎めいています。
びみょうに大きな矛盾を孕んでいるのに今頃気づきましたが、それはそうと、定員に時間指定があったり、そもそも 55 分の航路に就航している割にはやたらと長時間を想定して書かれているあたりも……謎です。

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2009年7月6日月曜日

イギリスの片田舎から

意外とアバウトだったり

メンサの入会テストを受けてから、結果が帰ってくるまで「1 週間以内」と言われていたのですが、意外なことにわずか 2 日で結果を知らせるメールが届きました。合格とのこと。まぁ、何でもやっぱ不合格よりは合格のほうが嬉しいものですけどね。

ということで、最初のお仕事は年会費の振り込みです(笑)。JAPAN MENSA であっても年会費はポンド建てのようで、約 12 ポンド、3200 円を振り込みました。新手の詐欺だったらどうしようか、などと多少不安に思ったのも事実ですが……(←

いやね、「おめでとうございます。あなたは当選しました!」→「手続きが必要なので、○○円をスイス銀行の隠し口座に……」という流れかも知れないじゃないですか(笑)。

実際、非営利団体だとしても、ある程度は会員数を稼がないと運営も大変じゃないですか。だから、合格者を濫発してるんじゃないか、なんて邪推したことも……ありましたです、ハイ。

イギリスでも意外とアバウトだったり

で、その後、「入金を確認しましたので、入会手続きを行います」というメールを受け取って、今日でちょうど一ヶ月になります(笑)。どうやら、イギリスの本部に会員登録をしてくれるようです。「入会処理には 1 週間から 2 ヶ月程度かかることがあります」という、イギリスらしからぬラテン系の注意書きがあったので、「ま、2 ヶ月たっても音沙汰無かったら連絡してみるか」と思っていたのですが、一昨日、イギリスの片田舎から一通のエアメールが届きました。

中にはこんなカードと、レターが 1 枚。
「メンバーは全世界で 10 万人」なんて話を聞いていたのですが、会員番号は 5 万台でした。まぁ、細かいことを気にしてはいけませんね。:)

Wikipedia も意外とアバウトだったり

ということなので……

会員の種類
メンサの会員権には、各国のナショナル・メンサ(支部)に所属するナショナル・メンバーと、メンサ・インターナショナル(本部)直属のインターナショナル・メンバーの 2 種類がある。ナショナル・メンバーに対しては各国の支部が会員証を発行しており、インターナショナル・メンバーに対してはイギリス本部が会員証を発行している。両方の会員権を同時に持つことはできず、ナショナル・メンサのある国に国籍を有する会員は、原則当該国のナショナル・メンバーとなり、それ以外の会員がインターナショナル・メンバーとなる。
(Wikipedia 日本語版「メンサ」より引用)
とありますが、JAPAN MENSA というナショナル・メンサにてテストを受けても、イギリス本部のインターナショナル・メンサから会員証が届いたので、この記述は、日本での現状には即してないようです。

いや、それがどうした、と言われたらそれまでの話なんですが……。

テストも意外とアバウトだったり

あ、そうそう。http://www.iqtest.dk/ のスコアが 138 だった件ですが、どう考えてもあれは「まぐれ」です。というのも、全 39 問を正解しても 140 にしかならないのですね。138 ということは、1 問を除いて全問正解だったわけです。しかしながら、当時は少なくとも 3~4 問、答がわからない問題がありました(笑)。ですから、あれは「まぐれ」だった、と断言できます。

お詫びと訂正(2009/10/21 加筆)
http://www.iqtest.dk/ (English) ですが、全問正解だと「145 over」になるようです。従いまして、本文中の「140 にしかならない」というのは誤りです。大変失礼しました。

もし、メンサに興味がある、という方は、http://www.iqtest.dk/ のテストを制限時間 25 分で試してみて下さい。それなりに参考になると思います。あ、それと、http://www.nicologic.fr/ の MatrixB には気をつけたほうがいいです。凄く頭にストレスがかかるので……(私だけ?)

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2009年7月5日日曜日

円卓の騎士たち

関西では不定期開催中

http://www.iqtest.dk/ の結果が想定外に良かったこともあり、「なんか面白そうかも」と思ったので、JAPAN MENSA に「次はいつ入会テストするんですか?」と聞いてみました。すると「3 日前にやったばっかなんで、次はいつになるかわかりません。東京だと毎月やってるんですけどねー」との返事を頂きました。そう、関西だと不定期開催らしいのですね(その時は「年に 2 回程度」とおっしゃってました)。

ということなので、夏頃に行われるであろうテストを待つことにしたのですが、約 3 ヶ月ほど待った 5 月頃に、「今月、関西でテストをやることになったのですがどうですか?」との連絡がありました。もちろん受けない手はないので、受験を申し込みました。

入会テストについて

メンサの入会テストについては、

ただし、メンサで入会資格を判定する際に参照される IQ テストは、ウェクスラーやビネーなど学会のレベルで認められたものに限定されており、メンサが実施する入会テストもそれらに基づいて作成されている。したがって、メンサが実施する入会テストに合格する以外に入会資格を得る方法としては、専門の機関で IQ テストを受け、そこから発行された証明書を提出する以外にはなく、市販のものやネットで公開されている IQ テストの類は、メンサでは一切受け付けない。

なお、メンサの入会テストは受験回数に制限があり、半年の期間を空けて生涯に 3 度までしか受けられない。
(Wikipedia 日本語版「メンサ」より引用)
となっています。入会テストをスキップする方法としては、「専門の機関で IQ テストを受け、そこから発行された証明書を提出する以外にはなく」とありますが、どうやら JAPAN MENSA ではこの手は通用しないみたいです(イギリスのインターナショナル・メンサであれば、こういった方法も取れるのかも知れません)。

ちなみに、テストの費用は 1 回 1 万円です。これを高いと考えるか安いと考えるかは人それぞれだと思いますが、試験会場を借りるだけでもそれなりのコストがかかる筈でしょうし、メンサに入りたいなんて酔狂な人間はそうはいないでしょうから、もしかしたら受験者は私ひとりで、大赤字になるんじゃないか、なんて妙な心配をしてました。

円卓の騎士たち

話を少々逸らしますと、"MENSA" という言葉は、ラテン語で「円卓」を意味するのだそうです。だから、"MENSA" や「メンサ」でググると、イタリア料理の店が結構ヒットするのですね。

で、指定された日時に指定した場所に行ってみると……なんだか意外と人が来ています。ぱっと見たところ 4~5 人はいるようです。一人が試験官だというのは一目瞭然だったのですが、そう考えると他にも受験希望者がいた、ということですよね。

で、試験会場ですが……、円卓でした(笑)。拘りがあるのか、それとも単なる偶然かはわかりませんが、「試験会場」という雰囲気に似つかわしくないのは事実です。結局、その場には 8~9 人ほどいたのですが、2 人が試験担当者で、残りの 6~7 人が受験希望者でした。老若男女といった感じで、高校生あるいは大学生と思しき人もいましたね。

簡単な問題をスピーディーに解く能力が求められます

所要時間は「1 時間」と聞いていたので、「ふーん」としか思わなかったのですが、テスト自体の制限時間は 30 分程度でした。確か、1 問につき 1 分無かったような気がします。つまり、ある程度スピーディーに答を出していかないといけません。もちろん、この手の知能検査の常として、最初は簡単で、最後のほうになればなるほど超難問が用意されている……筈です。

で、いくつか注意事項の説明を受けて、いざ検査開始!となりました。試験担当者の「最初は簡単ですが、後のほうに難しい問題も用意していますよ」という言葉に釣られたのか、周りの人は軒並みハイペースで進んでいきます。そういう自分は、飛ばしすぎだと凡ミスをやらかす、という風に「自分の能力の限界」を自覚しているので、1 問あたり 30 秒近くかけながら、じっくりと問題を解いていきました。

で、感想ですが

……結局、めちゃくちゃ難しい問題はついぞ出ることなく、すんなりと全問解けてしまいました。確か、5 分くらい時間も余ったと記憶しています。感想としては「なぁんだ全然簡単じゃん」といったもので、「これでダメだったら、何度チャレンジしても無駄だから、もうやめとこ」などと思ったものです。

「結果は遅くとも一週間以内にはお返しします」との説明を受け、その場はすごすごと引き上げたのでした。

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2009年7月4日土曜日

メンサとか IQ とかの話

ルチ将軍の IQ は(自称) 1300

今年の 1/26(月) に、「ブライアン・ジョーンズは IQ 135」という記事を書いたのですね。で、こんなことを書いたのでした。

せっかくなので、どっかでオンラインで IQ が測定できないかなぁ~と思って調べてみたところ、http://www.unnmei.com/iq.html というページを見つけました。ひととおり試してみたんですが、130 点とのこと。そうか、しょせんお遊びのテストでも、ブライアン・ジョーンズを上回ることはできなかったのね、なんて。
(1/26 の記事より引用)
ただ、ブライアン・ジョーンズに負けるのも癪だったので(そういう問題か)、http://www.iqtest.dk/ あたりも試してみました。すると……
想定外(たぶん、実力以上)にいい結果が出たのですね。「お、なんかすげーんじゃね?」と勘違いしたのはともかく、グラフの一番右側に書いてある "Mensa level" という謎の言葉が気になってしまいました。

メンサって?

ということで、世界の Wikipedia さんに聞いてみました。

メンサMENSA)とは、入会条件を上位 2% の IQ を有する者に限定した国際的な団体であり、高 IQ 団体としては最も有名かつ長い歴史を持つ。
(Wikipedia 日本語版「メンサ」より引用)
ふぅーん。そんなものがあったんですねー。たまーに(年一回くらい?)テレビで取り上げられることがあるそうなのですが、その手の(どの手の?)テレビ番組は見ないんで……。

入会資格
IQ テストで上位 2% のスコア(平均値を 100 とした場合、標準偏差 15 で 131 以上、16 で 133 以上、24 で 150 以上)を出すことを、唯一の入会資格とする。
(Wikipedia 日本語版「メンサ」より引用)
なかなか的確な表現です。実は、「ブライアン・ジョーンズの IQ は 135」という表現は、事実としては正しいのですが、比較尺度としてはあまり意味がないのですね。いや、以前から知っていたわけではなくて、この辺をちろちろ書いていた頃に知ったので、私も人のことを言えた義理ではないのですが。

というのも、いわゆる「IQ テスト」にはいくつか流儀?があり、ものによって標準偏差が異なるのだそうです。ビネー式の検査は標準偏差 16 なのに対し、ウェクスラー式は標準偏差 15 です。標準偏差 24 のものもある筈なのですが、詳細がわかりません。

ま、これの何が問題かと言うと、ウェクスラーやビネーの検査で IQ 135 なんだったら「上位 2%」に含まれるわけですが、標準偏差 24 の検査で IQ 135 だったら、「上位 2%」には含まれない、ということになってしまうわけです。ですので、比較尺度としては問題がある、というわけです。

平たく言えば、100 点満点・平均点が 50 点のテストで 80 点を取ることと、200 点満点・平均点が 100 点のテストで 90 点を取ることを比較するようなものです。どっちが良い成績かは、おわかりですよね。:)

知能百分段階点

そのため、単純に「IQ がいくつ」という表現をするのではなく、「~パーセンタイル」という表現が良いらしいです(またの名を「知能百分段階点」)。標準偏差と IQ の換算表がありますから、こいつを使えばいいわけですね。標準偏差 15 の検査における IQ 130 は、98 パーセンタイル、となります。

で、先程お見せした iqtest.dk では、標準偏差 15 で点数を算出している……ように見えます(実際のロジックはわかりません。案外「てきとーに算出してんじゃねーの」、と疑っていたりもしますが)。138 だとすると 99 パーセンタイル以上ということになりますから、これはまた随分といい結果だ、ということになっちゃいます。

……何となく興味を惹かれるので(少なくとも Blog のネタにはなる)、JAPAN MENSA に「次はいつ入会テストするんですか?」と問い合わせを入れてみました。

あ、やはりと言うか、続きます。

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2009年7月3日金曜日

自動船舶識別装置もしくは船舶自動識別装置のはなし

一定の間隔で放たれそして吸い込まれていく金属球……じゃなくて

船の話から、ちょいと浮上して空の話ですが、日本国内で一番過密な空域と言えば、やはり羽田への着陸アプローチだと思います。天王洲あたりで見ていると、ホントに一定間隔でどんどんジャンボジェットが着陸していくのが見えて、ただひたすら感心してしまいます。

当然、これらの航空機は全て、管制官による管制を受けています。管制官も、三次元レーダーを見ながら「ちょっと待って」とか「着陸の準備ができたよ」とか「三回まわって『ワン!』って言って」といった(いわない)指示をしているのだ……と聞いたことがあります。

自動列車制御装置……じゃなくて

まぁ、なんせ飛行機が次から次へと下りてくるので、レーダーに点だけが表示されているのでは、そのうち飛行機を取り違えてしまいます。そういったことが起こらないように、大型の航空機には「ATC トランスポンダ」というものが装着されています。

どういったものかと言うと、管区(日本にいくつあるのか、具体的にはさっぱり知りませんが)に入ったタイミングで、広域管制官から「今日のラッキーナンバー」(違)を割り当ててもらうことで、レーダーに 4 桁の個体識別番号が表示されるという、そういったものです。トランスポンダは 4 桁のマジックナンバー(違)といっしょに速度情報や高度情報も管制塔に送ってくれるので、これなら管制官もママも OK なわけです。

あ、この辺の仕事をしているのが「ATC トランスポンダ」です。イベントなんかで、RFID が埋め込まれたゲストカードが配られるのと似て……ないか。ま、それはともかく。

もちろん南港の「アジア太平洋トレードセンター」でもなくて

そんなわけで、航空管制の世界には「ATC トランスポンダ」というスグレモノがあるけれど、船舶の世界にはそんなハイテクが無くて大変だよね、と思っていたのですが……

自動船舶識別装置(じどうせんぱくしきべつそうち)もしくは船舶自動識別装置(せんぱくじどうしきべつそうち、英:Automatic Identification System, AIS)は、VHF 無線機を利用した、船舶を自動識別する装置。
(Wikipedia 日本語版「自動船舶識別装置」より引用)
なんだ、あるんじゃないですか。

東京湾限定でもなくて

いや、実はそーいったものが存在するのは知っていたのですが、確かコイツは東京湾だけで運用されていた……ような気がしたのですね。でも、

主目的は IMO MSC74(69)ANNEX 3 に規定される 船舶同士の衝突予防、通過船舶とその積荷情報の把握及び船舶運航管理業務 支援であるが、東京湾・名古屋港・伊勢湾・大阪湾・備讃瀬戸・来島海峡・関門海峡の全国 7 カ所の海上交通センター、ポートラジオなどの 航行管制としても利用されている。(ポートラジオは傍受のみも多い)
(Wikipedia 日本語版「自動船舶識別装置」より引用)
あ。伊勢湾でも使用されてるんですね。

日本国内における装置の搭載義務は、300 総トン数以上の国際航海する船舶、500 総トン数以上の非国際航海の船舶、国際航海の 全旅客船となっている。
(Wikipedia 日本語版「自動船舶識別装置」より引用)
伊勢湾フェリーの船舶は、約 2,300 トンだと言いますから、間違いなく「自動船舶識別装置」は装着済みの筈。なるほど、こいつがあれば過密海域でも自信を持ってかっ飛ばせるというものですね。今更ながら、安心したのでした。

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2009年7月2日木曜日

国道 152 号線の旅 (30) 「周りは船だらけ」

さて。渥美半島の伊良湖岬と、ラッコと真珠の街・三重県の鳥羽港を 55 分で結ぶ「伊勢湾フェリー」ですが、何にビビったと言うと……、周りが船だらけなのですね。
昨日使用した地図の使い回しです。伊勢湾フェリーは太平洋と伊勢湾を結ぶ海峡を横切るわけですから、太平洋から名古屋や四日市に向かう船舶と、ちょうど直交するコースとなるわけです。

左舷を見てみれば

例えば、左舷を見てみれば
てな感じに 2 隻も航行していたり、そうこうしている内に
こんなに近づいたり。こいつは自動車運搬船か何かでしょうかね。

右舷を見やると……

もちろん右舷も負けていなくて、
この程度の近くにいるなぁ、なんて思って周りをよく見てみると、
7~8 隻は視認できたりして……。東京湾でも無いのに、こんなに混雑した海域なのね、と改めて驚いた次第です。

大型船は車以上に急に止まれない

大型船は自動車と違って、停止を企図してから静止するまでの時間が分単位(数分から数十分)なので、「あ、見えたな、やばいな、衝突コースだな」と思ったらすぐに回避行動に出ないとエラいこと(衝突)になる……なんて言うじゃないですか。こういった危険を避けるためには、もちろんしっかり見張ることが重要になりますが、車と同じで比較的短時間で停止できるように、ややゆっくり目に進むことも有効かと思うのですね。

にも拘わらず、「伊勢湾フェリー」は結構な速度で一路西に向かいます。「20 ノットは出てんじゃねーか」なんて思ったりもしたのですが、http://www.isewanferry.co.jp/ferry.html を見る限り、航海速力は 16.3 kt あるいは 17.5 kt のようなので、まぁ、こんなものでしょうか(どんなものだ)。

つづく

この、船だらけの海峡をぶつかることなく航行できる秘訣は何なのか、書き始めるとエラいボリュームになりそうなので(いや、そんなに大したことでも無いんですが)、続きはまた明日にでも。

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