2023年12月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1100) 「別途前川・萱屋牛・平苫内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

別途前川(べとまい──)

pet-oma-i
川・そこに入る・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線・新富士駅の西あたりから線路沿いを西に流れ、道道 860 号「釧路西港線」の終点あたりで星が浦川に合流する川です。流路より北にあたる「鳥取7号公園」の敷地内には「別当前べつとまい」三等三角点(標高 6.6 m)もあります。

陸軍図では、何故か新釧路川の東の海岸部に「別途前」という地名が描かれていました(現在の「別途前川」は新釧路川の西に存在します)。位置には若干の疑義もあるものの、古くから存在する地名(あるいは川名)だったようで、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「ヘトマイ」と描かれています。

「川向は・まがる」?

加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) にも次のように記されていました。

ヘトマヰ ヘト・ヲマヱ 川向は・まがる
  此所小川有。少し川上はヲタノシケ川と同様にまがり有るを斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.257 より引用)
確かに「別途前川」は沿岸流の流砂によって川筋を捻じ曲げられた……というか、沿岸流の流砂によって形成された「横向きの川」と言えそうな川です。「川向は・まがる」というのはその通りなのですが、「ヘト・ヲマヱ」をどう解釈したものか……。

「川の前に柱がある」?

「午手控」(1858) には次のように記されていました。

ヘトマイ
 川の前に柱が有る故なり
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.338 より引用)
これはまた……良くわからない解が出てきましたね。何をどう訳せば「柱」となるのか……?

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

また同じ様成処をしばし過
     ベトマイ
一里杭有。小川。板橋有。ふかし。五丁計下の方に小休所有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.258 より引用)
残念ながら地名の由来は記されていないのですが、「一里杭有」とあるので、このことを「川の前に柱がある」とした可能性があるかもしれませんね。その傍証というわけでも無いのですが、「ベトマエ」の東隣に「フレベツ」があり、更にその東隣に「ホンベトマイ」という地名が記録されていました。

同じくしばし行て
     ホンベトマイ
此処壱里杭有。是クスリよりの杭なるなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.258 より引用)
実際の因果関係は不明ですが、「柱がある」=「ベトマイ」と誤解してもおかしくないような……。

「川が入る」?

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には全く異なる解が記されていました。

(一里八丁四十三間)ヘトマエ(小川)名義、ベツヲマイにて川入る儀也。是クスリの持川にして、川口にて落合ふ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.303 より引用)
どうやら pet-oma-i と見て良さそうな感じでしょうか。逐語的に解釈すると「川・そこに入る・もの」と解釈できそうです。疑問があるとすれば「是クスリの持川」という部分で、クスリ川(=釧路川)の支流だとしているところです。「東西蝦夷──」には「ヘトマイ」の東隣に「フレヘツ」という川が描かれていて、この川は直接海に注いでいるので、勘違い……でしょうか?

復活!豊島三右衛門地名解!

ちょっと出遅れた感もありますが、そろそろ表の出番だったかもしれません。

クスリ地名解 (1832)ヘトマヰヘト・ヲマヱ 川向は・まがる
初航蝦夷日誌 (1850)ヘトマイ小川有。橋有。小休所。
竹四郎廻浦日記 (1856)ヘトマイ小休所有。
午手控 (1858)ヘトマイ川の前に柱が有る故なり
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヘトマイ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヘトマエベツヲマイにて川入る儀也。
豊島翁地名解(1882-1885?)缺橐〓ベトマヰウシロ前ニ水有
改正北海道全図 (1887)ヘットマイ-
永田地名解 (1891)ペトマイ川ニ注ク處 一水來リテ釧路川ニ注グ處
北海道地形図 (1896)ペトマイ-
陸軍図 (1925 頃)別途前※ 新釧路川の東岸の地名
地理院地図別途前川※ 星が浦川の東支流(新釧路川の西岸)

ということで、久しぶりにあの「豊島三右衛門地名解」が帰ってきました!
いやー、今回も絶好調ですね。「〓」で「ベトマヰ」だと言うのですが……。地名解には次のように記されていました。

缺橐〓  但此所ウシロ前ニ水有ヲ名付ルナリ 一里冂
但「ベト」ト云フハ水向ニ有ト云フ言ナリ「マイ」ト云フハ水ノ先ト云フ言ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.18 より引用)
字のチョイスがアレなのはお約束なのでスルーするとして、「ウシロ前ニ水有」というのは東蝦夷日誌の「川入る儀」と同じことを指している……ようにも思えます。

「川に注ぐところ」?

永田地名解には次のように記されていました。

Petomai   ペトマイ   川ニ注ク處 一水來リテ釧路川ニ注グ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.328 より引用)
ここで注目したいのは「釧路川ニ注グ」と明言しているところで、これは「東蝦夷日誌」の記述と符合するものです。ただ「北海測量舎図」を見ると、「ベトマイ」のあたりを流れる川は大きく西に曲がっていて、しかも合流先の川(現在の阿寒川に相当)の河口まで大きく西に流されています(ボートピア釧路跡と道の駅「しらぬか 恋問」の間のあたり)。

「川(の水)が入るところ」?

pet-oma-i を「川・そこにある・ところ」と解釈すると意味不明な感じが否めませんが、「川・そこに入る・ところ」と考えるとなんとなく納得できそうな気がします。

海沿いに沿岸流によって形成された「横向きの川」が存在し、その河口が頻繁に「移動」を繰り返していたとすると、水はあるものの出口の無い(行き止まりの)河跡湖ができることもあったのでは……と思わせます。pet-oma-i はそんな「川に繋がった河跡湖」を指していたのではないでしょうか。

萱屋牛(かややうし)

kaya-ya-us-i???
帆・網・ある・ところ
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
仁々志別川(旧・阿寒川)と阿寒川(阿寒川放水路)の間の、かつては湿原のど真ん中だったところに「萱屋牛」という名前の三等三角点(標高 9.3 m)があります。

北海道地形図」(1896) や「北海測量舎図」では、後に雄別鉄道の「平戸前駅」(1956(昭和 31)年に「北斗駅」に改称)が設置されるあたり(やや東側)に「カヤヤウシ」と描かれていました。

陸軍図には雄別鉄道とともに「平苫内」という地名が描かれていました。この時点で「カヤヤウシ」という地名が消え失せた可能性もありますが、 1919(大正 8)年に選点された三角点に名前がひっそりと残っていた……ということになりそうですね。

手持ちの資料の中では、唯一「大日本地名辞書」に言及がありました。

カヤヤウシは、又阿寒郡ニニンペツの、東側丘陵地に入る径路の岐る、点にて、オンネドラと鳥取本村の間なり。
(吉田東伍・編「大日本地名辞書 第八巻」冨山房 p.311 より引用)
「オンネドラ」はどうやら「オンネビラ」の誤字のようで、雄別鉄道・穏禰平おんねびら駅(1956(昭和 31)年に「山花駅」に改称)のあたりを指していたようです。

少なくとも明治時代に「カヤヤウシ」という地名が存在していたことは明らかで、おそらくアイヌ語由来と考えられるのですが、その意味するところについては良くわかりません。kaya は「帆」で ya は「陸」か「岸」と思われるのですが、あるいは ya は「網」かもしれません。

となると kaya-ya-us-i で「帆・網・ある・ところ」と読めたりする……でしょうか。「帆・網」というのが残念ながら意味不明なのですが、柱の間に網を渡すことを舟の帆に見立てたとかかなぁ……と想像してみました。

平苫内(びらとまない)

pira-utur-oma-nay
崖・間・そこにある・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
鶴居村アトコシヤラカの南に「湿原展望台」があるのですが、その敷地内に「平苫内」二等三角点(標高 84.8 m)があります。

北海測量舎図」には、現在「美濃川」と呼ばれる川のあたりに「ピラルトルオマナイ」と描かれていました。この川から 1.5 km ほど仁々志別川(旧阿寒川)を下ったところに雄別鉄道の「平戸前駅」(後の「北斗駅」)がありますが、この駅名は「ピラルトルオマナイ」に由来する可能性もありそうです。pira-utur-oma-nay で「崖・間・そこにある・川」だと考えられます。

「ピラルトルオマナイ」と「平苫内」三角点は 4 km 近く離れていますが、陸軍図では「平戸前駅」の東に「平苫内」という地名が描かれているので、「ピラルトルオマナイ」にインスパイアされて発生した「平苫内」という地名が、更に離れた山の上の三角点の名前としてひっそりと生き残った……ということのように思えます。

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