2014年11月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (234) 「丸万・ウカルシュベツ川・浦士別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

丸万(まるまん)

mak-oman-putu?
山手・行く・河口
(? = 典拠あるが疑わしい、類型多数)
網走市東部の内陸寄りの地名で、同名の川が涛沸湖に注いでいます。どう考えてもアイヌ語由来じゃ無いよね……と思っていたのですが!(汗)

とりあえず、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 丸万(まるまん)
 網走市の字名。釧網線北浜駅から南に入った部落。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
ここまでは OK ですよね。続きを見てみましょう。

ここを流れて濤沸湖に入る、サルマオマナイという川の名からでたものというが、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
なんと! もちろんまだ続きがあります。

サルマはサル・オマ(葦原にある)であるのに、更にオマがつくのはおかしい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
おっ、確かに。sar-oma-oma-nay というのはいくらなんでも変ですね。

サル・オマン・ナイで葦原に行く川ではないと思う。この川は奥まで葦原がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)※ 原文ママ

ふむふむ。sar-oman-nay ではないか、というのが更科さんの説ですね。ただ、「サㇽオマンナイ」が「マルマン」になったとすると、「サ」が「マ」に化けたことになります。

ちなみに、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には次のようにありました。

(409) サルマオマナイ サル・パ・オマ・ナイの転訛。サル(葦原),パ( のかみ),オマ(にある),ナイ(川)。今,丸万川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.312 より引用)
sar-pa-oma-nay で「葭原・かみ(上)・そこにある・川」という解釈のようです。これも「マルマン」とは随分と開きがありますが、「サルパオマナイ」が「サルマオマナイ」になり、それが「サルマナイ」→「サルマン」→「マルマン」と変化していった……といった感じなのでしょうか。可能性はゼロではありませんが、ちょっと厳しくないかな? と思ったりもします。

ところが……

ところが……。「角川──」(──)にちょっと気になる記述を見付けました。

 まるまん 丸万 <網走市>
〔近代〕昭和13年~現在の行政字名。はじめ網走町,昭和22年からは網走市の行政字。もとは網走町大字濤沸(とうふつ)村・娜寄(なよろ)村・藻琴村・網走村の各一部,藻琴原野・モコト原野。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1426 より引用)
はい。間違いなく現在話題にしている「丸万」の項目なのですが、

地名の由来はアイヌ語のマルオマンプト(内陸に向かって通じる道の河口)による(丸万実豊部落史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1426 より引用)
おや? 知里説・更科説とは随分と違いますね。ちなみに明治期の地図には「マルマン川」とありますが、さらに遡って東西蝦夷山川地理取調図を見てみると、そこには「マルマフト」の文字が……。

「マルオマンプト」も「マルマフト」も、そのままでは意味不明ですが、「内陸に向かって通じる道の河口」という解釈からそれっぽいものを考えてみると……。そうですね、mak-oman-putu だった可能性は考えられないでしょうか? これだと「山手・行く・河口」となりますし、「ㇰ」が「ル」に転訛しただけの形と言えますから、「サルパオマナイ」→「マルマン」よりはあり得るんじゃ無いかな、と思ったりも……。

もっとも、そうなると知里さんはどこから「サルパオマナイ」という地名を拾ってきたのかという謎が生まれてくるのですが、これは……謎ですね(汗)。

ウカルシュベツ川

u-kar-us-pet?
互いに・打つ・いつもする・川
ukuri(-kina)-kar-us-pet??
タチギボウシ・採る・いつもする・川
(? = 典拠あるが疑わしい、類型多数)(?? = 典拠なし、類型あり)
涛沸湖の中部に注ぐ川の名前です。「浦士別」と混同しがちですが、別の川です。

永田地名解には次のようにあります。

Ukar’ush pet  ウカルㇱュ ペッ  椎打ノ遊戯セシ處 沼ニ注グ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.494 より引用)
えぇと、「棒で叩き合う遊びをしたところ」という意味だということでしょうか。なんとも地名説話っぽい匂いがプンプンしますね。

知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には、次のようにあります。

(417) ウカルシベツ(Ukar-ush-pet) ウカル(棍棒で叩き合う,決闘する),ウㇱ(いつも……する),ペッ(川)。「いつも決闘する川」の義。こゝで始終山争いがあつたという。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.312-313 より引用)
あれ……? いつの間にか仁義なき戦いモードにレベルアップしていますね……(汗)。u-kar-us-pet で「互いに・打つ・いつもする・川」と解釈すべきなのでしょうか。説話的な解を避けて地名っぽく解釈するならば「互いに・まわす・いつもする・川」とも取れるのですが、地形図を見ても回流していた形跡が見当たらないため、この解は無さそうにも思えます。

おまけ

ちなみに、u-kar については、知里さんの「樺太アイヌの説話(一)」の脚注に詳しく記載されています。

(41) 「ウ・カラ」。ウは「お互」,カラは「打つ」,即ち原義は「お互が打つ」「打ち合ふ」「打ち合ひ」の意味である。この語は, 今では,「シュツ゚」又は「シツ゚」と称する野球のバットに似た棍棒で打ち合ふ特別の打ち合ひを意味してゐる。この棍棒には,造り方と材料,使用の方法と使用の目的,等によって,種々の形式と名称があった様である。
(知里真志保「知里真志保著作集 1『樺太アイヌの説話(一)』」平凡社 p.355 より引用)
「特別の打ち合い」とありますが、それがどのような目的を持っていたかについては、次のようにあります。

ウカラは,前に述べた如く,棍棒(シツ゚)を以てする打ち合ひであるが,それは何の為に行はれたかと云ふと,(一)紛争が口論(「チャランケ」)のみで決し兼ねた場合,それを解決する最後の手段として用ひられ, また(二)「鬱憤ありて打果すほどの事に及びたる時,あつかひの者入て和談せしめ遺恨なきために互に打て鬱憤を散ずる」(『北海随筆』),即ち和解の手段として用ひられるのである。(三)試合の方法としても用ひた(→註4)。本篇の場合などその一例である。(四)後にはそれがスポーツ化し,更に興行的な行事にまで化した。
(知里真志保「知里真志保著作集 1『樺太アイヌの説話(一)』」平凡社 p.356 より引用)
2021/5 追記
道内各所に ukur(-kina) 関連の地名があり、例えば新冠町には「受乞」という地名がかつて存在したことがわかってきました。「受乞」は ukur(-kina)-kar-p で「タチギボウシ・採る・ところ」ではないか、と考えられています。となると ukuri(-kina)-kar-us-pet も「タチギボウシ・採る・いつもする・川」と考えられそうです。

浦士別(うらしべつ)

uray-us-pet
簗・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
涛沸湖に注ぐ川の名前で、網走市と小清水町の境にもなっています。涛沸湖に注ぐ川としては、丸万川と同じくらいの長さを誇ります。

今回はあまり悩まずに進められそうです。まずは更科さんの「アイヌ語地名解」から。

 浦士別川(うらしべつがわ)
 浜小清水に近い濤沸湖の南対岸に入る川、小清水町と網走市の境界。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
導入部が綺麗に被りましたね。続きを見てみましょう。

アイヌ語でウライ・ウㇱ・ペッ(簗の多い川)と呼んだところ、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
はい。uray-us-pet で「簗・多くある・川」と解釈すれば良いようです。

アイヌの酋長噺の中に、ウラシペッウンクルという有名な酋長があり、その酋長のいた村がこの簗の多い川岸にあったという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
ふむふむ、そうなんですねぇ。ついでに山田秀三さんの「北海道の地名」も見ておきましょうか。

浦士別 うらしべつ
 濤沸湖の東南隅に注ぐ川名,地名。浦士別川はこの湖水に注ぐ最大の川で,網走市,小清水町の境界,昔は聞こえた大酋長がいた処である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.216 より引用)
うわわ。またしても大酋長の話が……。どれだけ有名なんだ! と思ったのですが、知里さんの著作集の中に「浦士別村の酋長」や「浦士別村の首領」というキーワードがわんさかと出てきました。本当にすんごく有名だったんですね。

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2014年11月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (233) 「勇仁川・藻琴・涛沸湖」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

勇仁川(いちゃに──)

ichan-un-i
鮭鱒の産卵場・ある・もの
(典拠あり、類型多数)
網走市東部、JR 釧網本線の鱒浦駅のあたりで海に注ぐ川の名前です。読み方がわかった時点で答えも出たようなものですが……(汗)。

この「勇仁川」、東西蝦夷山川地理取調図には「エチヤヌニ」と記されています。明治期の地図には「勇仁」という漢字表記と共に「イチッヌニ」という、何とも発音しづらい地名(川名かも)が残っていますが、どれも根っこは同じと考えて良さそうですね。

では、念のため山田秀三さんの「北海道の地名」を見ておきましょうか。

永田地名解は「イチャヌニ。鮭の産卵場。川の名。勇仁村と称す」と記す。書き直せば,イチャヌニ「ichan-un-i 鮭鱒の産卵場・ある・もの(川)」の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214 より引用)
はい。ichan-un-i で「鮭鱒の産卵場・ある・もの」という解釈で間違いなさそうですね。

今は鱒浦駅のそばを勇仁川が流れ,その西支流を鱒浦川という。つまり鱒が産卵のため集まる処なのであったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214 より引用)
ふむふむ。もともと ichan-un-i という地名があって、駅名と川の西支流は ichan-un-i を意訳して「鱒浦」に、本流は ichan-un-i の音にそのまま字を当てて「勇仁」となった、ということのようです。「砂川と歌志内」や「鹿越と幾寅」のようなケースのひとつと考えられそうですね。

藻琴(もこと)

mokot-to?
眠る・湖
muk-to?
塞がる・湖
(? = 典拠あるが疑わしい、類型多数)
網走市東部の地名・川名・湖名で、同名の駅もあります。「藻琴湖」はこのあたりの湖の中では小さいものですが、それなりに名の知れた湖かと思います。

この「藻琴」も古くからの地名で、そうであるが故に様々な解釈がなされているようです。というわけで今回も「北海道の地名」から。

藻琴 もこと
 網走市東郊の地名,湖名,川名。廻浦日記はモコトウと書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214 より引用)
古くは「モコトウ」と書かれていたようですね。東西蝦夷山川地理取調図では「モコト」、明治期の地形図には「モコトー」とあります。

山田さんのまとめでは、従来の説は 4 つあるとして、次のように紹介されていました。

 ①永田地名解は「モコトー。小沼。此辺大沼多し。此沼は最も小なるを以て名くと云ふ」。モ(小),トー(沼)は分かるが,間のコをどう読んだのか分からない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214 より引用)
「モコト」は「小沼」ではないか、という説が古くからあったことを窺わせる解ですが、山田さんも指摘したとおり、「コ」がどこから出てきたかが不明というところが疑問点として残ります。

 ②北海道駅名の起源昭和25年版(知里博士参加)は「ムㇰ・トウ(尻の塞がっている沼)の意である」。モコトの前の二字をムク(muk 塞がる)と読んだ。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214 より引用)
ふむふむ。muk-to で「塞がる・湖」と解釈したわけですね。藻琴湖も、サロマ湖のように沿岸流で運ばれた砂によって堰き止められた湖だと考えられますから、現実に即したうまい解だと言えそうです。

 ③網走市史地名解(知里博士筆)は「モコㇽ・ト mokor-to(眠っている・沼)→mokotto。この沼は山に囲まれていて波が静かであるから眠っている沼と名づけた」。巧い解である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214 より引用)
mokor-to が音韻変化して mokot-to になった、という説ですね。「眠る・湖」という解釈です。

 ④北海道駅名の起源昭和29年版(知里博士参加)は「モコト即ちポ・コッ・ト(子を持つ・沼)から出たものである」。たぶん藻琴沼の南東岸にある,ごく小さな池シュプン・ウン・トー(うぐい魚・いる・沼)に気がついて着想されたのであろう。モ(mo 小さい,静かな)をポ(po 子供)と同じように訳される知里博士独特の地名解をここに当てはめられたのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.214-215 より引用)
うぅーむ……。mo-kor-tomo-kot-to に音韻変化して「小さな・持つ・湖」ですか……。現代の地形図では確認できませんが、1980 年頃の土地利用図を見てみると、確かに湖の南側に小さな水たまりのような池があったと思しき書き方になっています。

ただ、仮に mo-kot-to なのだとしたら、「小さな・窪地・湖」という解釈が成り立ったりはしないものでしょうか(お隣の涛沸湖よりも小さいものの、藻琴湖のほうが涛沸湖よりも水深が深いので)。あっ、これだと永田地名解の解釈の改良版? になりますね。

涛沸湖(とうふつこ)

to-put
湖・口
(典拠あり、類型あり)
網走市と斜里郡小清水町の間にある湖の名前です。この湖もサロマ湖などと同じく、沿岸流によって運ばれた砂で堰き止められてできた湖ですね。あ、「海跡湖」と言えばいいのか……(汗)。

では、今回は久しぶりに更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。

アイヌ語では単に沼(ト)と呼んだらしく、個有名詞はなかった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)※ 原文ママ

ですね。生活圏内に複数の湖があって区別する必要でも無い限り、to は単に to だった、というケースが殆どのような気がします。

ト・プッは沼の出口(アイヌの考えでは海から沼への入口の意)。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
はい。to-put で「湖・口」と解釈すれば良いようです(あるいは to-putu かも知れませんが、それだと「湖・その口」ですね)。

ということで、元来は湖の名ではなかった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.261 より引用)
仰る通りですね。

ところで、更科さんは「単に to と呼んだらしく」としていますが、東西蝦夷山川地理取調図をよーく見ると、涛沸湖のところに「チカブント」という文字が見つかります。これが涛沸湖のことを指すのか、あるいは涛沸湖の湾のひとつを指すのかは判然としませんが、chikap-un-to で「鳥・そこにいる・湖」という意味だったと考えられます。

涛沸湖はラムサール条約の指定地で、北側には小清水原生花園がありますが、昔から野鳥にとっても暮らしよいところだったみたいですね。

なお、北海道蝦夷語地名解は、涛沸湖と思しき湖を「アオㇱュ マイ沼」と記しています。東西蝦夷山川地理取調図にも「アヲンマナイ」(あるいは「アヲシマナイ」と記された一角がありますが、残念ながら意味は良くわかりません。

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2014年11月28日金曜日

Bojan の食事処探訪~「すし善」編

さて、ラベルはそのまま突然題名が変わりましたが、その訳は……。

はい。この日は斜里町の「すし善」というお店で夕食をいただきました。ホテルにもレストランはあるのですが、実は夕食時の営業を行っていないのだそうです。

「泊食分離」という考え方

宿泊予約のメールにも「ご夕食は、ぜひ地元の飲食店で!」と記されていました。曰く、「ここ斜里町にある飲食店は、(中略)大半が個人経営の地域に密着したお店で、取り扱っている食材も新鮮そのものです」とのこと。なるほど、これは面白い取り組みですね。

これは想像ですが、ホテルが斜里駅前に進出する際に、地元との調整の一環として始めた取り組みなんじゃないでしょうか。全国展開のホテルチェーンが全部持って行ってしまうのではなく、どうすればそのお客さんが地元にお金を落としてくれるか、ということを考えたのでしょうね。

確かにここは北海道ですから、地元のお店の方が「安くてうまいもの」を出せる可能性も高いような気がします。宿泊客に多少の不便を強いる面がゼロでは無いにしても、地元が潤ってお客さんも満足という「うまい話」が成り立ちそうな感じもします。

もちろん、ホテルの近くにどんなお店があるのかさっぱり判らないので、ホテルのフロントに申し出ることで地図を貰うことができます。では、地図を片手に街へ繰り出すことにしましょう……!

旨いお寿司でも!

せっかく北海道まで来たんだし、旨いお寿司でも! という選択になりました。件の地図を眺めていたところ、ホテルからそれほど遠くないところに「すし善」さんを発見。


というわけで……。
とりあえず、まずは握りをいただきました。

地元ならではの珍味?

続いては、普段では見かけないようなメニューを……。写真には納めたもののメモを取っておらず、これが何だったか実は全く覚えていないのですが(汗)、カニか何かの卵だったですかね……? ああ、「外子」と「内子」だったかもしれません。これは「外子」だったでしょうか。
で、こちらが「内子」だった……かもしれません(記憶あやふや)。塊状で出てきましたが、これは凍ったままの状態なのですね。なんでも融け始めたころに食べるのが一番美味しいのだとか。
こんな感じで、地元ならではかもしれない? 珍味にもありつけたのでした。最初は「ホテルで夕食がとれないのは面倒だなー」と思ったりもしたのですが、こうやって美味しいお寿司にありつけるだけで、感想なんてコロっと様変わりしてしまうものです(笑)。

ついでにデザートも

お寿司屋さんからの帰りにセイコーマートに寄って、夜のデザートなんかを仕入れてきました。

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2014年11月27日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルグランティア知床 -斜里駅前-」編(前編)

知床観光の玄関口・知床斜里駅前にある「ホテルグランティア知床 -斜里駅前-」にやってきました。今回は「上質な空間のコンフォートツインご朝食付プラン」というプランにしてみたのですが……さてさて。

今回の記事は、2013 年 5 月時点での情報が元になっています。現在は「ルートイン グランティア知床 -斜里駅前-」という名前に変更されているようです。ホテルグランティアは元々ルートイン系列だったのですが、ブランドの統一をしたみたいですね。

コンフォートツイン

フロントにてチェックインを済ませて、部屋にやってきました。
ふむふむ。広すぎず狭すぎず、そつなくまとまった感のある部屋です。ズボンプレッサーが用意されているのはビジネスホテルっぽいですね。

ベッドはツインですが、幅が狭いといったことはありません。セミダブルくらいはあるんじゃないでしょうか?
ベッドとベッドの間には、読書灯?とデジタル時計がコンパクトに纏められています。これだとスペースを取り過ぎることもありませんね。

機能的なデスクまわり

窓側には、かなり大きなデスクが備え付けられています。空気清浄機もありますね(ちなみに DAIKIN 製のものです)。ピントが合っていなくてすいません……。
インターネット環境もちゃんと用意されています。無線 LAN が用意されていたかどうかは記憶が定かでは無いのですが、最近は小形の無線ルータも安価で手に入るので、そういったものを活用するのがセキュリティ的にも吉かもしれませんね。
デスクの左側にはテレビが置いてあるのですが、その下の観音開きの扉を開けると……
ドライヤー、ティーセット、IH 湯沸器、冷蔵庫などが整然と並んでいます。機能的な設計になっているのは流石ですね。
ちなみに、冷蔵庫のメインスイッチは扉の外にありました。冷蔵庫はコンプレッサーの音が気になる場合もありますし、そもそも使用しないものに通電するのは無駄な電力消費と言えるので、こういった仕組みもアリなのでしょうね。

窓の外には

窓の外には、斜里の町並みが一望できます。このホテルは駅前にあるので、眼下に広がるのは昔からある町の姿ですね。国道沿いには店が多かったですが、このあたりは住居や個人商店が多いようです。
そして、視線を右の方に移すと……知床斜里駅も一望できます。

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2014年11月26日水曜日

道東の旅 2013/春 (132) 「知床斜里駅」

知床斜里駅へ

Day 3 のゴールとなる知床斜里駅に向かいます。時間は 17 時を少し過ぎたあたりですが、まだ「暗い」とまでは言えませんね。北海道は経度の都合上、朝が早く夜も早いのですが、さすがに夏至を翌月に控えているので日も長くなっていました。
「踏切注意」の標識は、懐かしい「蒸気機関車」タイプのものです。
踏切を渡った先で右折すれば、知床斜里駅です。ゴールはもうすぐですね。

綺麗な駅と駅前

駅前のホテルが見えてきました。駐車場に入るには建物の手前を右折なのですが、駅前をぐるりと回ってみることにしましょう。
知床斜里駅の駅舎が見えてきました。うわー、随分と小ぎれいな建物ですね!
そして、駅舎の向かい側には「斜里バスターミナル」がありました。これまた随分と綺麗な建物ですね。
「知床」は世界遺産への登録で更に観光地としてのステータスを増した印象があります。公共交通機関を使って知床に行くには、ここ知床斜里駅から(斜里バスで)ウトロに移動するのがもっとも簡単なので、知床観光の玄関口として気合いを入れ直した……といったところかも知れません。

Day 3 ゴールイン!

駅前広場をくるっと回って、ホテルに到着……したのですが、生憎、ホテル横の駐車場は既に満車だったため(さすがゴールデンウィーク!)、少し離れた第二駐車場に車を停めることになりました。
17:19 に無事ゴールイン。Day 0 からの四日間で走行した距離は 1,045 km となりました。
Day 3 の走行距離は 333.0 km でした。常呂から斜里までは 83 km しか無かっただけに、随分と遠回りしたことになりますね。

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2014年11月25日火曜日

道東の旅 2013/春 (131) 「大都会・斜里」

斜里町に入りました

ついに斜里町に入りました。斜里町の中心部までは、あと約 10 km です。
またしても、何やらややこしそうな交差点の図が出てきましたが……(涛釣沼の近くです)。ここから 8 km ほど(国道 334 号線を含めると 10 km 以上)はずーっと真っ直ぐな一本道になるのでご安心を。
真っ直ぐな一本道を走り続けて、あっという間にあと 5 km となりました。
ついに案内標識に「ウトロ」の文字が。ウトロまではそこそこ距離がありますが、同じ斜里町ですからね……。

斜里町は、予想以上に都会だった

斜里町の中心部に近づいてきました。ガソリンスタンドやコンビニなど、郊外型のお店が軒を連ねています。斜里って思ったよりも都会ですね……。
駅(知床斜里駅)に向かう道道 802 号線との交差点が近づいてきました。それにしても、ローソンあり NISSAN ありツルハありセブンイレブンありサツドラありツルヤありの、何でもござれですね。素晴らしい……!
そして、案内標識の横で燦然と輝いていたのがこちら。
「只今の気温 1 ℃」と来ました。う~ん、これだとやっぱり、翌日も知床峠はクローズのままですかね……(汗)。

充実のラインナップは続く

ツルハの看板のところで左折して、知床斜里駅に向かいます。
すると、ツルハの先にはダイハツとトヨタのお店も。凄いなぁ、何でも揃ってますね。

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2014年11月24日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (41) 日光(日光市) (1878/6/13)

引き続き、1878/6/10 付けの「第六信(続き)」(本来は「第九信(続き)」となる)を見ていきます。

ちなみに 1878/6/10 という日付は、粕壁(春日部)にて「第六信」を書き始めた時の日付で、実際には「粕壁から栃木」が 6/11、「栃木から今市」が 6/12、そして現在読んでいる「今市から日光」は 6/13 の出来事、ということになります。

日光

イザベラは、北方探索の最初のゴールを日光に定めていました。少し言い方を変えれば、日光まではウォーミングアップのようなもので、日光で体勢を整えて更なる北方探索に出発する、という目論見だったと言えるのかもしれません。実際、日光には十日ほど滞在することになります。

ですので、日光での逗留先は予め目星をつけていた……と思ったのですが、意外なことに、次の文章を読む限りでは、必ずしも明確な計画があったわけでも無いようです。

私が鉢石で外国人を接待できるような美しい宿屋に滞在することは、もともと、計画の中にはなかった。そこで私は、伊藤に日本語の手紙を持たせて、半マイル先の、今私がいる家の主人に使いに出した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)
「美しい宿屋」での滞在が「もともと、計画の中にはなかった」のであれば、どこから話が湧いて出たのか、少々気になるところです。宿屋との交渉を伊藤少年に任せたイザベラは、伊藤が帰ってくるまで何をしていたかと言うと……

その間、私は、街路を登っていって、はずれにある岩の突き出たところに腰を下ろし、だれにも邪魔されずに、最も偉大な二人の将軍(家康、家光)が「栄光に眠る」山の荘厳な森を見渡していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)
街外れにある岩に腰掛けて東照宮の森を見ていた、ということのようです。何となく勝ち気な印象のあるイザベラですが、急に「ひとりぼっち」になったような感じがして面白いですね。

イザベラが小休止していた「鉢石」の町は、大谷川(だいや──)の南側にあるため、東照宮に向かうためには大谷川を渡る必要があります。そのため、大谷川には「神橋」という橋がかけられています。

急流がその激しい勢いを二つの石の壁でとめられているところに、橋がかけられている。長さ八四フィート、幅一八フィート、にぶい赤色の漆が塗られて、両側の二つの石の橋脚に支えられ、二本の石の横梁によって結ばれている。あたり一面が濃い緑色とやわらかい灰色に囲まれている中に、橋の明るい色はうれしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)
長さ 84 ft ということですから、約 25.6 m ということになりますね。ちなみに幅は約 5.5 m と言いますから、現代の感覚ではそれほど大きな橋とは言えませんね。イザベラの文章から全貌を掴むのは難しいのですが、鳥居のような形をした石の橋脚の間に、ゆるやかなアーチを描いた木造の橋が架けられている、と言った感じでしょうか。

しかし、橋の建築は少しも堂々たるものではなく、その興味はただそれが御橋《神聖な橋》であるということにある。一六三六年の建造で、むかしは将軍や、天皇の使節、一年に二回だけ巡礼者のためにのみ開放されていた。橋の門は二つとも錠がかけられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)
イザベラが「御橋」と記したこの橋は、現在は「神橋」という名で知られています(この異同は和訳の問題かも知れません)。この橋の特異性は、イザベラも記した通り、勅使や将軍の一行だけが渡ることを許されていたという点にあります。いつもは鋭く──時として精一杯の皮肉も込めて──考察するイザベラですが、この「神橋」については珍しく、客観的な表現のみにとどめています。

この「神橋」で大谷川を渡ると間もなく東照宮に辿り着くのですが、「クルマ」で行くことができる道は、この橋を渡ったところで終わるようです。

人力車の道は、ここで終わる。もしこれから先に行きたいと思うならば、歩いてゆくか、馬に乗るか、あるいは駕寵で行かなければならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)
淡々と書かれているので見落としてしまいそうですが、これは重要な一節ですね。記されているのは客観的な事実のみですが、イザベラにとっては「これまでのようには行かない」というプレッシャーを抑え込んだ文章のようにも思えます。

旅路の果て

伊藤少年を宿屋との交渉のために先に行かせてしまったために、イザベラは随分と孤独な時間を過ごしていたのですが……

伊藤は久しく姿を見せず、車夫たちはいつも私に日本語で話しかけるので、私は頼りない孤独な気持ちにさせられた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)
ようやく交渉が終わったのか、宿屋に向かって出発することになりました。

とうとう車夫たちは私の手荷物を肩に負った。階段を下りた私たちが一般用の橋を渡ると、まもなく金谷さんという私の宿の主人が迎えてくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)
イザベラ一行は、「神橋」ではなく一般用の橋で大谷川を渡ったところで、宿の主人からの出迎えを受けました。宿のご主人の名前は「金谷」と言うのだそうです。

実は、この金谷さんの宿屋が、現在の「日光金谷ホテル」の前身に当たるのだそうです。現在の日光金谷ホテルは「神橋」の手前の「鉢石」にあるので、イザベラ一行が「橋を渡ると──宿の主人が迎えてくれた」というのはおかしなことになってしまうのですが、1878 年当時は「鉢石」ではなく、住居のあった「四軒町」(現在の日光市本町)のあたりで宿屋を営んでいたのだそうです。

四軒町で宿屋を営んでいた金谷氏が、鉢石で「金谷ホテル」を開業したのは 1893 年のことだそうですから、それ以降であれば「鉢石の美しい宿屋」という表現も間違いでは無くなるのですが……ちょっと不思議な話ですね。「日本奥地紀行」の初版が 1880 年で、今回の底本は 1885 年に出た普及版なので、刊行までのタイムラグとも考えづらいです(「鉢石」という地名が和訳の際に紛れ込んだのであれば理解できますが)。

車夫の親切心

ついに、「最初のゴール」である日光の金谷家が見えてきました。

宿が見えてくると、私はうれしくなった。ここで残念ながら、今まで私に親切で忠実に仕えてくれた車夫たちと別れることになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.95 より引用)
イザベラは、日光でのベースキャンプとなる金谷家への到着を喜ぶとともに、これまでの四日間、献身的に仕えてくれた、人力車の車夫との別れに直面することになります。

彼らは私に、細々と多くの世話をしてくれたのであった。いつも私の衣服から塵をたたいてとってくれたり、私の空気枕をふくらませたり、私に花をもってきてくれたり、あるいは山を歩いて登るときには、いつも感謝したものだった。そしてちょうど今、彼らは山に遊びに行ってきて、つつじの枝をもって帰り、私にさようならを言うためにやってきたところである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.95 より引用)
ここで車夫たちと別れるにあたって、彼らへの感謝の気持ちが素直に記されています。これまでの四日間だけでも、直截な、歯に衣着せぬ表現が多かったイザベラですが、こと車夫に関しては、概して好意的な表現ばかりだったのが印象的でした。

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2014年11月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (232) 「呼人・車止内川・オショップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

呼人(よびと)

i-opi-to
それ・捨て去った・沼

(典拠あり、類型あり)
網走湖の東側の地名で、同名の半島が網走湖に突き出ています。JR 石北本線の駅もありますね。寺岡さんとは関係無いはず……です。

では早速ですが、山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

呼人 よびと
 網走湖東岸の地名,半島名,川名。網走湖東岸の北端部から,湖の北東が細長く入り込んでいて,湖本体との間はひょろ長い出岬の形になっている。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.209 より引用)
はい。ここまではいいですよね。

その長い入り込んだ湖の部分が元来のヨビトであって,知里小辞典は「ヨピト yopi-to 親沼から別れ出ている湖。もと i-opi-to(それを・捨て去った・沼)。そこから別れて行った沼の義である」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.209 より引用)
なるほど。i-opi-to で「それ・捨て去った・沼」と考えれば良いのですね。i という指示代名詞は熊やマムシなど、言挙げを憚る場合に良く用いられますが、ここでの i は単に「網走湖」のことを指していると考えて良さそうです。

……と思っていたら。

(網走市史地名解では e-opi-to。そこから・捨てて行く・沼と書かれた)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.209 より引用)
「網走郡内アイヌ語地名解」は他ならぬ知里さんの手になるものなのですが、確かに e-opi-to で「『そこから分かれていつた沼』の義である」と書かれていますね。

ちなみに東西蝦夷山川地理取調図では「ユウヒトウ」という文字が見えます。i-opi-toe-opi-to のどちらとも近いので、元々の形がどうであったかは何とも言えない感じがします。

車止内川(くるまとまない──)

kurmat-oma-nay
神女・そこにいる・沢

(典拠あり、類型あり)
天都山にある「北海道立北方民族博物館」のあたりから東流して、網走港に注ぐ川の名前です。地形図に描かれていないのはどうしてだろう……と思ったのですが、どうやら途中から山の下のトンネルを流れていたからのようです。現在はトンネルのおかげで網走港に直接注いでいますが、かつては網走川に合流していたと考えられます。

かなりマイナーな川ですが、幸いなことに知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に記載がありました。

(105) クルマトマナイ クルマッ・オマ・ナイ(kurmat-oma-nai)「神女・居る・沢」。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.285 より引用)
なるほど。kurmat-oma-nay だったのですね。kurmat は一般的には「日本人の女」と訳されますが、知里さんは何故か「神女」と解しています。ということで、ここでも「神女・そこにいる・沢」としておきましょう。

オショップ川

o-so-o-p
河口・滝・そこにある・川

(典拠あり、類型あり)
大観山にある東京農業大学キャンパスのあたりから東流して、鱒浦駅の北側でオホーツク海に注ぐ小河川の名前です。こちらも知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に記載がありました。

(381) オショプ(Oshop) オ・ショ・オ・ㇷ゚(O-sho-o-p)。オ(川尻に),ショ(滝),オ(ある),プ(者)。川尻が急いで滝のように流れ落ちている川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.310 より引用)
ふむふむ。o-so-o-p で「河口・滝・そこにある・川」なのですね。河口部を地形図で見た限りでは、多少の高度差はあるものの、「滝」と言うにはちょっと厳しそうに思えるのですが、その辺は知里さんも考慮に入れたか「滝のように流れ落ちる」という表現になっていますね。

ちなみに、オショップ川の北隣を「オビオショップ川」という川が流れています。こちらは opi-o-so-o-p で「分かれていく・オショップ川」という意味みたいです。「呼人」と同じく opi- 系の地名ですね(ただ、現在の地形を見た限りでは、オビオショップ川はオショップ川の支流とは言えない独立した河川のように見えます)。

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2014年11月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (231) 「網走」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

網走(あばしり)

apa-sir???
入口・土地
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
言わずと知れたオホーツク海沿岸の街の名前ですが、ここほど由来が諸説飛び交う街も珍しいような……。

では、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  網 走(あばしり)
所在地 網走市
開 駅 大正元年10月5日 (客)
起 源 アイヌ語の「ア・パ・シリ」(われらが見つけた土地)から出たとも、「アパ・シリ」(入口の土地)から出たものともいわれるが、港の入口に俗にいう帽子岩があり、「カムイ・ワタラ」(神岩)と呼ばれていたが、「チパ・シリ」(ぬさ場のある島)ともよばれており、これがなまったのであろうというのが、近年の解釈である。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.215 より引用)
「ア・パ・シリ」で「われらが見つけた土地」というのは、「パ」の部分が良くわからないですね。a は「われらの」あるいは「われらが」と言った意味の雅語で、sir は「土地」や「大地」と言った意味の言葉です。

apa-sir は確かに「入口・土地」となりますね。apa という単語はあまり地名で目にすることは無いのですが、皆無というわけでもありません。網走の地形を考えるに、網走湖から海に抜ける網走川の両端に山が迫っているため、これを「入口」と捉えたのも、ありそうな感じがしますね。

永田方正の「北海道蝦夷語地名解」には、次のようにあります。

Apashiri  アパシリ  見付ケタル岩 元名「チパシリ」ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.475 より引用)
そして、すぐ次に「チパシリ」の項を記しました。

Chipashiri  チパシリ  我等ガ見付タル岩 昔シアバシリ沼ノ岸ニ白キ立岩アリ笠ヲ蒙ブリテ立チタル「アイヌ」ノ如シ「アイヌ」等之ヲ發見シテ「チバシリ」ト名ケテ神崇シ木弊ヲ立ツ後チ「アバシリ」ト改稱スト云フ此ノ白石崩壊シテ今ハ無シ名義国郡ノ部ニ詳ニス参照スベシ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.475 より引用)
えーと……。網走湖の岸に、アイヌが笠を被って立っているように見える白い岩があって、それを「チパシリ」と読んだのが始まりだ、という説のようですね。

ちなみに、まだ続きがありまして……

或云フ此ノ岩神自ラ「チパシリ」「チパシリ」ト歌ヒテ舞ヒタリ故ニ地ニ名クト或ハ云フ一鳥アリ「チパシリ」「チパシリ」ト鳴キテ飛ブを以テ地ニ名クト「アイヌ」口碑相傳フル處大同小異アリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.475 より引用)
あははは(笑)。網走湖の立岩が「チパシリ」「チパシリ」と歌ったから、あるいは「チパシリ」と鳴く鳥がいたから「チパシリ」という名前になった、という説ですね。この解釈は実に画期的です(笑)。

「わりと感じのいい,たのしい本」では

知里真志保さんは、名著「アイヌ語入門」にて、このような地名俗解を痛烈に批判していました。

 しかし,「シペッ」とか,「チパイ」とか,「ト゚ピウ」とか,「チパシリ! チパシリ!」とか,まるで蝦夷語地名解を書く人のために鳴いているような鳥が,はたして実在したかどうか,すこぶる怪しく思われるのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.22 より引用)
うはははは(笑)。更に知里さんは、意味のわからない地名があって、その意味を問われたときにどう切り返すか、として……

その一つは,「むかし,そこの所にそういう形の岩があったからそういう名がついたのだ」とか,「そこの崖にそういう形の文様がついていたのでそう名づけられたのだ」とか云って体をかわすことである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.22 より引用)
確かに、どこかで見たような話の流れですね。

しかし, この際ゼッタイ忘れてならないことが一つある。さきに,チパシリの語原説の中にもあったように,「但シ,コノ岩,崩壊シテ今ハナシ」というような但し書をつけておいて,あらかじめ証拠の方は隠滅しておくのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.23 より引用)
うゎははははは(笑)。確かに、永田地名解に「崩壊シテ今ハ無シ」という註記がありましたね(笑)。

しかも、まだ続きがあります。

もう一つのテは,分らない地名があったときは,それが短いものだったら,上記の 諸例にならって,鳥の鳴声にしてしまうことである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.23 より引用)
ふむ。これまたどこかで見たような話ですが……

“先生にうかがいますが,サッポロの語原はなんですか?” “アア,それですか? それは,むかし神様が鳥になってこの地の上空をサッポロ! サッポロ! と鳴きながら飛んだので,そういう名がついたのです。トカチのアイヌの老人も,キタミのピホロの老人も,ハルトリの‘アイヌの古老’も,そう云ったのだからゼッタイまちがいはありません!”
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.23 より引用)
知里さんは、無類の地名好きで、またアイヌ語の体系立てた解析に一生を捧げたような方ですから、このような安直な地名俗解が蔓延っていた状況に辟易していたのでしょうね。それにしても、こういった安直な地名俗解を徹底的にこき下ろして、コントにしてしまうあたりは流石です(笑)。

閑話休題

「崩壊して今は無い」という立岩が「チパシリ! チパシリ!」と歌い舞ったという説の是非はとりあえず論外として、知里さん自身が「網走」という地名の原型をどのように捉えていたのかを見ておきましょう。

 しかし,「チパ」は「イナウサン」の古語で,「シリ」は「島」の意であるから,「チパ・シリ」(幣場・島,幣場のある島)の意に解すべきもので,もともと網走川の川口に近い海中にある帽子岩に附いた名称である。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.283 より引用)
ちょっと長いですが、続きも引用しておきます。

この岩は,古く「カムイ・ワタラ」(神・岩)と云われ,漁民たるアイヌの非常に崇拝する沖の神の幣場のあった所である。アイヌは此処を非常に大切にして,アザラシ狩に出る時は必ずここに木幣を立て,祈り,そこに立てた木幣が倒れているのを見た場合は不吉だとして出漁を見合わせて戻った。漁季に初めてアザラシを捕った時は,ここでイヨマンテ(魂送りの儀式)をとり行った。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.283-284 より引用)
単純な音韻変化とは考えづらい、「チパシリ」が「アバシリ」に変化した理由については、次のような説明がなされています。

この岩が古くは「チパ・シリ」(幣場の島)と呼ばれたのであるが,「チパシリ」が古語であるために,「幣場のある島」という意味が次第に後のアイヌに理解されなくなるに及んで,新らしく「チ・パ・シリ」(我等が・発見した・土地)というような解釈が生じ,更に「チ」(我等)も雅語であるからそれを同意義の口語形「ア」に代えて,「ア・パ・シリ」(我等が・発見した・土地)とするに至り
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.283-284 より引用)
ふーむ。確かに「『チパシリ!チパシリ!』と鳴く鳥がいた」という説よりは格段に説得力がありますね。

さて、この網走「チパシリ」由来説について、山田秀三さんがどう考えていたか、ですが……

 和人側の記録は,津軽一統志狄在所の名では「はヽ志り村」(推定 1670 年調査),元禄郷帳では「はヾしり」であり,私の手許の民間のごく古い地図(山城屋安右衛門所持)も「ハヽシリ」である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.208 より引用)
うーん、これを見ると江戸時代の時点で既に「チパシリ」では無いような感じもしますね。

明治の永田氏はチパシリが元来の名だとする伝承を書いたが,和人記録では 300 年前から網走は「ハハシリ」「ハバシリ」で,今の網走に近い形で残っていた。この点もゆっくり考えて行きたい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.208 より引用)
ということで、山田さんは「要検討」と見ていたようです。

今更ながら「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみますと、網走湖からオホーツク海に向かって流れる網走川の網走湖側に「チハシリ」という文字が見えます。ところが、その網走湖のオホーツク海側(前述の「帽子岩」のあるあたりと考えられます)には「アハシリ」と記されています。となると、「『チパシリ』が『網走』に変化した」と考えるよりも、素直に「『チパシリ』と『アハシリ』は別物だった」と考えた方が良さそうな感じもします。

「じゃあ『アバシリ』はどういう意味なんだよ?」と突っ込まれそうなのですが、最初に紹介した apa-sir で「入口・土地」という解釈で良いのではないでしょうか。ちょうど網走駅のあるあたりが、海側から見て網走湖方面に入るためのドアのように見えると思いますので。

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2014年11月21日金曜日

道東の旅 2013/春 (130) 「まっすぐな道に同じような看板が」

道の駅で鉄道の駅

涛沸湖沿いの小清水原生花園から、浜小清水駅方面に向かいます。
浜小清水の道の駅が見えてきました。ここは 5 年ほど前に一度立ち寄ったことがあるのですが、道の駅と鉄道の駅を兼務している施設でした。これからはこの形態が流行するのかもしれませんね……。

100R

さてさて。道内の国道にあっては割と珍しいものが見えてきました。
ご覧の通り、100R の警告標識なのですが、実際にはどのようなものかと言いますと……
結構な急カーブですね。しかもカーブの外側には建物があるため、ガードレールが無い場所もあります。ちょっとスリリングな立地ですね……。

左 90 度カーブ

100R の右カーブを過ぎると、国道 244 号は 2 km ほど南へと向きを変えます。そして、今度は 90 度左に向きを変えて、斜里へと向かいます。
実際には、このまま同じ方向に走り続けると小清水の市街地に向かうことができるのですが、国道 244 号は 90 度左に曲がるルートになっているため、まっすぐ走れないように交差点が改造されていました。
国道方向からは反射板も何も設置されていないので、夜中にまっすぐ進もうとして事故を起こすケースがあるんじゃないかなどと、余計なことを心配してしまいます。

まっすぐな道に同じような看板が

この先は、ほぼ東に向かってまっすぐ道が伸びています。いかにも北海道らしいストレートですね。
斜里まであと 16 km となりました。Day 3 のゴールまでもう少しです。
まっすぐな道に、同じような看板が繰り返し現れます。
また同じ看板が……
90 度カーブから 3 km ほど進んだところにやってきました。ストレートはあと 2 km ほど続きます。
ちなみに、地図だとこのあたりです。

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2014年11月20日木曜日

道東の旅 2013/春 (129) 「涛沸湖」

懐かしのアレ

JR 釧網本線の北浜駅のあたりを過ぎたところで……
国道 244 号線は橋を渡ります。この橋は「涛沸橋」という名前で、涛沸湖とオホーツク海はこの橋の下で繋がっていることになります。……と、それはさておき、懐かしのアレが出てきました。そう、こちらです。
懐かしの「オホーツク国道の裏側」は、国道 244 号になっても健在でした。ここの絵柄は「北浜の白鳥公園」とのこと。涛沸湖もラムサール条約指定地とのこと。さすがですね。

ジャガイモとエゾスカシユリ

橋を渡ると、左右とも原っぱ以外なにも無い風景が広がります。
あるのはカントリーサインのみ。ここからは小清水町(こしみず──)です。
ちなみに描かれているのは、ジャガイモとエゾスカシユリとのこと。

涛沸湖

そして、カントリーサインの少し先にはこんな案内標識が。
拡大すると……
そう。「涛沸湖」と書いてあります。確かに右手には涛沸湖が広がっているのですが、何ともひねりの無い看板ですね……(汗)。

幸運なすれ違い

国道 244 号線は、涛沸湖とオホーツク海を隔てる、かつては砂州だった部分をまっすぐ突っ切っています。……おや、左前方になにやら謎の光が見えますね。
謎の光の正体がこちら。なんと、釧網本線の列車とすれ違いました。決して本数は多くないはずなので、これはラッキーだったのかも……?

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