2021年8月31日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (169) 「あせらず ゆっくり ゆとりのドライブ」

岩尾内湖の畔にある「岩尾内湖白樺キャンプ場」を後にして、再び北に向かおうとしたのですが……
なかなか味のある「 通安全」の看板が。最初の一文字は綺麗にペンキが剥げ落ちてしまったようですね。
それはそうと、この明るい緑色の植物は一体何なんでしょう……?
こんな形をしているのですが……。水芭蕉でもないですよね……?
とりあえず、車に戻ることにしましょう。

右も左も旭川市

キャンプ場のゲート、入口は「白樺キャンプ場」「森と湖の郷 岩尾内湖」と大書してありましたが……


出口側は「あせらず ゆっくり ゆとりのドライブ」として、近隣自治体への距離が列挙されていました。
左側は「下川町 31 km」「名寄市 49 km(下川経由)」「士別市 35 km」「旭川市 94 km」で、右側には「滝上町 44 km」「紋別市 87 km」「愛別町 32 km」「旭川市 63 km」とあります。どちらにも旭川があるのが面白いですし、距離が大きく違うのも面白いですね。

そして、「ゆとりのドライブ」の文字の下にはひっそりと……
「朝日商工会・朝日町観光協会」の文字が。

岩尾内ダム管理所

岩尾内湖沿いの道道 61 号「士別滝上線」を北北西に向かいます。
前方に、レンガ造りっぽいデザインの建物が見えてきました。
まるで昔の発電所のような雰囲気がありますが、それよりも手前にある看板っぽいものは何なんでしょう……?
この昔の発電所っぽいデザインの建物が、「岩尾内ダム管理所」とのこと。道路から見やすいところにこんな看板を建てて、しかも「森と湖に親しむ旬間」のアピールまで。
随分とマメに PR 活動を行っているのだなぁ……と感心していたのですが、そう言えばこの時は 5 月だったのでした。「森と湖に親しむ旬間」は 7/21 から 7/31 とあるように見えるのですが、かなり前倒しで PR を始めているのですね(汗)。

岩尾内大橋

「岩尾内ダム管理所」の前をスルーすると、今度は「岩尾内大橋」が見えてきました。岩尾内ダムは天塩川のダムですが、ダム湖は北支流の「岩尾内川」の谷にも広がっています。河川の合流点の直下にダムを設けると、貯水量を多くできますからね(シューパロダムと似た位置関係でしょうか)。
「岩尾内大橋」で岩尾内湖を渡ります。左側にはダムの堰堤が見えますね。

岩尾内ダム、堰堤通行可?

橋を渡るとすぐのところで堰堤上の道路が道道と接続していました。特に柵も置かれていないので、これって自家用車でも上を通行できたんでしょうか?
ストビューだとこんな感じなので、なんか普通に行けそうな感じですね。

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2021年8月30日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (168) 「岩尾内湖白樺キャンプ場」

「岩尾内湖白樺キャンプ場」にやってきました。眼前には滔々と水を湛えた「岩尾内湖」が広がっています。
駐車場と水面の間にはしっかり管理の手の入った芝生が見えますが……
なるほど、ここの芝生はキャンプ場では無いのですね。そしてこんなところにも「朝日町」の文字が。合併前の町名を血眼になって抹殺にかかる自治体もある中、士別市は割と(かなり?)鷹揚な姿勢のようですね。

岩尾内湖周辺マップ

「岩尾内湖周辺マップ」が設置されていました。岩尾内ダムは「洪水調節」「灌漑用水の補給」「水道用水・工業用水の補給」「発電」を目的とした多目的ダムで、1971 年 3 月に完成したとのこと。この看板自体はかなり新しそうに見えます。
現在地の「岩尾内湖白樺キャンプ場」にはこのようなスポットがあるとのこと。「キャンプサイト」「管理棟」「炊事場」「バンガロー・コテージ」があるのは想定の範囲内ですが、「ステージ」や「ファイヤーサークル」もあるとのこと。
「水芭蕉」と「菖蒲園」が図にあるのもユニークですが、ちょっと離れた場所に「クラブハウス」「蓮池」「テニスコート」「野球場」があるというのは驚きです。空中写真を見た感じでは、野球場は原野に還りつつあるようにも見えますが……(汗)。

管理棟

キャンプ場の利用期間は 5 月上旬から 10 月下旬とのこと。この日は 5/5 でしたが、営業を開始したかそれとも開始直前か、と言ったところでしょうか。管理棟はなかなか立派な建物で、トイレも設置されています。手前には飲料の自販機も見えますね。
自車の位置がしれっと移動しているように見えるのは……気にしないでください(汗)。あまり深い意味は無かった筈なんですが……。

管理棟の屋根は庇が長く伸びていて、庇の下にはウッドデッキ風の通路があります。建物の外だけど雨は凌げそうな場所で、ベンチチェアが置かれて喫煙スペースとなっていました。
ちなみにこのベンチチェア、「士別信用金庫創立 50 周年記念」として寄贈されたもののようです。
管理棟の近くでパラボラアンテナを見かけたのですが、これは非常用の通信回線とかでしょうか。さすがに電話やネットが日頃からすべて衛星経由ということは無いですよね?

炊事場とキャンプサイト

管理棟の南側には炊事場とキャンプサイトがあり、奥にはバンガロー(コテージ?)も見えます。割とコンパクトなキャンプ場のようですね。
「岩尾内湖白樺キャンプ場」というネーミングの通り、周りには白樺が多く見られます。白樺って樹皮が白いだけで、なんか好印象ですよね。
駐車場と湖の間には芝生の広場がありますが、その外れには東屋もあります。
東屋の遥か向こうには、岩尾内ダムの堰堤も見えています。

水上バイク、ボート、カヌーも利用可!

ちなみにこの岩尾内湖、水上バイクやボート、カヌーなどの利用も OK みたいです。
これも「ダム湖あるある」ですが、流木が多いので十分注意が必要とのこと。
湖水では水上バイクやボートなどで遊ぶほかにも、釣りも楽しめるとのこと。ただし一日 200 円の「遊魚料」が必要みたいです。年間 11 回以上来訪する剛の者には年間パスポートがお得みたいですね。

航路制限について

岩尾内湖は水上バイクやボート、カヌーなどの利用も OK ……という認識だったのですが、利用可能な水域には制限があるようで、堰堤から 200 m ほど離れた線から西側は通航禁止、堰堤から約 1 km 以内のエリアも時間制限と速度制限があるとのこと。
地図っぽいイラストも描かれているのですが、実際の地形と比べるとちょっと歪みが大きいような気も……。

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2021年8月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (862) 「時前川・オピラシェナイ川・知志矢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

時前川(ときまえ──)

tuki-oma-i
杯・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
宗谷岬の南南東 9 km ほどの所に「萌間山」という標高 122 m の山があるのですが、「時前川」は萌間山の南麓を流れています。このあたりは「峰岡」という地名でしたが、「峰岡」に改称される前は地名も「時前」だったようです。

1980 年代の土地利用図には「峰岡」という地名が描かれていますが、現在の地理院地図には記載がありません。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トキマイ」という名前の川が描かれています。「再航蝦夷日誌」では「トキマヱ」で、「竹四郎廻浦日記」では「トキマイ」と記録されています。

永田地名解には次のように記されていました。

Tukimai  ト゚キマイ  元名「ト゚キモイワ」ナリ杯山ノ義或ハ云フ「ト゚ーキオマイ」ニシテ杯ヲ忘レ置キタル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.431 より引用)
どうやら元は「山の名前」ではないかとのこと。ちょうど良い具合に「萌間山」があるのですが、山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

峰岡 みねおか時前 ときまえ
萌間山 もいまやま
 稚内市宗谷地区東岸南部の地名。前のころは時前と呼ばれていたが,今は峰岡と改名。ただし川名は今でも時前川である。萌間山は時前川下流の北岸にある美しい独立丘で,特に峰岡部落の方から見ると,全くトゥキ(tuki 酒椀)を伏せたような姿である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166 より引用)
「ト゚キマイ」は、やはり「萌間山」関係のようですね。永田地名解には「萌間山」についての記述もありました。

Mo iwa  モ イワ  小山 「ヘマシュベッ」ノ傍ニアリ此邊ノアイヌ「モイマ」ト云フ元名ハ「ト゚キモイワ」ナリ杯ノ如キ小山ノ義
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.430 より引用)
どうやら現在の「萌間山」が tuki-mo-iwa で「杯・小さい・山」と呼ばれていて、その麓を流れる川を tuki-oma-i で「杯・そこに入る・もの(川)」と呼んだ、ということのようです。

現在は「時前川」が「萌間山」の麓を流れていて、「一の沢川」が時前川の南側を流れています(南支流)。明治時代の地形図を見ると、「一の沢川」が「ト゚キマイマサラママ」とあり、「時前川」は「クリキシトキマイ」となっていました。

「ト゚キマイマサラマ」は {tuki-oma-i}-masar-oma で「時前川・浜の草原・そこに入る」と読めそうでしょうか。「クリキシトキマイ」は kurkasi-{tuki-oma-i} で「上面一帯・{時前川}」かと考えてみましたが、kurkasi という語にあまり記憶がないので、参考程度ということで。

kurki で「えら」という意味があるので、kurki-us-tuki-oma-i で「鰓のある時前川」という解釈もできなくは無いのですが、ちょっと意味がよくわからないことになるので……。「鰓」が湧き水の比喩とかだったら面白いのですが。

オピラシェナイ川

o-pira-us-nay?
河口・崖・ついている・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 238 号の「峰岡橋」と宗谷岬の中間あたりに「泊内橋」という橋があります。これは「泊内川」を渡る橋で、かつては同名の集落(泊内)もありました。ただ、1980 年代の土地利用図にも集落としての「泊内」の文字は見当たらないので、割と早い時点で無人になっていたのかもしれません。

「オピラシェナイ川」は「泊内川」の南支流で、道道 889 号「上猿払清浜線」に「オピラシェナイ橋」があります。余談ですが、「オピラシェナイ川」は国土数値情報では「オピラシュナイ川」となっています。

音からは o-pira-us-nay で「河口・崖・ついている・川」と読めるのですが、不思議なことに古い記録にその名前を確認することができません。ただ、大正時代に測図された「陸軍図」には「オピラシュナイ沢」とあるので、少なくとも大正時代までは起源を遡ることができそうです。

「北海道地名誌」にも次のように記されていました。

 オピラシュナイ沢 泊内川の右小支流の沢。川口に崖ある川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.399 より引用)
まぁ、やはりそうなりますよね。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲサウシ」という地名を確認できるのですが、これはどうやら「目梨泊橋」と「泊内橋」の間にある岬状の地形を指しているようなので、「オピラシェナイ川」とは直接の関係は無さそうです。

知志矢川(ちしや──)

chis?
立岩
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 238 号で「泊内橋」を渡って更に北に向かうと、沖合……と言ってもすぐ目の前なのですが……に「竜神島」という島(というか岩)が見えるのですが、そこから 400 m ほど北のあたりを「知志矢川」が流れています(250 m ほど南には「上知志矢川」も流れています)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には何故か記載がありませんが、「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。前後関係を確認するために少し長目に引用してみます。

     ヲニキルンヘ
小川有。砂道つゞきなり。幷て
     ヲカシヘトマリ
幷て
     ニナルヱラニ
幷て
     ヲフカルモナイ
小川有。陸の方平山つゞき
     チシヤ
此処にも夷人の塞と云もの有る也
     アマンボ
番屋有。夷人壱軒。(中略)
     トマリナヱ
図合船懸り澗有。砂道よろし。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻」吉川弘文館 p.129 より引用)
特にこの順序におかしな点は見当たらないのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「ヲフカルナイ」の隣が「トマリナ」になっているので、「チシヤ」と「アマンボ」が飛ばされたということになりますね。

「竹四郎廻浦日記」でも「再航蝦夷日誌」と同じ順序で記録されていました。

     ヲフカルシナイ
此所当時は何もなけれ共往昔六軒有し由云伝ふ。此辺に至りて山に樹木有るを始て見る(丑向)。
    字チ シ
前に小島有。地名は其を号るに、此辺より岩石多く甚だ足踏場至てわろし(丑向)。
    字アマンホ                                 トマリナイ
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.310 より引用)
永田地名解には次のように記されていました。

Kisa nai   キサ ナイ   燧澤 此邊ノアイヌ「チサナイ」ト呼ビテ其意義ヲ知ラズ
Kisa shuma  キサ シュマ  燧石 此邊ノアイヌ「チサシュマ」ト呼ビテ其意義ヲ知ラズ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.430 より引用)
さすがは世界の永田さんですね。「地元のアイヌはその意味を知らないが、この地名の意味はこうだ!(ドヤァ)」ということのようですが……。

「チサ」は「キサ」が訛ったもので、kisa は「火を打つ(起こす)」という意味だとのこと。確かにハルニレの木のことを chi-kisa-ni と呼び、摩擦熱で火を起こすのに使ったと言われるので、永田氏がドヤ顔になるのも理解できます。

ただ、松浦武四郎は「前に小島有。地名は其を号る」と記していました。そして実際に「竜神島」という小島もある以上、kisa ではなく chis で「立岩」と考えるのが自然ではないでしょうか。

chis-nay は「立岩(のところの)川」で、川、または地名と区別するために「竜神島」のことを chis-shuma で「立岩(の)岩」と呼んだ……ということではないかと思われるのです。

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2021年8月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (861) 「エサンベ・浜鬼志別シネシンコ・チヒナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エサンベ

esampe
(典拠あり、類型あり)
猿払村の道の駅「さるふつ公園」の沖合に「エサンベ鼻北小島」という島がある……いや、あったのですが、波と流氷による長年の浸食により、最近、ついに海没してしまったことが確認されたのだそうです。

道の駅のある「浜鬼志別」には、漁港から見て南東にある「エサンベ鼻北小島」のほか、漁港から見て北に位置する「海馬とど」という島(岩礁)もあります。1939 年に「インディギルカ号」が座礁したのは「海馬島」のほうです。

エサンベ=「恵山辺」

1980 年代の土地利用図には「猿骨」の北に「恵山辺」という地名が描かれていました。おそらく「えさんべ」と読んだのだと思われますが、残念ながら現在の地理院地図には記載がありません。

島の名前にも「エサンベ鼻」とあるように、本来は岬状の地形を指していたと思われるのですが、猿骨と浜鬼志別の間の岬状の地形と言えば道の駅のあたりしか無いので、「エサンベ」も本来は道の駅のあたりの地名だったと考えられそうです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「エシヤンベ」という岬が描かれていました。また「再航蝦夷日誌」には「イシヤンベ」とあるほか、「竹四郎廻浦日記」にも「イシヤンベ 小岩岬」とありました。やはり岬の名前と見て良さそうですね。

永田地名解にも次のように記されていました。

Esanbe  エサンペ  岬(岬前ニ飛島二アリ)
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.433 より引用)
地理院地図を見ると、道の駅の前には話題の「エサンベ鼻北小島」を含めて 3 つの島(岩礁)が描かれています。永田方正は「飛島 2 つ」としていますが、これはまぁ誤差の範囲ですよね。

岬の名前か島の名前か

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。

 エサンベ
 現在は天北線芦野駅の北東、猿骨沼の対岸に当たる海岸の集落をそうよんでいる。行政的にも宗谷郡猿払村字エサンベである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190 より引用)
これは 1980 年代の土地利用図で確認できた「恵山辺」のことですね。やはり「エサンベ」で良かったようです。

エサンはこれまでもいくどか出た岬のことであり、ベはペでものであって岬のものという意味である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190-191 より引用)
確かにそうなのですが、知里さんの「──小辞典」には e-san で「」とあり、また esampe も「」とありました。

esampe エさㇺペ 岬。[<e-san-pe(そこに・出て来ている・者)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.27 より引用)
ですので、「エサンベ」も素直に「岬」と考えて良いかと思うのですが、更科さんは次のように続けていました。

永田方正氏は地名解で「岬。岬前に飛島二アリ」と述べている。従ってこれは単に岬ではなく、岬の前にある飛島を呼んだ地名である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190-191 より引用)
うーん、なるほどそういう解釈もできちゃいますかね……。個人的にはちょっと考えすぎのようにも思えるのですが……。

前述の通り、本来の「エサンベ」は道の駅「さるふつ公園」のあたりの地名なので、道の駅の名前も「さるふつ公園エサンベ」あたりに微修正されると胸アツなんですが……。

浜鬼志別シネシンコ(はまおにしべつ──)

sine-sunku?
一本の・エゾマツ
(? = 典拠あり、類型未確認)
こちらも現在の地理院地図には記載のない地名ですが、1980 年代の土地利用図には「浜鬼志別」の北西に「浜鬼志別シネシンコ」と描かれていました。また「浜鬼志別シネシンコ」と「知来別」の間には「知来別シネシンコ」という地名も描かれていました。

陸軍図には、「浜鬼志別シネシンコ」相当の位置に「シムシンコ」と描かれていました(「知来別シネシンコ」相当の位置には地名の記入はなし)。明治時代の地形図には「シ子シュンケ」と描かれていましたが、位置が「浜鬼志別シネシンコ」と「知来別シネシンコ」の中間あたりになっていました。

「一本の椴松」から

永田地名解には次のように記されていました。

Shine shunk  シネ シュンク  一本ノ椴松 今ハ「レプシユンク」トモ名クベク三本ノ椴松アリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.432 より引用)
確かに sine-sunku で「一本の・エゾマツ」と読めます。「椴松トドマツ」は hup と呼ぶ場合が多く、sunku は「エゾマツ」と解釈されますが、知里さんの「植物編」によると……

注 1.── súnku の語原わ不明であるが,支那語 sung に酷似しているのわ不思議である。外來語らしい感じもする。本來のアイヌ語でわ,エゾマツをも hup と云ったらしい。→§411,注 3,參照。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.236 より引用)※ 原文ママ
なお、田村さんの辞書(アイヌ語沙流方言辞典)には sunku の項に「エゾマツ(『シンコマツ』)」と記されていました。「エゾマツ」を「シンコマツ」と呼ぶ流儀もあったようですね。

「一本の蝦夷松」があっちにもこっちにも

単なる「シネシンコ」ではなく「浜鬼志別──」を冠していたのは、「知来別シネシンコ」との区別のためだったのかもしれません。更科さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。

 シネシンコ
 猿払海岸の字名で、五万分の地図では浜鬼志別から一㌔ほど北西海岸沿いの小集落にシムシンコと記入されているが、古い五万分図では浜鬼志別より四㌔ほど離れてシネシュンクと書いてあり、知来別の地元ではこれを「こっちシネシンコ」といい、鬼志別の方を「向うシネシンコ」と呼んでいるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190 より引用)
ちょっと面白い記録だったので引用してみました。「一本の蝦夷松」が複数存在したというのも不思議な感じもしますが……。ちなみに

 志根新古という当字もある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190 より引用)
「シネシンコ」に「志根新古」という字が充てられる場合もあったのだとか。なかなか傑作ですね。

余談

興味深いことに、「東西蝦夷山川地理取調図」や「再航蝦夷日誌」「竹四郎廻浦日記」には、それらしき地名が見当たらず、代わりに「シユルクヲマナイ」という川が描かれていました。

「シユルクヲマナイ」は surku-oma-nay で「トリカブトの根・そこにある・川」と読めます。アイヌはトリカブトの毒をやじりに塗ることで狩猟や仕掛け弓に用いる弓矢の殺傷能力を高めていましたが、同じトリカブトでも産地によって毒性の高さに違いがあったようで、強毒性のトリカブトの所在は極めて重要な情報だったようです。

永田方正がこのあたりの地名調査に来た際に、土地のインフォーマントが「機密情報」である「トリカブト群生地」の情報を伏せるべく、適当に「浜辺の一本松」の話をでっち上げたところ、実は椴松が三本あった……とかだったら面白いなぁと考えてみました。

チヒナイ川

pira-chimi-nay?
崖・左右に分ける・川
(? = 典拠あり、類型未確認)
猿払村知来別の北西を流れる川の名前です。地理院地図にも川として描かれていますが、残念ながら川名は記されていません。

明治時代の地形図では、「チラオペツ」(猿払村知来別)と「ナイウドロ」(稚内市宗谷村苗太路)の間に「オン子ウコイキウンナイ」と「ウソシユナイ」という川が描かれていました。どうやら位置的には「オン子ウコイキウンナイ」が現在の「チヒナイ川」に相当するように見えます。

ボクシング川?

永田地名解には次のように記されていました。

Ukoiki ush nai  ウコイキ ウㇱュ ナイ  古戰場
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.432 より引用)
ukoyki は「喧嘩する」という意味で、より具体的には「殴り合い」や「取っ組み合い」など、実力行使に類するものだったようです。ukoyki-us-nay で「殴り合い・いつもする・川」と読めそうです。

onne-ukoyki-us-nay だと「古い・殴り合い・いつもする・川」と読みたくなりますが、onne はあくまで「年老いた」という意味であり、「古い」は husko とのこと。なので onne-ukoyki-us-nay でも「古戦場川」と考えるのは少々苦しいように思えます。

「チヒナイ」は「ヒラチヒナイ」?

そして、更に不思議なことに、「東西蝦夷山川地理取調図」を見ると「ウコヱキウナシナイ」と「ナエウトロ」の間に「ヒラホフ」「ヒラチヒナイ」「チヒエレ」という地名(川名かも)が記録されています。

「チヒナイ川」は「ヒラチヒナイ」に由来している可能性が高そうですが、厳密には明治時代に一度失われて、現在はかつての「オン子ウコイキウンナイ」の代わりに復活した、という風に見えます。

「ヒラチヒナイ」についても、永田地名解に記載がありました。

Pira chimi nai  ピラ チミ ナイ  崖ヲ割リテ流ルル川 「チミ」ハ割ル
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.432 より引用)
「『チミ』は 1000%」とか言われたらどうしようかと思ったのですが(それはそれで面白いかも)、なるほど、「チヒ」は「チミ」が訛ったのでは無いか、と考えたのですね。pira-chimi-nay で「崖・左右に分ける・川」ではないか……という説のようです。

このあたりは海沿いに標高 4~50 m ほどの台地が接していて、台地と海岸の間が崖状になっています。その台地を割って川が流れているので、まさに「崖を左右に分ける川」と言えそうです。

現在の「チヒナイ川」はかつての「オン子ウコイキウンナイ」で、本来の「ヒラチヒナイ」は「オン子ウコイキウンナイ」と「ナイウドロ」の間の(別名)「ウソシュナイ」のことだったとも考えられそうですが、この川は現在の「チヒナイ川」以上に「台地を割っている」ように見えます。

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2021年8月27日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (167) 「滝上? 滝の上?」

道道 101 号「下川愛別線」で北に向かいます。滝上まで 48 km、下川まで 36 km の地点までやってきました。
いつの間にか、左側の天塩川が「岩尾内湖」に化けていました。Google マップの航空写真は渇水期に撮影されたものなのか、河道が良く見えていますが、地理院地図では「岩尾内湖」が満水状態で描かれています。
ダム湖沿いの道ということで、急に細かいカーブが増えてきました。
R = 25 m くらいの急な左カーブが近づいてきました。右側の斜面は北西向きということもあってか、雪が多く残っていました。

滝上? 滝の上?

似峡川の谷に入りました。この谷は 300 m くらいの幅があって、川の北または南に平らな土地が広がっています。道道 101 号は 200 m ほど先の T 字路で道道 61 号「士別滝上線」と合流です。
左折した先は道道 61 号と道道 101 号の重複区間なのですが、それよりも「滝の上」が気になって仕方がありません。町名は「滝上」なんですが、なぜ「の」が入っているのか……。
右折すると「滝の上」こと「滝上」ですが……今回は左折です。
道道 61 号と道道 101 号の重複区間に入りました。あ、ここでも道道 61 号「士別滝の上線」になってますね(!)。なぜ「滝の上」なんでしょう……?

公園とキャンプ場と謎のなにか

左側は「岩尾内ダム」のダム湖である「岩尾内湖」です。
右カーブの途中に青看板が立っていました。左折すると「神社山公園」「白樺キャンプ場」と「謎のなにか」があるみたいですが……
とりあえず「大自然の景観」が「歓迎」してくれるらしいので、左折して「岩尾内湖」に向かいます。
なんか奥行きが圧縮されたせいで、ゲートの下に建物があるように見えてしまいますが……
ゲートの下には 2 車線道路があるだけで、料金所などは無いのでご安心下さい。この立派なゲートには「朝日商工会」「朝日町観光協会」の名前が並んでいますが、「朝日町」は 2005 年 9 月に廃止され、士別市と新設合併されています。


左側の「NAKKY」の存在に今頃気づいてしまいました。「NAKKY」の正体については継続調査ですね……(汗)。

岩尾内湖!

白樺林の中の道をゆっくりと進みます。いや、わざわざスピードを出す必要は無いかなぁ……と。
「岩尾内湖」が見えてきました。右側に「駐車場」があるようですが、もう少し先に進めそうです。
黄色地に赤の「→」が 3 つ並んでいます。こちら側の車線から見ると完全に逆方向なのですが、それは良いとして……。このカラーリングの矢印を見てしまうと、ナポレオンズを思い出してしまいますね(わかる人は多くないのでは)。
駐車場が見えてきました。ゴールデンウィークですが、グズグズした天候の影響もあるのか、車の数も少なそうです。(車や人が少ないのは)個人的にはわりと嬉しいシチュエーションだったり……。

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2021年8月26日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (166) 「ポツンと自販機」

道道 101 号「下川愛別線」の「於鬼頭トンネル」を抜けて、士別市(旧・朝日町)に入りました。
実は、出口の先にカントリーサインも見えているのですが……。さすがに良く見えないので、Google ストリートビューからお借りします。これは……サフォーク種でしたっけ?

「夜間の除雪はしていません。」

カントリーサインと路線名表示の間には、おなじみの黄色い看板が……
はい、こちらの「夜間の除雪はしていません。」です。山間部、あるいは市街地を少し離れたところで目にするものですが、これを見ると謎に気合が入るんですよね……。
ところで、ここのストリートビューは 2014 年 7 月撮影だそうですが……


「夜間の除雪はしていません。」が見当たりませんね。2014 年 7 月から 2016 年 5 月の間に追加されたということなんでしょうか。

由来が気になる「駿太橋」

於鬼頭トンネルの北側は、天塩川の支流(名称不明)沿いを通っていて、二度ほど橋で川をショートカットしています。この「川上橋」というネーミングについては、特に気になる点は無いのですが……
すぐ先(下流側)の橋が「駿太しゅんたい橋」という名前でした。どことなく「春国岱しゅんくにたい」を舌っ足らずにしたような雰囲気があって、ちょっと気になりますね……。

天塩岳登山口まで 17 km

通行止めゲートが見えてきました。天塩川の最上流部には「ポンテシオダム」というダムがあるのですが、そのポンテシオダムに向かう道路がこの少し先(士別市側)で分岐しています。ダムへ行く道を確保して、於鬼頭トンネルに向かう道を通行止めにするという運用が存在するみたいですね。
右折すると「天塩岳登山口」に行けるとのこと(約 17 km)。天塩と言えばなんと言っても川ですが、「天塩岳」という山もあったんですね。ちなみに「天塩岳登山口」に向かう途中に「ポンテシオダム」がある、ということみたいです。
登山口まで約 17 km、どこまで車で行けるのだろう……と思って地図を見てみたところ、割とちゃんとした道が「天塩岳ヒュッテ」まで続いているようでした。何もなければ 17 km すべて車で行けそうな感じですね(ちょっと驚きです)。

ポツンと自販機

天塩川は道北きっての大河ですが、なんと早くも川の両側に平地が形成されています。ここは士別市朝日町茂志利もしりというところですが、航空写真を見た感じでは牧草地として使用されているところが多そうでしょうか(あとは畑として?)。
ここから旧・朝日町の中心部に出るには、天塩川に沿って下るしか無い……と思っていたのですが、なんと「茂志利トンネル」を抜けてペンケヌカナンプ川沿いを通るバイパス路があるとのこと。二通りのルートがあるというのは、もしものときにも安心できて良いですよね。
そのまま直進して「岩尾内湖」に向かったのですが、天塩川を渡る直前の右カーブには……
ポツンと自販機が。ここは農場のようで、サイロや燃料タンクが見えるのですが、敷地の一角に自販機が置かれていました。どの程度の売上があるのか、気になるところですね。

「下川愛別線」のヘキサ

滝上まで 51 km、下川まで 39 km の距離を示す青看板が見えてきました。その下には……
いい具合にくたびれたヘキサが見えます。残念ながら文字を読み取るには至らなかったのですが……
ストビュー(だんだん略し方が雑になってるね)を見ると、番号の代わりに「下川愛別線」の文字が描かれていました。どうやら古いタイプのヘキサだったようです。

天塩川を渡る

古いヘキサの前を通り過ぎ、道道 101 号「下川愛別線」は天塩川を渡ります。ここからしばらくは天塩川の東側を通行することになりそうです。
天塩川の橋は流れを直交する(=最も橋長が短くなる)向きに建設されているので、橋の前後はちょっとした急カーブになっています。目分量で R=100 m くらいのカーブでしょうか。

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