2016年12月31日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (403) 「ショロマ川・イクバンドユクチセ沢・メルクンナイ沢・ショウシウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ショロマ川

so-or-oma?
滝・ところ・そこにある
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
厚真川の北支流の名前です。この川の河口部も、現在建設中の「厚幌ダム」が完成した暁には水没することになりそうです。

この「ショロマ川」、東西蝦夷山川地理取調図に「シヨウロマ」と記されている川のことだと思われます(東蝦夷日誌では「シヨロマ」)。戊午日誌「東部安都麻誌」にも次のように記されていました。

扨此処の向岸と思ふ辺りに
     シヨウロマ
西岸川巾五六間、急流峨々たる山の間より落来るとかや。是滝川に成るより号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.477-478 より引用)
ということで、これは so-or-oma あたりのような気がします。「滝・ところ・そこにある」と読み解けるでしょうか。本来は後ろに p(「もの」)あたりがあって、それが省略されてしまった、と言ったところかもしれません。

イクバンドユクチセ沢

i-kus-panke-yat-chise??
それ(クマ?)・通行する・川下の・木の皮・家
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
久々にさっぱりわからない川名が出てきました。これまでは、多少なりとも古い書物や古い地図にヒントがあったのですが、今回は残念ながらヒントらしきものを得ることができませんでした。また、「イクバンドユクチセ」という音から各種辞書などにも当たってみましたが、妥当な解釈を見出すことはできませんでした。

こんな状況ですので、「イクバンドユクチセ」には何らかの誤記、あるいは解釈ミスがあったと考えてみたいです。ここで大きなヒントとなるのが、イクバンドユクチセ沢の東側(厚真川の上流側)を流れている「ペンケユクチセ沢」の存在です。penke-yuk-chise は「川上の・鹿・家」と読むことができます。鹿の多い沢だったのでしょう。

アイヌ語の地名に於いては、penke- と対になる形で panke- が存在する確率がかなり高くなります。そのため、「イクバンドユクチセ」の「バンドユクチセ」は panke-yuk-chise である可能性が高いのではないかと考えました。

「イク」については、最もありそうなのが yuk(鹿)ですが、今回は yuk-chise が後ろについているのでその可能性は低いのではないかと思います。あとは i-uk で「それ・採取する」という風にも読めますが、「それ」が何を指すかが今ひとつ不明瞭に思えます。

ということで、別解を考えて見ました。i-kus-panke-yuk-chise で「それ・通行する・川下の・鹿・家」か、あるいは ika-panke-yuk-chise で「あふれる・川下の・鹿・家」あたりの可能性は無いでしょうか?

i-kus-panke-yuk-chise だと「それ・通行する」、つまり「クマも出る川下の鹿の家」といった感じでしょうか。ika-panke-yuk-chise であれば「跨ぐ」あるいは「越える」「あふれる」と言った意味となります。河口部が川の体をなしていなかった(斜面をそのまま水が流れるような感じ?)と言ったような特徴があったのかな、と想像してみました。

2021/4/29 追記
「東西蝦夷山川地理取調図」や戊午日誌「東部安都麻誌」には「マタヤツチセ」「ベンケヤツチセ」という記録が残されていました。「ヤツチセ」は「木の皮で作った家」とのこととあります。その点を加味してヘッドラインを修正しています。

メルクンナイ沢

me-ru-kunne-nay??
寒気・道・黒い・沢
me-ru-kus-nay??
寒気・道・通行する・沢
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
厚真ダムのすぐ上流側で厚真川と合流している支流の名前です。ダムの上流側にあるので、河口部はダム湖の底に沈んでいます。

戊午日誌「東部安都麻誌」に記載がありました(ほっ)。早速見てみましょう。

また少し上り東
     メルクンナイ
山間の小川也。其名義メルは寒気の事也、クンは氷ると云義也。此沢寒気甚しきによって早く凍ると云儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.479 より引用)
「メルは寒気の事なり」と記されていますが、手元の辞書などを見たところでは確認できませんでした。me は「寒気」なので、me-ru で「寒気・道」と考えるか、あるいは me-us(「寒気・ある」)が me-rus に音韻転訛したとか、その辺でしょうか。

「クンは凍ると言う意味なり」とありますが、これも意味を確認できませんでした。もしかしたら水面が凍った様を kunne (「黒い」)と表現したのかな、と思ったりもします。だとすると me-ru-kunne-nay で「寒気・道・黒い・沢」でしょうか。

東西蝦夷山川地理取調図を見ると、メルクンナイ沢と思しきところに「メルリシナイ」と記されています。「リ」が「ク」の誤記だとすると「メルクシナイ」となるのですが、これだと me-ru-kus-nay で「寒気・道・通行する・沢」と読めそうですね。

ショウシウシ川

{sos-o}-us-i??
{剥がす}・いつもする・もの
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
厚真ダムのダム湖の北側の注いでいる支流の名前です。本日 4 つ目の川名ですが、厚真シリーズ最終回ということで。

今回も戊午日誌「東部安都麻誌」に記載がありました。

また此向岸に
     シヨシユシ
此処平兀なるよりして号るとかや。シユシユシは兀平の事なりと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.479 より引用)
「シユシユシ」……どことなく志布志市志布志町志布志を彷彿とさせますね。「平」は pira 即ち「崖」のことですが、「兀」には「高い」という意味のほかに「剥げている」という意味があるのだとか。

なるほど、sos-ke で「剝げている」という意味がありますが、sos-o で「剥がす」となりますので、{sos-o}-us-i で「{剥がす}・いつもする・もの」と言ったところでしょうか。がけ崩れが多かったのか、地肌が見えることが多かった場所だったのかもしれません。

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2016年12月30日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (115) 「せたな町大成区」

熊石町……あ、間違えた(素で間違えました)。八雲町熊石の最西端に位置する「ポンモシリ岬」にやってきました。
ポンモシリ岬で R120 くらいのカーブを右に曲がると……
集落が見えてきました。そして、
ここから「せたな町」に入ります。せたな町大成、かつての大成町ですね。

大成町・北檜山町・瀬棚町が合併してできた「せたな町」では、かつての町名がそのまま区の名前として使われています。ということで、このあたりは「せたな町大成区」ということになりますね。

賞味期限は 1 時間です!

さて、前方にバスが見えてきました。
こちらのバス、緑ナンバーなのですが、行き先表示のところには「熊石・大成学校」と書かれています。スクールバスのようなのですが、「熊石」と「大成」の両方の自治体の名前が記されているのが不思議な感じがしますね。

そもそも、熊石と大成はお隣同士みたいなものなので、熊石はなんで山の向こうの八雲町と合併するという選択をしたんだろう……と思うこともあります。熊石から(役場のある)北檜山までは結構な距離がありますが、熊石から八雲も結構距離がありますし。ついでに言えば熊石が八雲とくっついてしまったおかげで、檜山振興局(かつての「檜山支庁」)のエリアが南北に分断されてしまったのでした。
ちなみにこのバス、よーく見ると……
「岩シュー」の文字が。瀬棚の「甲田菓子店」で絶賛発売中のスイーツのことですよね。この「岩シュー」、なんと賞味期間が「1 時間」なのだとか。現地に行かないと食せない、幻の商品のようです。

観光協会の人の悲鳴が聞こえる

国道 229 号を更に北上します。前方左側にちょいと変わった形の岩が見えてきました。ふーん……と思いながら、そのまま直進します(!)。
前方にまるで屏風のような岩が見えてきました。国道はトンネルで岩山を一気に突っ切ります。
「長磯トンネル」を抜けると、400 m ほどで次の「横澗トンネル」です。
幅の狭い卵型断面と、特徴的なトンネルポータルが印象的ですね。味のある書体も見ものです。

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2016年12月29日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (114) 「雲石、うんせき、くもいし?」

熊石の国道 229 号を北西に向かいます。前方に、国道 277 号との交叉点が見えてきました。右折すると国道 277 号で、雲石峠を越えて八雲に出ることができます。案内標識に「長万部」と出ているのは、現在地である熊石も八雲町内だからですね。

そう言えば、すっかり忘れていましたが、江差からここまでは国道 229 号・国道 276 号・国道 277 号の三重重複区間だったのでした。国道 277 号とはここでお別れとなります。
そして、右折せずにそのまま直進すると「せたな」に向かうのですが……
せたな町、ちゃんといい位置の看板を押さえているのは流石ですね。

道内は、セイコマあるとこ大都会

海沿いの国道を西に向かうと……
程なく再び市街地に入ります。熊石の中心街ですね。セイコーマートもありますし、郵便局もあります。

雲石、うんせき、くもいし?

セイコーマートから更に少しだけ西に進むと、学校や消防署などがある、熊石で一番大きな集落(だと思う)です。その名も……
「熊石雲石」と言うのですが、これで「くまいしうんせき」と読むのだとか。峠の名前は「くもいしとうげ」なのに、集落の名前は「うんせき」と言うのですから不思議ですね。

あまりに不思議だったので、「角川──」(略──)で由来を確認してみました。

 うんせき 雲石 <熊石町>
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.206 より引用)
もちろん続きがありまして……

地名は奇岩雲石(くもいし)に由来する。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.206 より引用)
マジですか……。なんで音読みに変えちゃったんでしょうね。あれっ、でも

 うんせきとうげ 雲石峠 <熊石町・八雲町>
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.206 より引用)
ともありますね。もともと「くもいし」という奇岩があり、それを地名にする時に「うんせき」と読みを変えたものの、いつの間にか一部「くもいし」に戻ってしまった、と言った感じなんでしょうか。

避難階段

海沿いの国道 229 号を西へと進みます。
実は、よーく見ると、奥の山手に向かう階段が整備されていることがわかります。
1993 年 7 月の「北海道南西沖地震」が奥尻島に甚大な被害をもたらしたことは以前にも記した通りですが、この地震による津波は奥尻島の東にある熊石にも押し寄せていたのでした。

津波による人的被害を防ぐには、速やかに高台に避難することが一番です。このあたりには似たような階段がいくつもいくつも存在するのですが、北海道南西沖地震の発生を受けて、防災事業の一環として整備を進めているのでしょうね。

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2016年12月28日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (113) 「円空上人滞洞跡」

乙部町豊浜から、更に北上して八雲町熊石に向かいます。前方にトンネルが見えてきましたが……あれ、二つある!?
左側に見えた、いかにもクラシックな感じのするトンネルは旧道のようで、現在は通行止めのようでした。ということで「豊浜トンネル」に入ります。

昨日の記事でも触れましたが、このトンネルは 1996 年に大規模な崩落事故があった「豊浜トンネル」とは異なります。

八雲町熊石

長さ 1,270 m のトンネルをぴゃーっと抜けると……
八雲町熊石に入ります。いやいや、引き続き良い天気ですね。2010 年にやってきた時は、国道を始めとする主要道が軒並み通行止めになるという憂き目に合っているのですが、エライ違いですね……。
ここは現在は八雲町ですが、かつての熊石町です。ということで、地名の大半が「熊石」を冠しています。
「熊石折戸町」から「熊石相沼町」「熊石館平町」「熊石泊川町」「熊石黒岩町」のあたりまでは、道路沿いにほぼ途切れること無く建物が続きます。確か羅臼にもこんな感じのところがありましたよね。

円空上人滞洞跡

「熊石黒岩町」を過ぎたあたりで、ようやく町外れに出たのですが、そこでいきなり視界に飛び込んできたものがこちら。
まさか、こんなところで「円空上人」の名前を見ることになろうとは。ちなみに道路右側の石碑?が記念碑なんでしょうか。

怒涛の連続「熊石○○町」

熊石黒岩町まではずーっと左右に建物があったのに、今度は一変、左右に全く建物が見られなくなりました。ただ、正面のずーっと先には「熊石鮎川町」の集落が見えますし、ちょっと見えづらいですが左手奥には漁港と旧・熊石町の中心街が……。
熊石は、とにかく海沿いに集落が続く……という印象があるのですが、海沿いの「熊石○○町」という集落はなんと 14 もあるんですよね。

ちなみに「熊石○○町」という集落は、八雲町内に 15 しかありません。唯一海に面していないのが「熊石大谷町」です。

人の住まないこのあたり

熊石の海岸線で一番人の気配がしないのがこのあたりなのですが……
それもその筈? 人住内川(ひとずみない──?)という川が流れていましたとさ♪

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2016年12月27日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (112) 「幻のコンビニ『セラーズ』」

引き続き国道 229 号を北上します。段々と書き出しがワンパターン化しているような気もしますが、気にせず参りましょう。年末ですし(年末関係ない)。
というわけで、乙部町で三番目くらいに大きな集落である「栄浜」にやってきました。一見良くある北海道の集落の風景ですが、実は一味違うのです。どの辺が違うかと言うと……
なんと、道内でもオショロコマ並みのレア度を誇る(どんな譬えだ)「セラーズ」があります! いわゆる「マイナーコンビニ」のひとつですが、あまりにマイナーすぎて URL すらわからないという……(汗)。

能登の水

国道は海沿いを右に左にとカーブしながら北上を続けます。突符岬を過ぎ、穴澗岬の手前にやってきたところで……
突然「能登の水」なるものが出てきました。……よーく見ると、アルファベットは Nodo no Mizu になっていますね。どうやら石川県は関係無さそうな雰囲気です。

追分ソーランライン

気持ちのよい海沿いの道が続きます。空も随分と晴れ上がってきました。
ちなみにこの国道 229 号、「追分ソーランライン」というニックネームがあるみたいです。「オロロンライン」みたいなものでしょうか。

鮪ノ岬トンネル

前方にトンネルが見えてきました。よーく見るとセンターラインがありません。
このトンネルは「鮪ノ岬トンネル」と言うのですが、国道を拡幅する際に幅広の新しいトンネルを掘り直すのではなく、片側一車線用の小さなトンネルを掘って、古いトンネルを一方通行にした……ということのようです。狭断面のトンネルも、たまにはいいものですよね。
あと、この「鮪ノ岬」ですが「マグロの岬」ではなく「シビの岬」と読みます。確証はありませんがアイヌ語由来の可能性がありそうですねぇ。

乙部町豊浜

トンネルを抜けたところが、乙部町で二番目くらいに大きそうな感じのする「豊浜」集落です(以前に崩落事故のあった「豊浜トンネル」とは関係ありません)。ちなみに、先程の「鮪ノ岬トンネル」の上には「潮見」集落があって、小学校もあるみたいです。海抜 50 m ほどの高台なので、津波の時の避難所としても使えそうな立地ですね。

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2016年12月26日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (111) 「東洋のグランドキャニオン?」

国道 229 号を北上して、江差町北部(但し町境では無い)に突如として現れたトンネルに入ります。
ちなみにこのトンネルの名前は「慶喜トンネル」と言うのだとか。なお、「よしのぶ──」ではなく「けいき──」と読むようです。
トンネルの中には自転車で走行中の人が! 車を運転している側ですら「怖いなぁ」と思ってしまうくらいなので、自転車に乗っているご本人の怖さは想像を絶するものがありそうな気が……。

乙部町へ

トンネルを抜けると小さな川を二度ほど渡るのですが、二度目のところが江差町と乙部町の町境です。ご覧の通り、割と平野部ですね。
ということで、乙部町に入ります。
町境を越えて 1 km ちょいで乙部の中心街です。乙部も漁港の町ですね。

東洋のグランドキャニオン……?

乙部の市街地の北側には「館ノ岬」という岬があるのですが……。これはまた見事な地層ですね。地層はほぼ水平なのですが、削り出された形がなかなか芸術的な感じがします(褒めすぎ?)。

乙部町の Web サイトによると「東洋のグランドキャニオンとも呼ばれています」とありますが……。うーむ(汗)。
トンネルを抜けた先も縞々の見事な地層が続きます。構造自体は「館の岬」と同じに見えますね。乙部町の Web サイトによると、凝灰質砂岩互層、火山礫灰岩、粗粒砂岩層、軽石凝灰岩層とのこと。
地層の見事な海沿いの道を通り過ぎ、乙部町烏山にやってきました。熊石・せたなへはこの先も直進です。

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2016年12月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (402) 「ポップナイ沢・オコッコ沢川・鬼岸辺川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポップナイ沢

pop-nay
水の湧き上がる音・沢
(典拠あり、類型あり)
厚真町北部を流れる頗美宇川(はびう──)をずーっと遡っていったところに「北海道ロイヤルゴルフ場」というところがあるそうなのですが、その敷地内(だと思われる)を流れる川の名前です。このあたりには他にも似たような規模の川があるように見て取れるのですが、なぜかこの川だけ地理院地図に記載があります。ポップだからですかね(どの辺がだ)。

この「ポップナイ沢」、なんと戊午日誌「東部安都麻誌」に記載がありました。

また並びて
     ポツプナイ
同じく右の方小川。此処水が地中より涌出よし也、依て号るとかや。ホツフは涌立と云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.473 より引用)
はい。実は pop は「水の湧き上がる音」というオノマトペなんです。ということで、「ポップナイ」は pop-nay で「水の湧き上がる音・沢」と考えるべきなんでしょうね。

オコッコ沢川

o-u-kot-kot??
河口・互いに・くっつく・谷間
(?? = 典拠なし、類型あり)
厚真川の本流を遡っていくと「幌内」という集落があるのですが、その幌内の少し西側(下流側)で厚真川に合流する南支流の名前です。

今回も戊午日誌「東部安都麻誌」を見てみましょう。

また其上に
     ヲコツコ
東岸小沢の流れ有。其名義昔し大蛇住みしと云処の事也。ヲコツコは恐ろしきと云事のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.475 より引用)
これはまた……。「ヲコツコは恐ろしきと云事のよし」とあるのですが、なんでまたこんな謎な解が生まれてしまったのでしょう。

まず、「ヲコツコ」という語彙が果たして実在するのか……というところから確認しないといけません。

オコッコ【okokko】
 化け物,亡霊,幽霊,妖怪.
(萱野茂「萱野茂のアイヌ語辞典」三省堂 p.170 より引用)
あっ(汗)。

うーむ、これはどうしたものでしょうねぇ……。okokko で「化け物」という解は一旦あるものとして、もう少し地名らしい意味を読み解けるかどうか、という話になってきました。

o-u-kot-kot という、若干言葉遊びのような解は考えられないでしょうか? これを「河口・互いに・くっつく・谷間」と考えてみるというものです。

現在はオコッコ沢が単独で厚真川に直接注いでいますが、隣のシュルク沢川と合流した後に厚真川に注いでいたことがあったとしたら、それなりに蓋然性が出てきそうな気がするのですが……。

鬼岸辺川(おにきしべ──)

o-nikur-pet??
河口・林・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
幌内から厚真川を更に遡ったところで合流している東支流の名前です。このあたりは現在ダム工事中だった筈(厚真ダムの下流にもう一つダムが建設中)で、鬼岸辺川の河口ももしかしたら近い将来に水没するのかもしれません……。

東蝦夷日誌には「ヲニケシヘ(小川)榀皮多き義」とあります。「榀皮」に「こまい」とありますが、氷下魚のことではなく、シナノキの皮のことのようです。

戊午日誌「東部安都麻誌」にも似たような記載がありました。

また少し上に
     ヲニケレベ
右の方同じく小沢也。此川すじ榀皮多く有るよし。よって号とかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.477 より引用)
知里さんの「植物編」によると、シナノキの内皮を表す語彙としては nipes というものがありますが、他にも kuperkepkukerkepon-kukerkep といった表現があるようです。kuperkep は主に道東で使われるもので、日高のあたりでは kukerkep に転訛していたようですね。

このことから、「ヲニケレベ」が on-kukerkep(「シナノキの皮」)に由来する、という見方があるようです(戊午日誌の頭注)。一方で「東蝦夷日誌」の「ヲニケシヘ」という表記からは、o-nipes-pet(「河口・シナノキの皮・川」)とも考えられそうな気もします。

これらのインプットが無い状態で「ヲニケレベ」という音を読み解くと、o-nikur-pet で「河口・林・川」とも考えられそうな気もします。まぁ、これは参考レベルの話ですけどね。

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2016年12月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (401) 「オバウス沢川・頗美宇川・ヤチセ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オバウス沢川

o-pa-us-chep-ot-nay??
尻・川下・につけている・魚・多くいる・沢
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
厚真川の東支流であるウクル川に注ぐ支流の名前です。ちなみにこの「オバウス沢川」と「ウクル川」の間に「姨失山」(うばうし──)という山もあります。

戊午日誌「東部安都麻誌」に記載があった……のは良かったのですが。とりあえず見てみましょうか。

また少し上
     ヲハユシナイ
左りの方小川。本名はヲハウシチエホツナイと云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.467 より引用)
とまぁ、ここまでは良いのですが、

是魚を取り腸を切、此処の小屋に干置し処、煤にて黒く成りしと云儀なるとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.467 より引用)
……え? 魚の腸が煤で黒くなったって? 「ヲハユシナイ」あるいは「ヲハウシチエホツナイ」を頑張って読み解こうとしましたが、残念ながら読み解くことができませんでした。

「ヲハウシチエホツナイ」であれば、o-pa-us-chep-ot-nay で「尻・川下・につけている・魚・多くいる・沢」と読み解けそうです。今ひとつピンと来ない解ですが、オバウス沢川はよく見ると、ウクル川の川下側に寄って流れているようにも見えます。これを指して o-pa-us と言ったのかな、とか……。

頗美宇川(はびう──)

kapiw?
鷗(カモメ)
(? = 典拠あり、類型未確認)
頗美宇川は厚真川の支流の中では五指に入る大きさですが、何よりもその難読ぶりが道内でもトップクラスなので、ご存じの方も多いかもしれません。

今回は永田地名解に記載がありました。

Kapiu,   カピウ   鷗(カモメ) 海嘯ニ先ツテ鷗集リテ噪キシコトアリ故ニ土人尊ビテ神鳥トナス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.214 より引用)
どことなく「藤岡弘、」を思わせる表記ですが……(それはどうでもいい)。えーと、「津波の前にカモメが集まって騒いだので」という説のようですね。

東蝦夷日誌にも似たような話が記されていました。

左りカピウ(川幅七八間)鷗(カモメ)の事也。鷗は海邊に住める者なるに、昔し爰(ここ)に来り、巣を作り雛を持しや、其時海嘯(ツナミ)にて海邊皆荒たりと。依て其鷗は神の御使者なり迚(とて)、今に其處を尊敬し、必ず此處に来たればエナヲを供えけるとて多く立たり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.116 より引用)
ふぅーむ。こうまで見事に話が一致していては、それ以外の解を考えるのも億劫に……違うか。難しくなりますよね。いや、津波があったんだよとして「山奥にヒラメ」とか「山奥にカレイ」みたいな話を割と良く目にするのですね。それはそれである種の真実としながらも「本来の意味」が隠されているケースも少なくないと思っているのですが、ちょっとこの「カピウ」については他に解釈のしようが無いなぁ……と。

ということで、今日のところは kapiw で「カモメ」と考えるほか無さそうな感じです。

ヤチセ沢川

yat-chise
木の皮・家
(典拠あり、類型あり)
頗美宇川の西支流の名前です。あまりアイヌ語っぽくない語感にも思えたのですが、どうやらこれも起源はアイヌ語のようで……。

戊午日誌「東部安都麻誌」には次のように記されていました。

また少し上に
     ヤツンチセ
左りの方小川。是昔し土人等始て木の皮屋を立し処なりとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.473 より引用)
少し解釈に悩んだのですが、yar で「木の皮」という語彙があります。yar-chise という組み合わせであれば、音韻変化で yat-chise と変化しそうな感じです(意味は「木の皮・家」)。実際に「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、この川の場所には「ヤツチセ」とあります。

問題は「戊午日誌」がどこから「ン」を持ってきたかですが……。んー、良くわかりませんね(汗)。

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2016年12月23日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (64) 川島(南会津町) (1878/6/27)

引き続き 1878/6/30 付けの「第十二信」(本来は「第十五信」となる)を見ていきます。川島宿を出発したイザベラが、庶民の暮らしがいかに不衛生なものであるかを再認識するところから話は始まります。

不衛生的な家々

まずは服装の話題から始まります。

この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
なるほど、当時の庶民には「寝間着」という概念がそもそも無かったということでしょうか。

夜になると彼らは、世捨て人のように自分の家をぴったりと閉めきってしまう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
伝統的な日本家屋は通気性の良さがウリですから、そのままでは東北の寒い夜を越すには問題があるということですよね。でも「自分の家をぴったりと閉め切ってしまう」というのは、気候を考えるとやむを得ないことのようにも思えるのですが……。

家族はみな寄りかたまって、一つの寝室に休む。部屋の空気は、まず木炭や煙草の煙で汚れている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
「一つの寝室に休む」というのは、確かに特徴的な光景かもしれません。部屋の空気が暖を取るための木炭やタバコの煙で汚れているというのは、換気扇はおろか煙突すら無かったことに気付かされますね。これは確かに体に悪そうです。

蒲団は日中には風通しの悪い押入れの中にしまっておく。これは年末から翌年の年末まで、洗濯されることはめったにない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
むぅ。布団を干すという風習も無かったのでしょうか……? これはちょっと驚きなのですが。

畳は外面がかなりきれいであるが、その中には虫がいっぱい巣くっており、塵や生物の溜まり場となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
あー、これは程度の差こそあれ、現代の日本においても未解決の問題だったりしますね(特にダニなど)。これにはイザベラもこの先大いに悩まされることになる筈です。

髪には油や香油がむやみに塗りこまれており、この地方では髪を整えるのは週に一回か、あるいはそれより少ない場合が多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
……(汗)。毛ジラミとか凄そうな感じがしますね。敗戦後に GHQ が DDT をバラ撒いたのも理解できる感じがします。

このような生活の結果として、どんな悲惨な状態に陥っているか、ここで詳しく述べる必要はあるまい。その他は想像にまかせた方がよいであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
……(汗)。

イザベラ姐さんの鋭いツッコミは更に続きます。

家屋の床は、畳に隠れて見えないので、ぞんざいに敷かれているから、板の間に隙間ができている。しかも湿った地面が床下から一八インチか二フィートしか離れていないので、あらゆる臭気が畳を滲み通り、部屋の中に入ってくるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.162 より引用)
「臭気」の件はさておき……。「床下から 2 ft」が気になったのですが、Google さんの計算では 60.96 cm とのこと。これは現代でも割と一般的な高さですよね。

さて、この先はなぜか普及版でカットされた部分です。文体が変わるので一目瞭然だったかも知れませんが……。

飲み水は、家の密集した真ん中に据えられた井戸から汲まれるのですが、このとき確実に汚染されていると思われます。家の中での不潔な処理の直接的影響によるか、あるいは外側の溝からの土壌を通してろ過する際の有機物の分解による目詰りが原因であると考えられます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.60 より引用)
「有機物の分解による目詰り」というのがちょっと良くわからないのですが、確かに原文にも "choked with decomposing organic matter" とありますね。

農村では決まって、家の戸のところにある地面に埋めた大きな桶に下水が入っていて、ここから蓋のない桶で畑に運ばれます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.60 より引用)
なるほど、今で言う「肥溜め」のことでしょうか。糞尿を畑の肥料とするためにはどこかに溜めておくしか無いわけで、確かにその不衛生さは言うまでもないことですよね。糞尿以外の家庭排水は近くの小川に流していたんだと思いますが、その辺は残念ながら記載がありません。

早喰い

イザベラの筆致は農民の食生活に移ります。

農民の食物の多くは、生魚か半分生の塩魚と、野菜の漬物である。これは簡単に漬けてあるから不消化である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)
「不消化である」というのが少々意味不明だったのですが、原文を見ると "indigestible" とあります。これは「消化に悪い」と訳すのが適切かもしれません。

人々はみな食物をものすごい速さで飲みこむ。できるだけ短い時間で食事を片づけるのが人生の目的であるかのようである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)
ブリテン風の皮肉で締められているあたりが流石ですが、なるほど。優雅に食事を楽しむ、なんて風では無かったということですね。全体に被抑圧感が凄いのですが、これは江戸時代からの伝統だったのでしょうか。

早老

イザベラの興味深い筆致が続きます。

既婚女性は青春を知らなかったような顔をしている。その肌は、なめし皮のように見えるときが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)
この辺は要注意かな、と思ったりもします。というのも、当時の農村の人々には、イザベラが魔女であるかのように見えていたということを差し引かないといけないかな、と思うからです。ただ、イザベラは聡明な人物だったように思えますから、その辺のバイアスを差し引いた上での観察である可能性もあります。……どっちなんでしょうねー?

川島で私は、五十歳ぐらいに見える宿の奥さんに、彼女が幾歳になるか、質問をした《これは日本では礼儀正しい質問となっている》。彼女は、二十二歳です、と答えた。これは私にとって驚きであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)
一般的に、アングロサクソンと比較してモンゴロイドは童顔に見えるものだと言われていますよね。アングロサクソンである筈のイザベラが何をどう見間違えたんだ……と思えてしまいます。

私はこれと似た驚きを多く経験している。彼女の男の子は、五歳だというのに、まだ乳離れしていないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.163 より引用)
うーん、これはどういうことなんでしょう。母乳から得られる栄養が不足していたという話なのか、それとも……?

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2016年12月22日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (110) 「PR 活動に余念のないあの町」

江差町の国道 227 号を北に向かっています。松前や上ノ国ほどでは無いですが、江差もそれなりに海岸線の長い町です。特に江差の場合は面積自体が割と小さくて、また町域が少々いびつな形をしているだけに、より際立つ感じでしょうか。
なかなか素敵な眺めです。小雨がちらついたのが残念ですね。砂浜の向こう側に道の駅がある筈なのですが、さすがにこの位置からだとわからないですね。
道の駅を過ぎて更に北に進むと、道内各地でお馴染みの(東北にもあったかも)「オカモト セルフ」の看板が見えてきました。右の方にはローソンも見えますね。随分と開けてきた印象があるのですが……
あっ、そうか。江差港フェリーターミナルからの国道 227 号は、前の日にも同じ方向にドライブしていたんでしたね。前の日は日没後の走行だったため、写真撮影もできなかったことも影響していたかもしれません。

PR 活動に余念のない……

次の信号を左折して、乙部・熊石方面に向かいます。ちなみに信号を直進したら 50 m ほどで厚沢部町ですが、左折するともうしばらく江差町のままです。
そして、乙部・熊石(八雲町)の先は大成・北檜山と続くわけですが、大成と北檜山は今は瀬棚町と大合併して「せたな町」になりました。
インパクトのある PR 活動には定評のあるせたな町は、ここでもちゃっかりと看板を出していますね(素晴らしい)。フェリーターミナルの近くの海上風車の写真が出ています。もう一つはこの後のお楽しみですね。

厚沢部川と鰔川

左折して国道 229 号に入りました。国道 277 号との重複区間のようですが、地理院地図には国道 229 号・276 号・277 号の三重重複区間のように記されています。案内標識ではお隣の乙部町まではあと 6 km と出ていますね。
厚沢部川にかかる「柳崎橋」を渡ります。
1 km も走らないうちに、次の「鰔川」(うぐい──)を渡ります。この「鰔川」はなかなか難読らしいですね(何故か普通に読めたらしい)。

慶喜トンネル

鰔川を渡ってから更に 1 km ほど北に進むと、何故か突然トンネルが見えてきます。
このトンネルが町境というわけでも無いようで、ちょっと唐突な感じもしますが、厚沢部川河口部の平地が終わった、ということを意味するトンネルとも言えそうですね。この先、この規模の平地は北檜山までおあずけとなります。

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